第21話-エピローグ-
何か巨大な渦の中に〝彼女〟は、いた。
絶えず流動し、撹拌され、そして伸びたり縮んだりする。
そこで〝彼女〟は〝彼女〟であり、けれども別の何かでもあった。
いや〝彼女〟という個と、他とを分ける境界が曖昧なのだ。
〝彼女〟は末端であり、一方で根本でもある。
何もかもが遠く拡散し、それでいて彼方の一点に繋ぎ止められているのが判る。
〝彼女〟は一であり、また十でもあった。
そこは混沌であり、虚無であり、また全てだ。
光であり闇――
……〝彼女〟は何かに招かれ、引き寄せられていく。
抗えない。
抗おうとも思わない。
これは自然で、当たり前のことだ。
そうして溶けだしていく。
身体が、記憶が、〝彼女〟自身が――
消える。
現れる。
赤熱し、そして暗転する世界。
そして、
「――――ッ」
光を感じる。
目を開ければ、そこは水の中だった。
〝彼女〟は裸で、何か水槽みたいな容器の内側に身を横たえている。
「脳波、アドレナリン分泌量、乳酸値……異常なし」
声が聞こえる。
揺らめく水面の向こうに、人影が見える。
彼は、こちらを見下ろしているが、その姿は逆光と、泡が弾けて揺らぐのに阻まれて、うまく判別できない。
「覚醒工程、終了」
途端、周囲の水が引いていった。
ゴボゴボと音を立て、それは足元の穴に吸い込まれて消えていく。
そうして裸の〝彼女〟だけが残り、透明の天井が、するりと開いて外気を呼び込んだ。
ぬるい空気。
それが濡れた肌を撫で、なんともいえない不快を呼び起こす。
瞬きし目に入った水を落としていると、水面越しに見ていた彼が、そっと〝彼女〟の口元の呼吸器を取り外した。
「おはよう」
若い男の声。
次第に目の焦点が合えば、線の細い男性が椅子に座り〝彼女〟を覗きこんでいた。
黒い髪、色素の薄い目。艶のあるタイトな、黒いボディスーツで首から下を覆っているせいで、青白い顔が、
「気分は、どうだ?」
気分?
〝彼女〟は体を起こそうとする。
けれども力が入らず、ぜんぜん上手くいかない。
まるで自分の体じゃないみたいに。
「――ぁ、ぁぁ――――……」
声も、上手く発せない。
使い方を忘れているみたいだ。
まるで何年も喋ることをしてこなかったような……。
喉が引きつり、痛みが走る。
唾液が気道に入って、派手に噎せもした。
〝彼女〟は必死に、何か話そうと悪戦苦闘する。
「……さっ、さ、」
さいあく、と。
〝彼女〟は、なんとか、それだけを音として形成した。
喋ってしまえば、一気に喉が楽になる。
まるで、それで外れていたピースが、ピタリとハマったみたいに。
「そうか」
青年は頷いた。
彼が手元のコンソールを操作すれば〝彼女〟の横たわる容器が変形し、動かない上半身を持ち上げてくれる。
次に各部から温風が噴き出して、濡れた全身を乾かし、最後に乾いた布が引かれ、裸身を覆い隠してくれた。
「自分が誰かは、判るか?」
「か、っ、んざき……み、お……」
何とか発音する。舌っ足らずで、聞き苦しい。まるで、赤ん坊のそれだ。
「年齢は?」
「にじゅう、よん……」
「誕生日は?」
「ろく、がつ……ふつ……か」
「生まれは?」
「に、ほん……」
「両親の名前は?」
「たかひこ……それと、かなえ……」
「他に家族は?」
彼女は――神崎澪は、首を横に振った。
「うん、なるほど。じゃあ最後に」
青年は澪の顎に手を添え、そのトパーズ色の瞳を覗きこんだ。
「俺が誰かは、判るか?」
澪は彼を見つめ返し、唇を震わせた。
「そわ……せいや――」
澪の目が見開かれる。
彼女の震える唇が、さらに言葉を紡ごうとする。
「あなた……わたし、のこと……殺した、わよね?」
「殺した」
成哉の答えは短く、冷たく響く。
澪は息を詰まらせ、喉を鳴らす。
「私は……確かに殺された……確かに、死んだわよね? それなのに……どうして私……まだ生きているの……?」
「蘇ったからさ」
「……あなたの、ように?」
「俺と同じように」
成哉は一歩近づき、彼女の顔を覗き込む。
「神崎澪を殺した後、俺はその魂を回収した。〝あるいは魂と呼ばれうる要素〟を。そして、ここで再生した。アスクレピオス――医神の名を冠したこの施設で」
澪の瞳が揺れる。
彼女は力なく笑い、ぐるりと頭の上を見回す。
「どこなの……ここ……?」
「隔離要塞基地マウント・オリュンポス。次元間保安騎士団の拠点だ」
「……私を、リラックスさせる……ための、小粋な……ジョーク?」
「お前に笑ってもらおうとなんか思わないね」
「は、……キッツい」
深々と息を吐いて、澪は、渾身の力を込めて、右手を持ち上げる。
その手は、ゆっくりと、十和成哉の首へとかかる。
「殺してやる……よくも、私を……化け物……っ」
その声は憎しみに満ちていた。
だが、同時に、それはどこか悲しげで、虚ろでもあった。
成哉は彼女の手を掴み、自分の首から引き剥がす。
「無駄だよ。もう、お前は殺意を持って他の組織構成員に干渉することはできない。そういう風に、調整されている」
「――――っ!」
澪の顔が歪む。
彼女は力を振り絞り、成哉を睨みつける。
「それでも、殺してやる……おまえを……っ、何度だって……ッ」
だが、その視線はすぐに力を失い、澪の体は水槽の縁に、もたれるように崩れた。
成哉は静かに彼女を見下ろし、言葉を続ける。
「俺はお前の傍を離れない。ずっと見張ってる。俺は二度と、お前に誰も殺させたりしない。お前がどれだけ俺を憎もうと、どれだけ抗おうと――
俺の隣が、お前の牢獄だ」
澪の瞳が、かすかに潤む。
彼女は唇を震わせ、掠れた声で呟く。
「……どうして?」
「お前が言ったんだろう? そうとも、俺は化け物だ。そして、お前も同じだ。ともに世界に居場所を失い、理の外に、はみ出した。それなのに生きている。これは……呪いだ」
「……呪い――」
「そうだ。俺たちの罪であり、それに課された罰。
俺たちはここで生きるんだ。そして世界を守る。オリュンポスの騎士としてな」
成哉は一歩下がり、澪から視線を外さないまま、職員に小さく頷いてみせる。
職員が黙ってコンソールを操作すると、ポッドが閉じ、澪の体を再び透明な天板の向こうへと押し込んだ。
「――十和成哉……!」
澪が叫ぶ。
その声はガラス越しにくぐもり、彼の足先に落ちた。
成哉は振り返らず、部屋を出る。
背後で、澪の視線が彼を追い続ける。
彼女の目には、憎しみと、恐怖と、そして何か名状しがたい感情が渦巻いていた。
部屋の外、成哉は壁にもたれて、長く、深く息を吐く。
彼は自分の、震えが止まらない手を、じっと眺めた。
「……神崎澪」
その名を呼び、成哉は目を閉じる。
さっき、彼の前に横たわっていたのは、かつての自分だった。
死にたくないと叫び、救いを求め、けれど永遠に縛られたあの日の十和成哉。
自分はあいつを生かしたのだ、と成哉は思った。
そして自らを蝕むのと同じ呪いを、自らの手で彼女に課した――
「……まるで、自分の手をはらわた《・・・・》に突っ込んで、掻き回したみたいな気分だ」
成哉は肺から空気を絞り出すようにして笑う。
よろめきながら、暗い廊下を歩き出す。
「殺すなんかより、ずっとらしい《・・・》や。ああ、この感覚……なんて――魔的」
水槽の中で、澪は静かに目を閉じた。
彼女の意識は、再び混沌の中へと溶けていく。
そこには、かつて彼女が追い求めた自由も、殺戮の喜びも、世界を支配する夢もなかった。
ただ、果てしない虚無と、成哉の冷たい声だけが響き続けていた。
「そわ、せいや……あなた……もういちど……わたしのまえに……――」
呼吸器の奥で発された澪の呟きが、泡に紛れて、そっと水の中を渡る。
彼らは、次元間保安騎士団が擁する牙。
オリュンポスの騎士。
オデッセイ――
彼らは死にながらに生きている者。
世界の間隙に座し、均衡を守りて、我ここに在りと咆哮する漂流騎。
漂流騎オデッセイ~次元の旅と死者の呪い~ 飯塚摩耶 @IIDzUKA
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