可愛いあの子はマネージャーの俺と破滅したい

伊佐木ふゆ

平坦な道、平凡な日々、平穏なる日常

 ふと平坦な道を進みながら、人生んなんてものを振り返ってしまった。

 人生は何事も平穏な方がいい。

 平坦な人生こそ一番面白味のある人生だ。

 凝り固まった思考を浮かべた。ニコチンの重みが喉にのしかかっているような不思議な感覚を覚えてもう六年が経つ。

 きちんと成人してから踏み込んだ立ち入り禁止区域のことを、俺は大事に思っている。大人になってからも害を成すたばこや酒について、いい付き合いをしながらストレスを発散させてもらっている。これらがないとやっていけない。

 平坦な道路を走行する。免許を取ってからは八年が経過している。じゃあ、俺が仕事というものに、社会人を始めてから八年が経過したことにもなる。酒とたばこのない二年間について、どうやって生きていたのかはよくわからない。日々必死だった。それだけ覚えていればいい。そう思っている。

 人生なんて、平坦な方がいい。

 ジェットコースターのような喜劇と悲劇に見舞われる人生は疲れる。何もない、普遍的な生活こそがすべてだ。なら、普遍とはなんぞや、と語る人もいるだろう。

 俺からすればそう問える時点で普遍、普通なのだと言いたい。

 BGMはない。音楽の趣味がない。好きな音楽ジャンルもわからない。そもそも音楽に興味がない。この世の全部が雑音だと言い切るわけではないけれど、音に注意を向ける暇などなかった。

 とにかく稼いで、とにかく生きる必要があった。

 切迫した日常というものがどれだけ神経をやつれさせるか。やり遂げた、と成人して数カ月が経過したそのころに酒とたばこを覚えて耽った。通称ヤニカス、酒カス。そこにパチスロが入らなかったことだけはマシか、と上司に言われて気づいた。ああ、これって不味い道を進んでいるんだ、と。

 上司のおかげでなんとか荒れた生活を正すことができた。精神力、ひいては何かを貫き通す力だけはあったらしい。さっぱりと酒とたばこを止めた――わけではないけれど、ほどほどの趣味にまでレベルを落とすことができた。酒は収集癖に、たばこはたまのストレス発散になった。これが良い塩梅だ。

 ニコチンが足りないな、というより、口寂しくなったので少しだけアクセルを踏む力が強まる。赤信号の合間にメンソールタブレットを口に三粒放り込んでなんとか気を紛らわせる。

 今日で終わりの仕事について、何も感じることはなかった。今までお世話になりました、という形式だけの挨拶をした。見送りをして、そのまま帰社して次の仕事の引継ぎがやって来る。仕事は終わらない。いつだって自分たちは社会の歯車だ。

 でも、まあ、人事異動か。

 人事異動と言われて喜ぶ人間はなかなかいない。

 同僚はよく最悪。ふざけんな、と声に出している。同僚がその日吸ったたばこの本数だけは多かった。面倒臭いことが起きると、当然のようにストレスがやってくる。仕事をしながらでも一時の楽しみをくれるたばこは手放せない。ストレスの捌け口としてちょうどいい。

 右折する。

 自分に降りかかった人事異動が適切かどうかはともかくとして、この時期なのか、と想わなくもない。季節は初夏。汗ばみが気になるこの頃。シーズンじゃないだろう。普通の会社だったら、異例とされるに間違いない。

 しかし何が起きてもおかしくはないのがこの芸能界というものである。

 伊能芸能事務所という古風な名前の事務所で働いている。なんかもっとキラキラした名前の事務所が大量にある中で、こんな古風な名前を維持しているのには「初心を忘れるべからず」という社長の理念があってこそだ。

 どうしてこんな世界に自分が飛び込んだのかは覚えていない。金銭的な面だったことだけは確かで、事実給料はそれなりに良い。やることは多種多様で人付き合いがややこしいことを抜けばいい仕事だと思う。

 しかし、人事異動か。

 何度も人事異動、人事異動、と繰り返していれば車が自然とカーブを描き、車庫入れもつつがなく終わった。考え事をしながらでも冷静に運転ができる人間で良かった、と車を降りてから思う。

 伊能芸能事務所はそこそこ大きいらしい。自分の会社の規模が、業界のどのくらいを占めるのかを知らない。そこまで考えて生活をする暇がない。

 目的の部屋の前に立ち、ノック。「失礼します」と一声かける。「入っていいぞ」頭を下げながら、入る。

「戻りました」

「荏田。よく戻って来てくれた」

 中にいた部長は自分の机からわざわざ移動をして、客人用のソファに座った。どうぞ、と言わんばかりに向かいに座るよう促されるので、その通りにする。

 帰社するだけでこう言われるのは何処かむず痒い。

 部長がにっこりと笑いながら言うので気持ち悪くもある。

「早速で恐れ入りますが、俺の人事異動はどうしてですか?」

 痒さに耐えられず、早くも冷房が稼働している部長室で上司に問う。

 部長は薄く生えた顎髭をさすりながら考えているふりをしている。そっぽを向いているのが何よりもの証拠だ。この上司は大変わかりやすい。

「荏田はもっとできると思ったから、別の子をお願いしたいんだよ」

 聞こえはいいな、と思った。聞こえはいい。

 でもそう言って面倒なのを押し付けてくるんだろ、と思わずにはいられなかった。相場が決まっている。

「どの子ですか」

「ほら……うちの最近上がってきたスターだよ。女優をしている。しかも天才。容姿端麗。才色兼備」

「情報が多すぎますって。で、名前は?」

「あの子だよ。三代翠」

 聞き覚えがある名前にあー、と覇気のない返事をした。それほど興味がなかった。

 俺は芸能界に思い入れがあるわけではない。テレビにもわくわくした覚えがない。あるのは給料と仕事内容ぐらいだ。車で行う送迎の中で当たり障りのない話題を掴むことに努力をするぐらいの。だから自分が担当する俳優やアイドル以外はほとんど眼中にない。マネージャーとしてあるまじき。でも仕事でそこまで労力を使いたい人間も少ないだろう。そういう話だ。

 思い出せないのでみしろすい、とスマートフォンで検索する。「おいおい」と部長が呆れて肩を竦めた。

 一番最初に目に入ったのは笑っているはずなのにそうは見えない、役に入り込んでいる写真だった。口角だけが上がって、目の些細な動きがかろうじて彼女の笑みを補助している。

 黒髪と深海のような青さのある瞳。

 ファンが作成したのだろうブログ記事があり、事務所公式サイトから引用したような情報たちが羅列されていて、わかりやすい。年齢は十九歳。今月――五月下旬に誕生日を迎えるらしい。

 そうだ。こんな子がいた。スケジュールの都合で会ったことはないけれど、うちの稼ぎ頭として讃えられていた。

「ああ。この子ですか」

 俺がようやく納得をしたので、部長は息を吐いた。

「お前、ファンのブログから情報収集するな」

「この方が正直な反応は見えますよ」

 反論する。どう見えるかよりもどう見られているか、消費されているかが問題だ。俺たちがどう見るかはさして大きな問題ではない。どう消費させたいか、については結構な問題だけれど。

 そのファンが書いているには、三代翠は美人で、小さいと書いてあった。小さいなら可愛いんじゃないか? と思う。小柄で美人が想像できなかった。

 スマートフォンで熱心なファンの声をさらに探す。『可愛い』『美人』『不思議なキャラが似合う』などと言われている。なんとも輪郭を描きにくい。

「まあ……これはこれで、あっているにはあっているか……」

 部長が俺のスマートフォンの画面を覗きながら言う。隣にしれっとやって来るのはやめてもらいたい。

 俺は「すみません」と言って離れて欲しいとジェスチャーする。部長は「ああ」と頷いて元の場所に戻った。

「それでその……この子が問題児なんだ」

「どういう傾向のですか?」

「破滅型だよ。どんなマネージャーもこの子から逃げ出す」

 なんだそれ。

 人間を何かと言う時に破滅なんて言葉を使うか?

 もろに表情に謎、という文字が書かれていたようで慌てるように部長があれやこれやと言ってくる。

「本当なんだよ。この子のマネージャーになったやつはこぞって根を上げる。何をしたのか口を閉ざすし、やってられないと投げ出して退社する。最近お前も忙しいだろう。それはこの子のせいでどんどん社員が辞めていくからだ」

「辞めていく?」

「清水に板垣、それから赤坂……」

「ああ、いないですね。最近」

「それは全部辞めたからなんだよ! あのガキに辞めさせられたんだ!」

 キッパリと、嫌味ったらしく部長が言うので、俺はたじろいだ。そんなに強く言うほどか? とも思ったが人材三名がいなくなるというのはかなりの損害のはず。確かに部長がこう話すのも間違いないのかもしれない。

「でもガキ……って言いますけど、いわばうちの商品じゃないですか。そんなこと言っていいんですか? 知りませんよ。失望したとかなんとか言い出して、別の事務所に行く、とかありえなくもないですよ」

「それは困る!」

 ばん、と部長がローテーブルを叩いた。思わず背筋が震える。

「悪い」

 部長が謝った。俺は「別にいいです」と言いつつ、一度深呼吸をする。

「ええと……どっちなんですか。その……三代翠のことをガキだと思うのか、思わないのかっていうところは」

「ガキはガキでクソガキだが……うちの事務所には居てほしい」

 矛盾している。結局は金のためにこの子どもを保持しておきたいのだろうな、と感じて俺はそれ以上この件について言及するのをやめた。

 年齢は十九歳。一応義務教育済みか、と事務所公式サイトを確認する。身長はファンの言う通り小柄で一四八センチ。体重はシークレット。好きなものと嫌いなものも書いてある。好きなものがドーナツで、嫌いなものはカレーライス。

 一通り確認をしてから顔を上げて再度部長に問う。

「つまり俺がこのガキこと三代翠……のマネージャーをするために、異動をするってわけですよね」

「その通りだ」

 結論まで長かった。俺はため息を吐く。

 相手がどんな芸能人だからって特別扱いをするでもないし、やることをやるだけなのでどうでもいいのだけれど、そうか。問題児か。

 自分が抱えている弟たちのことと同年代である三代翠について考える。弟たちよりは年上だな。じゃあ扱いやすい部類ではあるはず。ガキならガキで扱いを知っている。大人であるならば、相手の希望に沿うだけだ。

 なんとなく自信がついたことに気づいたのか、部長は俺に声をかけた。

「じゃあ挨拶行ってこい。そろそろ三代が事務所に立ち寄る時間だからな」

「うす」

「はいって言え。これから大変なんだから……」

 何故か俺よりも疲労感マシマシ、と言った様子で部長がひらひらと手を振ってくる。わかりました、と一言告げてソファから立ち上がった。

 ここ――伊能芸能事務所は、古風なその名前に反して立派なビルを構えている。古るくも野暮ったくもない清潔なビルの廊下を歩き、喫煙所に寄ってから指定された部屋に向かった。

 ――今の十九歳って何考えて生きてるんだろうな。

 今度弟が二十歳になるので聞いてみようか、と思う。女の子じゃないけど、まあ若者としてそれなりに共通事項はあるんじゃないか?

 と、思いながら指示された部屋の扉の前に立った瞬間だった。

 勢いよくそれは開き、中から男が出てくる。

 見知った顔だった。その男はどん、と俺にぶつかり「ごめんなさい!」と大きな声で言った。

「赤坂」

 名字を呼ぶと赤坂はこちらをチラリと見てから「あとは頼んだ!」は叫んでこの場を後にした。

 一瞬のことで意識が追いつかない。

 何だったんだ? 疑問が浮上する。赤坂は落ち着いている人間だと思っていたのに。

 ――清水に板垣、それから赤坂……。

 部長の台詞を思い出す。赤坂も辞めるリストに入っていた。じゃあこいつは逃げ出したのか?

 推理していると扉の向こうから声がした。

「赤坂さーん!」

 部屋には入ってすぐのところにパーテーションが設置されていて、扉を開けた程度では部屋の全貌を見ることはできない。

 ただそのパーテーションの先から、可愛らしい女子の声がしたことは確かだった。

 彼女は登場した。

 小さい体躯に丸い瞳。ほっそりとした手足と深海のような瞳。黒い髪。長く束ねたツインテール。

 一般的に見て、可愛い部類の人間――いや、こいつ、美人の部類だ。ツインテールでそう見せかけているだけで。

 少女が合致しない。ファンのあべこべな、輪郭すら描けないコメントたちが脳に浮かんでは消える。

 これがそうだ、と現実が言っているのに俺は納得をしない。

「赤坂さんは?」

「あー……逃げた?」

 それらしい嘘が見当たらなかったのではっきりと言ってしまう。

 すると少女はツインテールをいじりながら「逃げちゃったかあ」とつまらなさそうに言った。むす、と表情をわかりやすく変える。これは本当の表情だろう。嘘じゃない。ファン用ではない。

「赤坂さんも駄目だったかあ」

 放り投げるように呟くので顔を顰めた。「駄目だった」だなんて、まるで実験か何かをしているような感覚だ。

 今のところ印象は美人と意味不明。

「えーと……名前は?」

 恐る恐る聞くと、その少女はにんまりと笑って答えた。

「三代翠。スイって呼んでいいよ!」

 ご丁寧な挨拶だ、と思う。しかも印象がいい。明るい声ははっきりともしていて、聞きやすい。訓練された声だと言うことがわかる程度には。

 流石と言うべきか、そうでなくてはと言うべきか。

 少女――三代翠は俺に手を差し伸べる。

「握手しよ!」

「あ? ああ……握手ね。握手」

 ビジネスの始まりだから、と俺は都合のいい解釈をして手を取った。小柄で華奢。とにかく小さい。俺がデカいだけかもしれないが。よくよく考えてみれば、一四八センチと――一八六センチだったか? そりゃあ小さく思うわけだ。

 三代翠は笑ったままだ。そんな彼女はぎゅっと俺の手を掴み、ぶんぶんと振る。

「あなたは?」

「俺は荏田斗真」

「へーえ。えだとーまさん! 荏田さんね。じゃあよろしくね、荏田さん」

 ふふん、と鼻を鳴らした三代翠が光のない瞳で一瞬だけ俺を見つめたのを見逃せなかった。

 馬鹿にされている。

 何回マネージャーを交代させられているのか知らないが、俺にできることはないと思っているんだろう。そういった諦観の混じった瞳だった。

 ――伊達に俺だってマネージャーなんてものやってねえよ。

 できるだけ顔に出ないようポーカーフェイスを気取りながらこちらも手を振った。きゃはは、と三代翠が楽しそうにする。

 俺はこの少女に何をされるのだろうか。

 何代もマネージャーが変わる理由もわからない。ただただ問題児という噂しか知らない。天才。容姿端麗。才色兼備。それだけの記号を持った少女。

 謎に包まれている。頼れるのは一筋縄ではいかないという直感だけ。

 この先の苦労に乾杯。心の中でしながら、俺は三代翠から手を離した。ずっと三代翠はにっこりと笑い続けている。

「で、何がどうなって赤坂は逃げたんだ?」

 自己紹介も終えたので気になっていたことを三代翠に聞く。

 彼女はうーん、と首を傾げ、左右に振る。

「社外逃亡的な?」

 独特な言い回しに、そんな台詞があったのだろうか、と思ってしまう。常にドラマの中で生きているだなんて言ってくれるなよ。

「国外逃亡的な感じか?」

「そんな感じかも。嫌になっちゃったんだって」

 それは会社についてではなく、お前についてなんじゃないか? とは言えなかった。

 あはは、と笑って「それよりさ!」と三代翠が続ける。

「荏田さんがこれからあたしのマネージャーさんになるんだよね? これからよろしくお願いします!」

「ああどうも。よろしく」

 俺の返事に三代翠が目を少しだけ輝かせた。

「へーえ、荏田さんって思ったよりしっかりかっきりしてないタイプなんだ」

「しっかりかっきり?」

「お堅くないね、ってこと!」

 笑い飛ばすように彼女が言う。その通りだ。あんまりかしこまっても面倒だろう。相手は年下だし、そこまで芸能界で地位が高いわけでもない。天才。容姿端麗。才色兼備。三つのワードを思い浮かべながら、原石、というよくある言葉を付け足す。だから部長も手放したくないのだろう。

 理由はさておき、そうかもな、と適当なことを言っておく。

「じゃあ俺は赤坂と改めて引継ぎでもしてくるよ。明日の送迎からよろしくな」

「はーい! じゃあね、荏田さん!」

 ぶんぶんと犬のしっぽのように手を振って見送られる。まあ悪い気分はしない。

 俺は一服してから、引継ぎのために赤坂の元へ向かった。事務所内の会議室を借りている。

 元々文書で引継ぎがされる予定だったのだけれど、そんな余裕が赤坂にはなかったらしい。三代翠が売れ始めているからだと赤坂は話していた。

 待ち合わせまでまだ時間が余っていたので たばこをふかしながら三代翠についてもっと調べてみる。どうやら同年代の子にウケがいいらしい。

 ――憧れの子!

 ――推しっていうか目標。

 肯定も否定も公平に、適当に評判を漁ってみる。まあ悪くはないらしい。小さくとも抱き合わせイベントに人の入りがあり、ドラマ出演も小さな役だが決まっている。なかなか、というか着実に売れる路線を歩いている。

 ――売れているならどうして面倒なことになっているんだか。

 もう一度思う。どう見せたいか、は事務所的に路線として決まっている。どう俺たちがオフの姿を含めて見て思っているか、はどうでもいいのだ。

 だから言える。三代翠はそのファンに見せたい部分以外でやらかしているのだろう。

 確かにそれは問題児だな、と思いはするものの、まだそこまでやばい人間には思えなかった。

 時間が進む。待ち合わせの時間に間に合うよう喫煙室を出て、消臭スプレーをスーツに吹きかけた。

 会議室に向かい、入るなり、赤坂が俺に抱きつこうとしたので避けた。そんな趣味はない。

 赤坂は同僚だった。これから会社を辞めるのだという彼のことを、俺はどう呼べばいいのかわからない。気が付いたら同僚は減っているし、連絡も途切れ途切れになる。友人? 飲みに行ったこともない。

 改めて椅子に座り、自分で三代翠について調べたことを話した。見せたい路線が決まっている以上、彼女が失敗しているとは思えない。彼女が売れている現状は、ひとえに三代翠一人の力ではなく、赤坂の力もあるんじゃないか――と言うと、赤坂は首を横に勢いよく振った。

「そっ、そんなわけないだろ! あの子が全部やったんだ。俺は何もしていないね」

「もっと普通の謙遜の仕方があるだろ。変なことはしていないだろうな」

「俺はね」

「俺は?」

 あまりにも素早く赤坂が言い切るので首を傾げた。

「三代翠が何かしてるって言いたいのか」

「そうだ。あの子はやばい。早く芸能界を追放された方がいい」

「おい」

 ひどいぞ、と言っても赤坂は悪びれもしなかった。当然だ、と言わんばかりにふんぞり返っている。

「荏田には見えてないんだよ。あの子の化けの皮が剥がれた瞬間、お前だって思うさ。こんな職場辞めてやる! って」

「芸能界に住む人間で、表と裏がある人間なんてごまんといるだろ。その一人だったってことじゃないのか?」

「いーや、あれは限度がある。あんなのに出会ったんだ。もう本当にこの世界とお別れをしたくなるね」

「そんなに?」

「そんなに、だ」

 今まで担当してきた奴らを思い出す。妙に神経質な若手俳優、ドラマ撮影の時に異様に他の役者に擦り寄る女、通信制の高校に通いながら芸能界に居座る三代翠以上のガキ。他にも山のように。

 もう八年も経つのか、と思う。それから様々な出会いがあったものだ、と感慨深くなっていると赤坂が叫ぶ。

「荏田! いいか。あの子に詰め寄られたら絶対に嘘は吐くな。吐いたらお前は終わるんだ。社会的に」

「へえ」

「それから家族の話は絶対にするな」

「はあ」

「最後に! 絶対に誘惑されても流されるんじゃないぞ」

「誘惑?」

 話が変わった。何がどうして誘惑なんて言葉が出るんだ。

 赤坂を問い詰めようとするとけらけらと気味が悪い声でこいつは笑った。

「あっはっは。あの子はやばいぞ。本当にやばい。底なし沼みたいなところがある。これを誰も気づいていないんだから、まあすごいよな。でも、すごいのはあの子について誰もリークしないってことだ。そこが一番恐ろしいよ。俺たちは緘口令なんて敷かれていないのにずっとあの子を守ろうとしてるんだから、健気だよな?」

 ペラペラと赤坂が話す。俺には理解ができない。

 ただわかるのは言葉通り受け取ると三代翠が恐ろしい人物で、赤坂はまるで魅せられたかのように狂ってしまった、ということだった。

 熱狂的、と書くことがファンという言葉の由来だったか、と思い出す。

 常にマネージャーがそうであれ、とは誰に教えられたわけでもない。しかし彼は、赤坂はそうなってしまったのだろう。

 ため息を吐く。

 どのような方面で三代翠がおかしいのかは判断がつかないが、やるしかない。

「わかった。気をつけておく」

「大丈夫だよ、俺たちは話さないから」

「了解」

 赤坂の気が狂っているのは本当だろうが、この赤坂の「大丈夫」だけは謎の重みがあり、信じられた。

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