第五部

普段は冷静で、すべてを見透かしていそうな――その瞳が、

今は……“純粋な好奇心”に燃えていた。

「……“失われた10年”と“日本中心論”、

先輩は、その二つを――信じますか?」

沈黙が――落ちる。

もちろん……俺はこの話題を知っている。

IMFの報告書を少しでも読んだことがある理性のある人間なら、

この二つのフレーズが――同じ硬貨の裏表なんかじゃないことは知っている。

むしろ……交わることすらない別世界だ。

そして――初めて見る、出原真澄の“本気の笑顔”。

作り笑いじゃない。

そこには、明確な――情熱があった。

……勘違いするなよ。

それは俺に向けられたものじゃない。

ただ――ずっと誰にも言えなかった問いを、ようやく誰かに投げかけられたことへの、

純粋な――熱だ。

「……分かってるんですよ、もちろん。」

彼女は、わずかに前のめりになりながら――続けた。

「だからこそ、先輩に聞きたかったんです。

この――矛盾する二つの視点を、どう受け止めてるのか。」

なぜ……俺なんだ?

ただの――35歳のサラリーマン。

理想なんてとうに捨てて……毎日缶コーヒーとエクセルに埋もれてる男だぞ?

でも……分かっていた。

なぜなら心のどこかでは、今でも――時々、

誰に聞かれることもなく……それを考えていたからだ。

「……問題の核心は、ジャパン・キャリー・トレードにあると思う。」

俺は、静かに言った。

「俺たちは無意識のうちに……世界金融の“実験場”になってる。

国際資本の利益を最大化するための――都合のいい変数。

その中で、“生活者”としての俺たちは……選択肢のないシミュレーションの中を歩かされてるだけなんだ。」

「……だからさ。」

俺は、声を抑えつつ、言葉に――鋭さを込めた。

「日本人の多くが、“逃げ道”を探してるんだと思うよ。

フィクションの中に……ゲームの中に……異世界に。

あるいは、高架の下に。」

「経済の奇跡」という名の――バブルが弾けた瞬間。

その破片は……確実に俺たちの世代を刺してきた。

その時だった。

出原が……静かに立ち上がり、そっと俺の手を握った。

夜の冷たい空気の中で、その手は――思っていた以上に、温かかった。

だが……それ以上に俺を驚かせたのは、その視線だった。

まっすぐ……強く、そして――どこか悲しげな目。

「……やっぱり、私が先輩に期待してたことは、間違ってなかった。」

彼女は、静かに――そう言った。

「……先輩は、他の誰も気づかないものを見てる。

だから、聞かせてください。

このシステムは、本当に持続すると思いますか?

日本は、このまま“経済大国”であり続けられると?」

俺は……深く息を吸い込んだ。

回避の方法を、一瞬だけ……忘れた。

夜が――急に冷たくなったように感じた。

だが……それは風のせいじゃない。

「……俺たちは、数字を“飾る”ことでしか赤字を隠せない国民だ。

際限なく国債を発行し、それを日銀が買い続ける前提で……命を繋いでいる。

輸出は鈍化し、借金は積み重なり、円が“安全資産”であると……

世界が信じ続けてくれることだけに――賭けてる。」

俺は……彼女を見つめた。

彼女は……目を逸らさなかった。

まばたき一つ――しなかった。

「……でも、そんなパーティーが、永遠に続くはずがない。

いつか、そのツケは……この国の庶民に回ってくる。」

彼女は……少し俯いた。

俺の手を握ったまま、ゆっくりと力を抜いた。

まるで、俺の言葉が……彼女の中のどこか、脆い場所に触れたかのようだった。

「……今まで、経済理論をいくつも読んできたし、

いろんな判断を見てきたけど……」

彼女は、かすかに震える声で――言葉を紡いだ。

「……誰も、こんなふうに話してくれたことはなかった。」

「だって、みんな“このシステム”の中で、生きていきたいからでしょ。」

「……じゃあ、先輩は?」

その問いに、出原の目が――鋭くなった。

「……俺はもう、システムなんか信じちゃいない。

でも……逃げ出すほどの金もない。」

一瞬だけ……沈黙が空気を支配した。

ぼんやりとした公園の灯りの下、

この現実に耐えきれない夜の中で――

俺たち二人だけが、この苦さを……共有していた。

ジャパン・キャリー・トレード。

噛み砕いて説明するなら……こうだろう。

ほぼゼロ金利の円で資金を借りて、アメリカの高利回り債に投資する。

日銀がゼロ金利政策を維持する限り……世界の投資家たちは“宴”を続けられる。

その構造のせいで……日本はもう、“世界経済の給仕係”と化している。

テーブルに料理を運び続けているのに、誰からも――「ありがとう」は聞こえてこない。

すべての始まりは……この国が抱えた“集団的なトラウマ”だ。

借金、破綻、バブル崩壊。

そして、“自分が選んでもいない代償”を払わされた世代の……苦しみ。

皮肉なことに、その傷を癒すために選ばれた“解決策”は――

結局、さらなる傷を増やすだけだった。

政府は金を刷り、システムに放り込み、コントロールされたインフレを夢見ていたが……

現実は、生活費の爆上がりと――“安っぽくなっていく希望”だけが残った。

そして彼女は――

「……先輩、やっぱりあなたは狂ってる。そして、凄い。」

柔らかく、でも――本気の声で言った。

「……じゃあ、聞かせて。

この国が、この地獄から抜け出す方法……利上げ以外に、何かあると思いますか?」

今度は――俺の番だった。

俺は……思わず笑ってしまった。

「……政府に、それ以外の方法なんてあるか?」

「もーう、先輩っ!」

出原は唇を尖らせて見せた。

それが素だったのか……それとも鏡の前で練習したジェスチャーかは分からない。

「……かわいくて無邪気な後輩が真面目に聞いてるんですよ?」

俺は……そちらに目を向けた。

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