第五章「生者と死者の境界」

――白峰 京香の視点――


 雪は、時間を止める。


 ここへ向かう山道を歩きながら、私は十年分の記憶と対峙していた。

 時間はあの夜を最後に、私の中で凍ったままだった。


 そして今、またこの場所に呼び戻された。


 死者の声に。


 神崎航から連絡が来たのは、一週間前。

 突然だった。けれど、懐かしさはなかった。ただ、直感的に理解した。


 ――もう“逃げられない”のだと。


「僕は、あの夜の写真を見直している」

「写っていたんだよ、君の後ろに――もう一人」

 私はその一文で、決意した。

 再び冬の亡霊たちに会いに行くと。


 山荘の玄関を開けたとき、彼らの顔が一斉に凍りついたのを覚えている。

 当然だ。私は、ずっと“消された存在”だったのだから。


 中でも、雪村紗季の顔が真っ青になったのが印象的だった。


 「……京香……」


 その声には恐怖と、もう一つ、罪の匂いが混じっていた。


 私は暖炉の前に案内され、事情を話すことになった。


 「神崎くんとは先週、会ってたわ。彼、十年前の事件の“再検証”をしてた」


 「再検証……?」


 高槻明日香が訊く。


 「彼はね、“本当の犯人”を知っていたと思う。だけど証拠が足りなかった。だから、再び私を呼んだのよ」


 「あなたが、何を知ってるっていうの?」


 霧島の問いに、私ははっきり答えた。


 「――あの夜、教師を最後に見たのは、私ともう一人。“あなたたちの中の誰か”よ」


 静まり返る室内。


 誰かが薪をくべ、火がはぜる音だけが響く。


 十年前。


 私は文化部の写真班だった。

 問題の教師――多賀谷雅司は、内申書の書き換えを生徒に強要していた。

 それを証明するために、私は証拠写真を撮った。


 だけど、同時に見てしまったのだ。

 彼が、“ある生徒”を密室で脅していた場面を。


 そして、その夜――


 私は、校舎裏の物置で、血まみれの教師と向き合った。


 「死に際の多賀谷先生が、こう言ったの」


「“あの子”を守れ……。あれは事故だ……あの子は悪くない……」

 「私はその言葉に混乱した。でも、同時に悟ったの。“事故”ではない。彼はかばったのよ、“その子”を」


 明日香が唇をかむ。


 「誰なの、その“子”って……?」


 私は写真を一枚取り出した。


 五枚のうちの一枚。

 “音楽室の窓越しに立つ二つの影”。


 「これは、事件の直前。私が最後に撮った一枚」


 指を置く。


 「ここにいるのが、多賀谷先生と、あの子。顔は逆光で見えないけれど、制服の袖に特徴があるの」


 私は全員の顔を見渡した。


 「この袖――リボンが反対側についている。左利き用の制服よ。学校で正式に認められていたのは、ただ一人」


 そして、名指しした。


 「――雪村紗季、あなたよ」


 室内が凍りつく。


 雪村は震える声で否定した。


 「私は……殺してない……っ。先生とは話しただけ……」


 「でも、あなたはその場にいた。そして、“事故”が起きた後、逃げた。あなたをかばって死んだ人がいたの」


 明日香が口を開く。


 「……神崎くんは、雪村さんを犯人だとは言ってなかった。ただ、“真実のそばにいる”って」


 「ええ。でも彼は何かに気づいたのよ。“本当の嘘つき”が別にいることに」


 私はそのとき、みんなに見せなかった、もう一枚の写真をそっと取り出した。


 それは、事件の翌日。誰かが物置の裏手に何かを埋めている場面だった。


 「これが、神崎くんの言っていた“決定的なネガ”よ」


 その人物は――顔を隠していたが、腕時計と指の形に見覚えがあった。


 私は、燃える暖炉を見つめた。


 「……神崎くんは、私に“その写真を公開するな”って言った。『一人だけは絶対に守れ』って」


 誰を?


 なぜ?


 彼の死は、自分で選んだものだったのか?

 それとも――


 そのとき、リビングに飛び込んできたのは霧島だった。

 彼の顔には明らかに動揺があった。


 「柴田が……いない。どこにもいない!」


 私たちは再び“捜索”に駆り出された。

 だが、今度は違った。


 柴田陽介は部屋ごと姿を消していた。


 彼の荷物、パソコン、衣服――すべてがなかった。


 それは、「逃亡」ではなかった。

 むしろ、「消去」に近かった。


 そして――彼の部屋の枕元に、1枚のカードが置かれていた。


 ジョーカー。


 前回と同じ“赤インク”で、こう書かれていた。


 > 「Wasn't him(彼じゃない)」


柴田陽介が姿を消したことが、私たちの中に暗い影を落とした。


 ジョーカーのカードが示していた意味は、すぐに分かった。

 「彼じゃない」という言葉。その文字の中に隠された真実。


 神崎航が、私たち全員を一つの事件に引き寄せたのは、単なる偶然ではない。

 それは、まるで彼が生きている間に見えなかった“影”を描くための、計画的な動きだった。


 「神崎くん、何を考えていたの?」

 私は、一人ぼっちで書斎の机に向かっていた。


 目の前の写真をもう一度じっくりと見つめる。

 燃えかけの薪の灯りが、暗がりを切り裂くように映る。


 最初に気づくべきだった。

 あの夜、死んだ教師の顔に浮かんでいた「かばっている誰かの影」。


 そして、それが後に続く一連の出来事に繋がっていたこと。


 再び、私たちは全員を集めた。


 霧島が今度は冷静に状況を整理しようとしていた。


「柴田が消えた。だが、それだけではない。俺たちは、事件の真相にまだ手が届いていない」


 「では、何が足りないの?」


 雪村が不安げに問いかける。


「『本当の主犯』だよ」

 霧島は息をつくと続けた。


「神崎が死んだ原因は単純な『事故』じゃない。彼は自らを犠牲にして、あの写真を手に入れようとしていた。そのためには何かが必要だった」


 「何か?」


「…それを知っているのは、俺たちの中の誰かだ」


 その言葉に、私は心底震えた。


 誰かがこのゲームの“支配者”だということを、私はもう知っていた。


 それは、最初から私たち全員を支配していた「影の存在」。

 だからこそ、私たちは十年前に無意識のうちに引き寄せられ、そして今、また同じ場所に集められた。


 「明日香、君が持っていたネガに関して、何か分かったことがあれば話してほしい」


 霧島の問いに、明日香が答えた。


「私はあのネガに関してずっと考えていた。神崎くんが撮影したものか、あるいはもっと古いものか。その写真の裏には、異常なまでに“タイミング”が合うものがあった」


 「タイミング?」


「ええ、教師が死んだ時間と、その写真の撮影時刻。それがぴったり重なるの。あの夜の事件が、誰かのシナリオ通りに動いていたことは間違いない」


 その時、ふと冷たい風が吹き込んだ。


 誰かが窓を開けたような音が、少しだけ部屋に響いた。


 私は目を細めて、ふと思い出した。

 神崎が生前、私に言った言葉。


「君、君には本当の“影”が見えているんだね。だろ?」

 あの言葉の真意が今、ようやく理解できた。


 その夜、私は再び、書斎で写真を眺めていた。

 じっと見つめると、写真の中に不自然な部分があることに気づいた。


 ――映っているのは、ただの教師と生徒ではない。

 その中には、私も映っているのだ。


 他の誰かが、私を“確認”しようとしている。

 その目は、まるであの日の“事件の真相”を暴くために、私を引き寄せていた。


 その時、リビングから急いで駆け寄ってきたのは、再び雪村だった。


 「京香さん……!」

 彼女の顔には汗が浮かび、急いで伝えなければならないことがある様子だった。


「どうした?」


「柴田の部屋にあったもの……です。これを見てください!」


 雪村が私に渡したのは、小さなノートだった。

 表紙は血で塗られ、まるで書かれたものが消えかかっているように見える。


 中を開くと、そこには神崎航と柴田陽介が書いたと思われる、複雑なメモが並んでいた。


 そして、最後のページに書かれていた一行。


「ジョーカーは最後に“真実を消す”」

 その言葉の意味がすぐには分からなかったが、心の中で何かが引っかかった。


 その時、突然ドアが開き、霧島が走り込んできた。


「どうしても気づけなかったんだ!」


 その顔には、冷や汗が浮かび、目は充血していた。


「そのジョーカーが、俺たちの中にいるんだ!」


 その一言が、私たち全員を一気に凍りつかせた。

 今、目の前に立っている霧島が――

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