第15話 静かな旅立ち、受け継がれる光

あの集会所でピアノが再び音を奏でた日から、美咲とれいの間には、新たな日常が生まれていた。毎週のように集会所へ足を運び、二人で掃除をしたり、ピアノの蓋を開けてその音色を慈しんだりする時間は、美咲にとって何よりもかけがえのないものとなっていた。れいは、あのピアノを前にすると、まるで少女のように目を輝かせ、ひなこさんの思い出を語ってくれた。その語り口は、以前にも増して穏やかで、満たされた喜びに溢れていた。


静かに迎える日々

季節は巡り、寒さが身に染みる冬の足音が聞こえ始めた頃。れいは、少しずつ、穏やかに、弱っていった。元々高齢であったれいにとって、あのピアノの修復と、美咲と共に過去と向き合ったことは、大きな喜びであると同時に、静かな疲労を伴っていたのかもしれない。


ある日の午後、美咲がいつものようにれいの家を訪ねると、れいはこたつに入って、うとうとと眠っていた。その寝顔は、安らかで、まるで幼い子供のようやった。美咲は、れいのそばに座り、そっとその手に触れた。ひんやりとした、けれど温かい手のひら。

「森田さん……」

美咲が小さく呼びかけると、れいがゆっくりと目を開けた。その瞳は、少しだけ霞んで見えた。

「あら、美咲ちゃん。来てくれたのね。今日は、ええ夢を見とったんよ。ひなこと二人で、あのピアノを弾いとる夢やったわ」

れいは、そう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は、美咲の心に、温かい光を灯した。


それから、れいは、日に日に眠る時間が長くなっていった。食事も、少しずつしか喉を通らなくなった。美咲は、仕事の合間を縫って、できる限りれいのそばにいた。温かいお粥を作ったり、昔のアルバムを一緒に眺めたり。れいは、そんな美咲の献身を、ただ静かに受け入れてくれた。


「美咲ちゃんは、ほんまに、ひなこの子やねぇ。あんたがおってくれて、私、ほんまに幸せやったわ」

ある日の夕方、れいは、美咲の手を握りながら、そう呟いた。その声は、微かやったけれど、確かな愛情に満ちていた。

「森田さん……何言うてはるんですか。私の方こそ、森田さんがいてくれはって、ほんまによかったんです」

美咲の目からは、涙が溢れて止まらなかった。美咲にとって、れいは、母の死後、道を失いそうになった美咲を導いてくれた、まさに道標のような存在やった。母との絆を再確認させてくれ、母の夢を教えてくれ、そして、美咲自身の未来への一歩を踏み出す勇気をくれた。


「あのピアノ……美咲ちゃんが、また音を響かせてくれたから……ひなこも、きっと喜んでるわ」

れいは、そう言って、美咲の手をぎゅっと握りしめた。その掌には、わずかな力しか残されていなかったけれど、美咲には、その温もりが、まるで母のぬくもりのように感じられた。


静かなる旅立ち

その夜。美咲がれいの手を握って、眠りについていた時やった。夜中にふと目を覚ますと、れいの呼吸が、いつの間にか、とても穏やかになっているのに気づいた。顔には、微笑みが浮かんでいて、まるで、ひなこと共に、あの秘密の教室で、希望に満ちたメロディを奏でているような、安らかな表情やった。


美咲は、れいの手を握ったまま、ただ、その最期を見守った。冷たくなっていくその手のひらから、魂が静かに体から離れていくのを感じた。苦しむこともなく、穏やかに。まるで、自分に課せられた大切な使命を、全て全うしたかのように。


朝日に照らされた部屋で、美咲は、静かに涙を流した。悲しみだけではなかった。深い感謝と、そして、美咲の心を、確かな光で満たしてくれた、れいへの愛情がそこにはあった。れいは、確かに、美咲の道標になってくれた。そして、美咲が一人で立ち上がれるように、そっと背中を押してくれたんや。


受け継がれる光

れいの葬儀は、家族と美咲だけで、静かに行われた。美咲は、焼香台の前で、れいの遺影に深々と頭を下げた。そこに写るれいさんの顔は、あの集会所でピアノを弾いた時のように、心からの優しい笑顔やった。


美咲は、れいの死を乗り越えるため、そして、れいが美咲に託してくれた「未来」のために、前に進むことを誓った。美咲の心の中には、母ひなこの愛と、れいとの絆が、確かな光となって灯っていた。


数日後、美咲は、再びあの集会所を訪れた。部屋の中央に置かれたピアノは、静かに、そして力強く存在感を放っていた。美咲は、ゆっくりとピアノの椅子に腰掛けた。鍵盤に指を置くと、温かい感触が伝わってくる。


美咲は、れいのために、そして母のために、あの歌を奏でようと思った。震える指で、たどたどしく鍵盤を押す。最初に弾いた時の、澄み切った温かい音が、集会所に響き渡った。


そして、美咲は、歌い始めた。

「♪ いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい……」

美咲の歌声は、決して上手ではなかったけれど、そこに込められた感情は、計り知れへんものやった。美咲の歌声が、静かな集会所に響き渡る。それは、母とれいへの感謝であり、そして、未来への決意を込めた、美咲自身の歌やった。


ピアノの音色と美咲の歌声は、空へと昇っていく光のように、透明で、そして力強かった。美咲は、この場所で、母とれいが夢見た「どんな人でも自由に音を奏でられる場所」を、きっと、作ってみせる。


肥後橋から阿波座へと繋がる、母とれいが遺した旋律。それは、止まっていた時間を動かし、美咲の心と心が重なり合う、美しい協奏曲となって、これからも、未来へと響き渡っていくんやろう。美咲の心の中で、二人の光は、永遠に輝き続ける。

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