三代翠という芸能人

 その後はそれらしい引継ぎを行い、赤坂は本日を以て事務所から退所した。

 俺としては何が起きるかわからない明日に怯えるしかなかった。あまりにも混乱しているような赤坂が、ふと冷静になって引継ぎを行っていることが恐怖だった。ぱちぱちとスイッチを切るかのように、時々三代翠について狂乱したかと思えば、落ち着くと普通の業務をこなすのだった。

 もしかして三代翠は言葉通りのファンを作るのが得意なのか?

 ひとまずそういうことにしておく。じゃないと気が気じゃない。

 残りの業務をこなして家に戻る。家に帰る。眠っている弟たちをよそに、青椒肉絲を作って、適当に食べて風呂に入って寝た。

 その日の夢は過去の――両親のことを思い出させるものだった。

 怒鳴る父親と泣く母親。

 何もかもがやっていられなかった。

 それにしては翌日の目覚めはよく、家の中で誰よりも早く起床した。

 鏡の中にいる自分に気づく。

 バラバラの茶髪。適当なところを見ている緑の目。

 これが俺だと認識して、夢のことを無視した。

 あの親たちから譲り受けたもの全部が、呪いのようなものだった。

 昨晩の青椒肉絲は弟たちの腹の中に入るとして、朝食として適当にハムエッグとトーストを用意した。朝は午前六時。まだ学生の弟たちはともかく、社会人として真っ当に動き始める時間だった。

 家事の殆どを弟たちに任せながら自分はやれるだけ働いている。残業が嬉しくなってしまっている。いや、そうじゃないとやっていられないのだ。ワーホリどんとこい、という話だ。そもそも、ワーホリになるよう自分から働きに行っている部分もあるので、仕方がない。

 弟たちを起こさないようにしながら身支度を済ませ、朝食を食べる。朝独特の鳥の鳴き声が聞こえる静けさの中で、三代翠のことを考えた。

 あの子がどんな人生を送ってきたかはわからないが、まだ未知数で、普通に見えることだけは確かだ。赤坂の言っていたことがまだ信じられない。

 あれこれ考えても仕方がなく、事務所に向かった。車を借りて、三代翠の家に向かう。

「おはよーございます!」

 朝から元気に三代翠はストレートの髪を揺らしながら登場した。午前八時のテンションとは思えない。でも学生を終えたばかりと思えば、それらしいとも言える。

「荏田さんの運転楽しみ! 前の人たちはどう言ってましたか?」

「運転……運転にそこまで感想をもらったことはないですね。安全運転はいつも考えてるぐらいで」

「へえ! じゃあ安心ですね。よろしくお願いしまーす」

 車に軽やかなステップで彼女は乗り込んだ。テーマパークのアトラクションに行くような雰囲気だったので、これからの撮影のことなど忘れそうになる。

 大体の芸能人は後方座席に座る。たまに助手席に乗りたがる稀有な存在もいるけれども、その案は却下している。助手席に乗られて誰が乗っているだの、危険があるだの考えたくない。安全に人間を――会社の商品を運ぶのも俺の仕事なのだから。

 三代翠は素直に後部座席に座っていた。

 運転中も彼女は比較的静かだったが、時々彼女は俺のことを聞いた。

「荏田さんは赤坂さんとどんな関係だったの?」

「ただの同僚……ですけど」

「あはは! 敬語じゃなくていいよ。だってこれから長いマネージャー生活だし」

「長いねえ……」

 部長によると赤坂は長かった方だったらしい。半年分の給料をもらって退社した。

 だから彼女の言う長いがうまく判断できない。三ヶ月で長いのかもしれない。

 俺には仕事をし続ける理由があるのだし、あまり関係がないのかもしれないが。

 それに彼女が魔性とされる理由もまだわからない。

「今までのマネージャーのこと覚えてるのか?」

 敬語を抜くことを意識して聞けば、三代翠は一瞬首を傾げ、すぐに頷いた。

「え? うん! 覚えてるよ。清水さんと、板垣さんと、赤坂さんと……清水さんの前もいたっけ? 確か山田さん」

「三人の他にもいたのか……」

「山田さん一番早かったからなあ。みんな認識してなかったのかも」

「新人だった?」

「うん」

 なら納得がいく。試用期間を過ぎてすぐに任命されたのだろう。だから誰の記憶にも残っていない。

「覚えてるんだな」

「まあねー。お世話になった人たちだし」

「いいことじゃないか? 誰かを忘れるよりずっといい」

「へへ! ありがとー」

 自慢げに彼女が笑う。

 なんだ、いい子じゃないか、と俺は思う。誰のことも覚えているのだったら、そこまで悪い子には思えない。

 まあ、そいつらの退職の理由が彼女に集約していなければ、という話になるが。

「荏田さんの運転って静かー。他の人たちもうちょっと荒かった気がする」

「そんなことあるか?」

 あくまでも大事な商品を運んでいるのに? と言おうとして止まった。人権否定だのなんだの、うるさい上司の声が聞こえた。

 三代翠は「あるある!」と言い「荒い人はじゃんじゃん飛ばすんだよね!」と嬉しそうに言った。

「ああいうなんていうの? ハイスピードアクションみたいなの結構好きだから楽しかったなあ。荏田さんはそういう映画とかって観る?」

「映画は……観ないな」

「ドラマは?」

「ドラマも……観ないな」

「え、じゃあアニメ」

「アニメも……だな」

「ええっ! じゃあどうやってお休みの日とか過ごしてるの?」

 そう言われても。思いつくのは酒を飲むかたばこを蒸かすか散歩をするかぐらいしか思いつかない。けれど酒、たばこ、とまだ彼女にとって触れられないものについて言うのもややこしく「散歩」と適当なことを言う。

「散歩?」

 ありえない、とでも言いたげな声だった。

「観ないの? なんか……なんかこう、きょうだいとかで」

「み……観ない……いや誘われたらぐらいは……」

「それって観ないって言うんだよ! 荏田さん、芸能事務所に居るのに不思議な人だね」

「そうか?」

「うん。なんか珍しいかも」

 後部座席でけたけたと三代翠が笑う。

「そういう三代さんはどうなんだよ」

 聞くと、彼女は「三代さんじゃなくてスイでいいのに!」と言う。言えるものか。

 そうだなあ、と彼女は呟いて「全部するよ。昔からお兄ちゃんと観てた」とあっさり言いのけた。

 映画もドラマもアニメも遠い存在だった俺からすれば、意外な声だった。そんなものか、と自分の生活を振り返って頷いた。

「お兄さんが?」

「いるいる! でもお兄ちゃんの話はまた今度ね。とりあえず今日はおしごとー。今日のロケ地、初めて行くところだから楽しみ!」

 ドラマの撮影に向かっているとは思えないハイテンションさに俺は圧倒されながらアクセルを踏む。都内某所、とよく書かれがちなワードを思い浮かべた。

 カーナビが冷静に目的地に到着したことを伝えてきた。

 既に機材等が運び込まれていて、あとは役者が揃うだけの環境が作られていた。

 三代翠は俺が後方座席のロックを外すと同時にぴょん、とうさぎさながらのジャンプで車を降りた。そのままたたたっ、とリズムよく駆け出す。

「おはようございます!」

 元気の良い挨拶だ。俺も続いて挨拶をする。

 三代翠は周辺の、あらゆる人間に挨拶をして回った。最終的に一番奥にいる監督にも駆け寄って挨拶をした。

 俺はどんどん前へと進む三代翠を追いかけるので手一杯だった。名刺を配るのは最低限な人間だとしても、彼女の前へと進む推進力には追いつけなかった。

「おはようございます、綾瀬監督!」

 綾瀬監督はこれからの撮影に備えて身体を伸ばしている最中だった。短い黒髪の男性で、少し小柄な人だった。腹などが出ておらず、健康的な印象を持たせてくる。良い親戚のおじさん、というイメージがピッタリだろう。

 監督は俺を見て「ああ」と手を打った。

「おはようございます。例のマネージャーさんに変わったんだ?」

「そうなんです。新しいマネージャーの荏田さんです」

 両手の人差し指で俺を差す。

「こんにちは。荏田斗真と申します」

 綾瀬監督は温和な男性で、柔らかく頷いた。

「よかったね三代さん。この前の人より、図太そうで」

「はい!」

 図太そうなことがマネージャーに必要なのか?

 ――そっちじゃない。なんで図太くないと、やってられないんだ?

 引っ掛かりを覚えながら、はは、と愛想笑いをした。嬉しそうな三代翠はともかくとして、綾瀬監督まで楽しそうにしているのはどうしてだろうか。

「じゃあ三代さんはメイクしておいで。今日は喧嘩のシーンからだから、血気迫る感じで」

「はーい! よろしくお願いします。荏田さん、またあとでね!」

 またしてもリズムよく三代翠が退場する。

 残された俺と監督の目が合った。

「荏田さん」

「はい」

「三代ちゃんをよろしくねえ」

 呼称が変わったことに目を丸くさせはしたものの、その綾瀬監督の声もさらに柔らかだったので、何も言えなかった。追求する気分でもなくなってしまい俺は「わかりました」と承諾するしかなくなっていた。

「三代と何かあるんですか?」

 どう質問したものかわからず、そう聞いた。三代翠のことを一つでも多く知る必要があった。

 すると綾瀬監督は破顔しながら話す。

「三代ちゃんのデビュー作を作ったのは僕だからねえ。まあ、仲良くさせてもらっているというか、僕が贔屓にしているというか」

「あ……そうだったんですか」

「知らなくてもいいと思うよ。本当に彼女が無名の頃だったから。今も売れ始め……だけれど、良い演技をする子だし、決して悪い子でもないし」

 赤坂とは真逆なことを言う人だ。赤坂は小悪魔だのひどい言いようだったのに対して、綾瀬監督は面倒見の良さから見えている三代翠のことを話していた。

 俺としては、どちらでもいいのだけれど、綾瀬監督の寄り添った見方の方が好きだった。だから、とりあえずは――三代翠の真実が明らかになるまでは、この綾瀬監督のことを信じよう、と思った。

「すみません。無知で」

「いやいや。でも今度見てあげてよ。三代ちゃんが必死になっている頃の作品だから」

「はい」

「きっと彼女も喜ぶよ」

 綾瀬監督の話すペースはとてもゆったりとしていて、これから慌ただしい撮影が始まるというのに自然と脱力をしてしまう。

 これじゃあ寝る、寝るまではいかないけれど気が抜ける、と判断した俺は最低限の礼と雑談をして子の場から逃げた。きっと綾瀬監督と話す機会はそこそこに増えるだろうし、今はこれでいいだろう。

 三代翠がメイクだのをしているうちに撮影関係者に改めて挨拶をしていった。

 挨拶をすると「やっぱり赤坂さん辞めちゃったかあ」なんて声が出たので深掘りをして質問をした。すると大抵の人が「三代さんのこと怖がってたみたいだしなあ」と話す。

 ――怖がるような子か?

 そうは思えない。綾瀬監督の話の後、という話があったとしても、なかなかそうはいきつかない。

 まあ、赤坂と綾瀬監督が見ている三代翠が異なっているのは当然としても、だ。

 三代翠には何かがあるということだけ、本当の予感がした。

「荏田さーん!」

 三代翠が勢いよく視界に飛び出してきた。

 ストレートだった髪は緩く巻かれている。メイクは――メイクのことなんてわからないが、先程までの印象よりは少しキツめな雰囲気を覚えるようになっていた。服装は少し露出が多い程度だった。藍色のニットの下に白いショートパンツを穿いている。剥き出しになっている折れそうな脚が怖い。まあ、これくらいなら渋谷とかにも似たような人が居るだろう。

「どう? ちょっぴりギャルだよ」

「ちょっぴりギャル?」

「ほんのちょーっと、ギャルってこと!」

 えへへ、と三代翠が笑う。悪戯っ子のような笑みに、年相応と思って「いいじゃないすか」と返事をした。

「綾瀬監督に見せて来るね。じゃあ、行ってきまーす!」

 ドタバタと忙しい女優だ。

 ウインクをする姿がもう他人の素振りになっていた。先程のまでの三代翠だったら、投げキッスをするような子ではなかっただろう。やっても手を振るぐらいだったはず。だのに「ちょっぴりギャル」の彼女はもう、投げキッスをするような子に変化したのだ。

 にゃはは、と笑いながらスキップをしつつ彼女は去っていった。

 俺は彼女を見送り、ようやく彼女がやる役柄について確認をした。

 配信系ドラマ『伊織くんの見せどころ!』の、主役――ではなく主役の友人だ。ただのモブではなく、きちんと名前のついた役だ。如月由奈(きさらぎゆな)という名前がついている。大人しい主人公とは違い、ハキハキとした物言いと大胆な行動力がキャラクター付けとしてあるような子だった。なんとなく自分が思う三代翠に似合っている役柄だと思う。

 ドラマは伊織くん、というタイトルの通り名生(みようじよう)伊織という男子が問題やトラブルを解決していく、というスカっとさせるようなものだった。

 ヒロインはそんな問題解決に勤しむ伊織のことを心配している。如月由奈は如月由奈で、そんなヒロインを応援しつつ、伊織のことを、ヒロインのことを支えるサポートとして駆けまわる――そんな物語らしい。

 俺は視聴したことがないのでわからない。動画配信サービスのアプリを立ち上げて確認してみると、レビューは上々と言ったところだ。もしかしたら弟たちが観ているかもしれない。

 俺はぼうっとしながら三代翠の演技を観ていた。演技にもいろいろあると噂されているけれど、俺にはその違いがわからない。

 でも、俺から観ても三代翠の演技はとびぬけていた。

 手先まで何かが宿っているようだった。先ほどまでののらりくらりとしていた姿から、きちんと頼れるサポート役の如月由奈になっている。ピースサインはメリハリがついている。走る姿は凛としている。

 元の三代翠をそこまで知らないとはいえ、そこに別人が住んでいることには、素人の俺でもよくわかった。

「カット!」

 号令がかかる。

「お疲れ様でーす!」

 三代翠が関係者に手を振りながらこちらにやって来た。

「ねえ、どうだった?」

 その瞳ももう如月由奈ではない。誰にでも目を輝かせる女の子ではなく、感想を求めるギラついた瞳がそこにあった。

「俺は演技とかよくわかんないすけど、別人みたいで良かったよ」

 そう言うしかなかった。俺には全く演技がわからない。

 俺の言葉に三代翠は「そっか」と言い「荏田さんに伝わったのなら、おっけー!」と元気よく言った。

 三代翠はそのまま差し入れをいくらか食べて満足した様子だった。

「今度はあたしも差し入れ探さなきゃなー。荏田さん、おすすめある?」

「おすすめって言われても……あ、前に担当してた五十嵐さんとか、彼女が選んだものがよくセンスが良いって褒められてたな。チョコレートクッキーだったか、ジャム入りクッキーだったか」

「ジャムクッキー? 良さそう! 今度買いに行こうよ。ロケの前とかに」

 ふふふ、と三代翠が笑う。よく笑う子だ。

 俺は二つ返事をしながら前の担当事女優の五十嵐さんが買っていたその差し入れが買える店舗をスマートフォンで探す。次のロケ地からさほど遠くない場所なので、まあちょうどいいだろう。

 それから三代翠は次々と撮影をこなした。

 ヒロインと言い合う場面でもきちんと如月由奈を通し、名生伊織と肩を組むシーンでも手足をきちんと如月由奈のものにしながら完璧にこなした。

 部長が手放したくないと話す理由もなんとなくわかる。俺のちゃらんぽらんな視点でも彼女のすごさがわかるのだから、業界としてはかなりの話題性がある女優になっていくことだろう。

 綾瀬監督に頭を下げてその日は終わった。三代翠は相当監督に懐いているようで「またね!」とまるで親族にするような挨拶をした。監督だぞ、と言いたくなったのは言うまでもない。

 帰路のために車のエンジンをかけた時だった。

「どう? あたし結構すごいでしょ!」

 にか、と笑いながら三代翠は後部座席に座る。笑顔で、大人しいのは大変助かる。

「まあ……わからないなりに、すごいと思ったよ」

「わからないの? 五十嵐さんだっていい女優さんなのに!」

「あの人は結構感想とかどうでもいい人で、自分が演技出来れば良いって感じの人だったから」

 前の五十嵐さんはとにかく演技にこだわる人間で、その演技のすばらしさについてわからない人間などどうでもいい人だった。悪く言えばナルシストなその姿勢は、しっかりと広まっていて、誰も彼もが彼女の求める感想を納めていた。俺と言えば、何もわからない人間なので無視され続けていた。

「でもわからない人間に何かを言われるより、あの人は沈黙を選んだみたいなんで」

 俺がそう言ってアクセルを踏むと、彼女は「そんなことないのに!」と口にした。

「えー、わからない人にもわかるようにするのがプロだと思うけどなあ。わ! この人すごい! とか、可愛い! とか思われたら嬉しいじゃん」

 発車する。駐車場を抜けて、大通りに出ていく。

 三代翠の言い分には一理ある。目に留まる演技をした方がいいのは、誰だってわかる。プロよりアマチュア、素人の方が多い世界だ。それに大衆はわかりやすさを選ぶ。

 そうだよなあ、と思いながら俺は運転を続けた。

 返事をするのに少し時間が空いた。

「俺は何もわかんないけど、そういう三代さんみたいな姿勢なのは、いいことだと思いますよ」

 五十嵐さんと三代翠のどちらがいいかはわからない。ただ、誰かに何かを届けるなら、という気持ちであるならば、三代翠の方が良いと思えた。

 俺の返事を待っている間にスマートフォンをいじっていた彼女は、俺がそう答えるなり、「やっぱり?」と言って笑みを浮かべ、嬉しそうにする。その後、すぐにスマートフォンの操作に戻るが、そのにやついた顔は当分消えなかった。

 ――赤坂は嘘を吐いていたんじゃないのか?

 今のところ三代翠と破滅の言葉が合致しない。俺はどのように考えても、シンデレラストーリーを描こうとしている、皿に言えば蕾の女優にしか思えない。

 まだ俺との仲がそこまで深いものではないし、出会ってから数日も経過していないから、その片鱗も見えていないのかもしれない。でも、赤坂の言うような状況になるよりはずっとマシである。俺も仕事を辞められない理由があるので、お互いにいい具合なんじゃないのか?

 俺はそう思いながら三代翠を送り届けた。降り際に彼女が言う。「三代さんじゃなくて、スイね!」それなりにセキュリティが万全なマンションであることに少しの安堵を覚えながら、一度帰社してから帰宅した。

 帰社の際に三代翠との関係、どのようなやりとりをしたのかを聴取されて、警察じゃあるまいし、と思った。「終わってる子じゃないですよ」と言うと、上司は「お前が手綱を持つんだぞ」と念を押された。

 任せてくださいよ! などとは言えない。俺は俺なりに必死になるだけだ。

 それから本当に、何事もなく撮影は続き、日々は平穏に進んでいった。

 ほぼ毎日の挨拶をこなし、適当な話題で車が進む。ロケ地ではつつがなくコミュニケーションをしていた。綾瀬監督をはじめとした各関係者の三代翠に対する評価もそこそこの反応で、嫌われない女優なのだと感じた。五十嵐さんはトゲトゲしていたので、こっちの方が気が楽だ。

 主に綾瀬監督が俺に三代翠のあれこれを話してくれていた。ドーナツが好きなこと、蜂蜜が好きなこと、特にその二つが一緒のハニードーナツ――そのままのドーナツが好きなこと。ちょっとだけ話題に出た兄も綾瀬監督の知り合いであること。三代翠のデビュー作で演じた役は、原作の漫画にはいないキャラクターだったけれど、それなりに受け入れられた役柄だったこと。

 そのオリジナルキャラクターを演じた三代翠のおかげで、綾瀬監督の評価は落ちずに済んだのだと、彼はそう言った。

「脚本が重要だったって話もあるけれど、僕は三代ちゃんに助けられたと思っているよ」

「そうですか?」

 綾瀬監督はたばこを嗜む人間だった。だから一緒に吸う機会がちょくちょく発生していた。

「僕も僕なりにイメージしていたものがあったけれど、掴みづらいものであったことは確かだったから、三代ちゃんが演じて完成したんだよ」

「へえ」

「……荏田くんは本当にこの手の、演じるってことに興味がないみたいだね」

「あ、すみません。いや、興味がないわけではなくて、本当に観てこなかったというか。技術も何も、映画やアニメ、ドラマを観ても適当な――良い話だったなあしか思えないんですよ。悪いことに」

「はは! 誰だってそうなるよ。でもその良い話だなあ、にのめり込んだ人間が此処には大勢居ることを忘れないようね」

 綾瀬監督の言うことは最もだった。「はい」と言って頭を下げると、彼は「三代ちゃんもきっと笑っているよ」と言った。

 事実その話をしたら、三代翠は笑いながら「綾瀬監督らしーい!」と言うのだった。

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