第二章「死者のメッセージ」

――雪村 紗季の視点――


私は、人が死ぬ瞬間を見たことがない。


 でも、人が「いなくなる」瞬間なら、何度も見た。

 それは、事故だったり、転校だったり、嘘だったり、裏切りだったり。

 誰かが急に距離を置く。無言で関係を終わらせる。気づけば、その人の名前さえ口にすることがなくなる。


 十年前のあの事件も、そうだった。

 神崎 航の死を、まさかもう一度、目の前で見ることになるとは。


 あの日の朝。私は朝食の席で、神崎の姿が見えないことに何となく違和感を覚えた程度だった。彼が部屋で“冷たくなっていた”と聞いたとき、私は真っ先に思った。


(……また誰か、いなくなるんだ)


 鷲尾真理子の表情は変わらず冷静だった。私たちが動揺する中でも、ただ淡々と、事実だけを告げていた。


 「今のところ、不審な外傷はありません。ただ、これは“偶然”ではないと私は思っています」


 霧島が、「神崎が書斎にいた」と証言したとき、私は心臓が跳ねた。

 彼が“誰か”といたのなら、それが誰だったか――私には心当たりがあった。


 その前の晩、深夜2時過ぎ。

 私は、部屋の窓から雪の中を歩く誰かの姿を見ていた。


 女性だった。小柄で、肩までの髪。背中にフードを被っていたけれど、私はあの歩き方に見覚えがあった。


(……明日香?)


 高槻 明日香。

 あの子は、昔から“誰かに秘密を持つ”のが下手だった。

 嘘をつくときは、必ずどこかが震える。視線を合わせられなくなる。

 そして、事件のあとも、彼女の言葉だけは、どこか“抜け落ちていた”。


 朝の動揺が落ち着いたあと、私は一人で書斎に行ってみた。

 誰もいないその部屋には、昨日霧島が言っていたノートが置かれていた。


 私は、ページをめくる。


 「……これ、日記じゃない」


 それは、まるで**“教師の捜査メモ”**のようだった。


 日付、時間、生徒の行動記録。誰がどの廊下をいつ通ったか、何分遅れて職員室に現れたか、話していた内容の断片――。


 私はページをめくりながら、ある名前のところで指が止まった。


 【雪村 紗季】

 《11/15 16:40》

 《倉庫横にて目撃。視線が泳いでいた。何かを見たか?》


 心臓が跳ねた。


 (……なんで、そんなことまで覚えてるの?)


 私は、あの日――“声”を聞いた。

 でも、それを誰にも言わなかった。

 そして、それを“知っていた”人がいたという事実が、背筋を冷やした。


 ロビーに戻ると、柴田と霧島が話していた。


「神崎の死因は、正確にはわからないが、自然死にしてはおかしい点が多すぎる。特に体温の下がり方が異常だ。外に出ていた可能性がある」


「……書斎にいたなら、なにか知ってしまったのかもしれない。あのノートの中身とか」


「いや、ノートを見たのはお前だけじゃないはずだ」


 その言葉に、私は思わず足を止めた。


 (……見ていたの、私だけじゃない?)


 そのとき、真理子が私に声をかけてきた。


 「雪村さん、少し話せますか?」


 二人きりになったサロンの隅で、鷲尾真理子は静かに問いかけた。


「あなたは、あの日――教師の死の直前、資材倉庫の前にいたわね?」


 私は、息を呑んだ。

 言い訳しようとしたが、彼女はゆっくりとノートの1ページを私の前に差し出した。


 【証言メモ No.9】

 《雪村が廊下の影にいたのを目撃。声を聞いていた可能性が高い》


 「……あれは、悲鳴だった。短くて、苦しそうで――怖くて、動けなかった」


 私は、はじめて口にした。


 「誰かの名前とかは?」


 「……聞こえなかった。でも、“二人いた”と思う。悲鳴の直前に、誰かが“やめろ”って言ってた……低い声で」


 真理子は目を細め、静かにうなずいた。


 「ありがとう。その声を覚えておいて。もしまた聞こえるようなことがあれば――知らせて」


 その日の夕方、私は自室の扉の下に、何かが差し込まれているのを見つけた。


 一枚の白い便箋。


 【あなたも“見ていた”んだろ?】


 震える指で便箋を握りしめる。


 裏には、赤いインクでこう書かれていた。


 「次は、あなたの番かもしれない」


その手紙を読んだ夜、私は部屋に鍵をかけ、電気もつけずにじっとしていた。


 「次は、あなたの番かもしれない」


 たった一文で、心拍数が急激に上がる。

 音もなく、足音もなく、誰かが私の部屋の前に来ていたという事実。

 それだけで、充分に恐ろしかった。


 (どうして私が……?)


 私は何もしていない。ただ、あの日、廊下の奥で“声”を聞いただけ。

 でも、そのことを知っているのは――たった一人、あの教師だけのはずだった。


 (この中に、その記録を読んだ人間がいる。私に脅迫めいたことをするほどの誰かが……)


 翌朝、私は意を決して鷲尾真理子に便箋のことを打ち明けた。

 彼女は驚いた様子を見せず、ただ淡々と尋ねてきた。


 「文字は切り貼り? それとも手書き?」


 「手書きです。赤いインクで……男性っぽい字でした。大きくて、ちょっと雑な……」


 「筆跡はコピーできない。実物を見せてくれる?」


 私は頷いて、バッグにしまってあった便箋を差し出した。

 彼女は何度か傾けて光を当て、ゆっくりと分析するように見つめた。


 「これ、ペンのインクがちょっとにじんでる……昨日の夜、窓際で書かれた可能性が高い」


 「えっ、なんで分かるんですか?」


 「雪の湿気。紙がわずかに吸っている」


 鷲尾は言った。


 「つまり、この山荘の中で書かれた“生の手紙”だということ。犯人は、今もここにいる」


 ロビーに戻ると、すでに高槻 明日香が柴田と口論をしていた。


 「だから私は行ってないって言ってるでしょ! 書斎なんて怖くて近づけないよ!」


 「けど、霧島は“誰かが出てくるのを見た”って言ってる。小柄な女性だったって……」


 「私じゃない! 他に小柄な女なんて……」


 そこで高槻は言葉を止め、私の方を一瞬見た。

 (……私?)

 私と目が合うと、彼女はすぐに視線を逸らした。


 (何か知ってる……でも言えないのか)


 私は自分の手が震えていることに気づき、テーブルの下に隠した。


 その日の夕方。

 雪はさらに激しくなり、山荘の周囲はほとんど“孤島”状態だった。


 通信機器は通じない。電波もない。外部との連絡は絶たれている。

 そして――また“異変”が起きた。


 柴田が叫ぶ。


 「……倉庫の鍵が、壊されてる!」


 全員が現場に集まる。裏手の小さな資材倉庫。鍵穴が無理やりこじ開けられていた。


 中を覗くと、空の段ボール、古い灯油缶、そして――誰かが最近まで“そこにいた”痕跡。


 毛布と、温もりの残ったカップがあった。


 「誰かがここを“隠れ場所”にしてた……?」


 霧島が呟くと、柴田が低い声で言った。


 「もしくは、死体を一時的に“隠していた”場所だ」


 沈黙が走る。


 私は吐き気がこみあげるのをこらえながら、背後に立つ高槻を見た。

 彼女は蒼白な顔で口を押さえていた。


 (明日香……あなた、何を知ってるの?)


 その夜、私はふたたび手紙を受け取った。

 今度はドアの隙間ではなく――自分のベッドの枕元に。


 開いたとき、手が震えた。


 【黙っていれば、生き延びられると思ってるのか?】


 裏にはこう書かれていた。


 「神崎は喋ろうとした。それで“死んだ”」


 私は息を呑む。部屋に誰かが入った? 私がいない間に?


 ベッドの掛け布団の乱れ。窓が少し開いている。

 (ここに……いた?)


 私は恐怖と混乱の中で立ち尽くした。


 そしてそのとき――どこかで、ガラスが割れる音がした。


 全員が再びロビーに集まった。


 破られていたのは、2階の談話室の窓。

 雪が吹き込んだ床の上に、ガラス片と、そして――一枚の写真が落ちていた。


 柴田が拾い上げ、眉をひそめる。


 「これ……?」


 皆が覗き込む。


 写真には、10年前の放課後、廊下で並ぶ私たちの姿が映っていた。


 だが、そこには見知らぬ人物が一人――端に小さく、カメラの影に隠れるように写っていた。


 「誰だ、これ……?」


 そして、その写真の裏には赤ペンで一言。


 「“あのとき”と、同じだ」


 私は、膝が震えた。

 “あのとき”――十年前の事件。

 私たちが一斉に“見なかったこと”にした、あの出来事。


 その記憶が、また、誰かの手で暴かれようとしている。


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