第14話 響き渡る、希望の和音
長かった修復期間を経て、ついにその日が来た。第十三話で、業者から修復完了の連絡を受け、美咲とれいは、あの古いピアノが再び音を奏でる日を、心待ちにしていた。
費用と、受け継がれる想い
修復費用の最終見積もりは、280万円やった。美咲にとっては、途方もない金額やった。社会人になったばかりの給料では、到底賄える金額やない。美咲は、その金額を見て、一瞬、心が凍りついた。
「森田さん……こんなに、高額に……」
美咲の声は、震えていた。
れいは、美咲の不安を察したように、優しく微笑んだ。
「心配せんでええよ、美咲ちゃん。これは、私が払うわ。ひなこが残してくれた、私への贈り物やから」
れいは、そう言って、すでに用意していた銀行の振込用紙を美咲に見せた。その金額は、美咲が予想していたよりも、遥かに大きな額やった。
「そんな……森田さん、そんな大金、私には……」
美咲は、申し訳なさと、感謝の気持ちで、胸がいっぱいになった。
「ええんや。これはな、ひなこが私に託した夢なんや。そして、あんたが、その夢を、こうして形にしてくれようとしてる。これ以上の喜びは、ないよ」
れいの言葉は、美咲の心を温かく包み込んだ。それは、単なる金銭的な支援やのうて、ひなこかられいへ、そしてれいから美咲へと、世代を超えて受け継がれる、深い愛情と信頼の証やった。
美咲は、れいの厚意に甘えることにした。その代わり、美咲は、集会所の清掃や、ピアノが戻ってきた後の管理など、自分にできることは全てやろうと心に誓った。そして、いつか、このピアノで、たくさんの人が笑顔になれる場所を作りたいと、強く願った。
帰ってきたピアノ、そして初めての音
秋晴れの、穏やかな日。美咲とれいは、あの阿波座の集会所の前で、固唾を飲んでトラックの到着を待っていた。この日を、どれだけ待ち望んだことか。
やがて、遠くからエンジンの音が聞こえ、一台のトラックがゆっくりと近づいてきた。荷台には、大きな毛布に包まれた、見慣れたシルエットが鎮座している。
「来た……!」
美咲の心臓が、ドクンと大きく鳴った。
作業員たちが、慎重にピアノをトラックから降ろし、集会所の入り口へと運び込む。埃っぽかった集会所の内部は、美咲とれいが半年以上かけて毎週のように足を運び、丁寧に清掃したおかげで、以前とは見違えるほど綺麗になっていた。壁に貼られた子供たちの色褪せた絵も、どこか誇らしげに見える。
ゆっくりと、ピアノが部屋の奥へと運び込まれ、かつてひなこが子供たちに音楽を教えた、あの場所に据え付けられた。白い毛布が剥がされると、そこに現れたのは、美咲が初めて見た時とは、まるで違う姿やった。鍵盤は新品のように白く輝き、木目の深い艶やかな黒色は、部屋の雰囲気を引き締める。錆びついていたペダルも磨き上げられ、静かに光を放っていた。それは、美術品のように美しく、息を呑むほどの存在感があった。
「森田さん……きれい……」
美咲は、感動のあまり、声が出なかった。れいの目からも、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「ひなこ……ひなこや……」
れいは、まるで我が子を迎えるように、そっとピアノの表面に触れた。その指先からは、長年の思いが伝わってくるようやった。
業者の担当者が、最後の調整を終え、二人に向き直った。
「これで、いつでも演奏していただけます。最高の音色を取り戻しましたよ」
担当者の言葉に、美咲とれいは、深く頭を下げた。
作業員たちが帰り、集会所には、美咲とれい、そして、美しくよみがえったピアノだけが残された。部屋には、わずかに新しい木の香りと、ピアノ独特の甘い匂いが混じり合っている。
美咲は、ゆっくりとピアノに近づいた。鍵盤に触れる手が、少し震える。
「森田さん……弾いてみませんか?」
美咲が促すと、れいは、美咲の顔とピアノを交互に見つめた。
「私……もう何十年も、ちゃんと弾いてないから……」
れいの声は、少し不安げやった。
「大丈夫です。お母さんの手紙にも書いてありましたよ。『あんたらしく生きてほしい。無理に頑張らんでもええ。立ち止まってもええ』って。それに、お母さんとれいさんが夢見た場所は、『上手い下手は関係あらへん。どんな感情でも、音に乗せて表現できる場所』なんですよね?」
美咲の言葉が、れいの背中を優しく押した。れいは、ゆっくりとピアノの椅子に腰掛けた。その背中は、どこか緊張しているように見えた。
美咲は、ピアノの中から見つけた、あの譜面をれいに差し出した。
「お母さんが残した、この歌。きっと、このピアノで歌いたかった歌なんです!」
れいが、譜面をそっと受け取った。指で、なぞるように音符を辿っていく。その表情は、集中していて、そして、どこか懐かしさに満ちていた。
れいの指が、ゆっくりと鍵盤に置かれた。震える指先が、鍵盤をそっと押す。
ポーン……。
澄み切った、深く、そして温かい音色が、集会所の空間に響き渡った。長年の沈黙を破って、ピアノが再び、息を吹き返した瞬間やった。その音色は、美咲が想像していたよりも、遥かに美しく、そして、どこか懐かしい響きがあった。
れいは、一つ、また一つと、鍵盤を叩いていく。最初はたどたどしかった指の動きが、次第に滑らかになっていく。メロディが、ゆっくりと形を成していく。それは、美咲が初めて聞いた、母とれいの「秘密の歌」やった。優しくて、切なくて、そして、どこか力強い。
響き渡る、希望の和音
美咲は、れいの隣に立ち、その演奏をじっと聞いていた。美咲には楽譜は読めへんけど、メロディが美咲の心に直接語りかけてくるようやった。そこに、母の想いが、れいの思いが、そして、この場所で子供たちと触れ合った喜びが、全て込められているように感じられた。
やがて、れいの演奏に合わせて、美咲は、口ずさんだ。
「『いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい。』」
譜面に書かれた母の言葉。それは、母の願いやった。美咲の歌声は、決して上手ではなかったけれど、そこに込められた感情は、誰にも負けないものやった。
れいは、美咲の歌声を聞くと、演奏を止めずに、美咲の方に顔を向けた。その瞳は、涙で潤んでいたけれど、美咲が初めて見る、心からの笑顔やった。れいの声が、美咲の歌声に重なる。
「♪ いつか、この歌を、あの子と、そして、みんなと歌いたい……」
れいの歌声は、少し掠れていたけれど、温かくて、ひなこの歌声を知っているかのような響きがあった。二人の歌声が、集会所の静寂に、ゆっくりと溶け合っていく。それは、母と娘、そして母の幼馴染の、三人の心が重なり合う、美しいハーモニーやった。
歌い終えると、二人の間には、温かい沈黙が訪れた。美咲の目からは、とめどなく涙が溢れていた。それは、悲しい涙ではなく、感謝と、喜びと、そして、未来への希望に満ちた涙やった。
美咲は、ピアノの鍵盤にそっと触れた。その指先から伝わる、温かい振動。それは、単なる音の響きやのうて、母の生きた証、そして、母が美咲とれいに託した、未来へのメッセージのように感じられた。
「ありがとう、美咲ちゃん。ひなこも、きっと、ここで一緒に歌ってくれてるわ」
れいの言葉に、美咲は深く頷いた。そうや。お母さんは、確かにここにいる。このピアノの音色の中に。この歌の中に。そして、美咲とれいさんの心の中に。
美咲は、このピアノが、再びこの場所で、たくさんの人の笑顔と歌声で満たされることを願った。それは、母が夢見た「どんな人でも自由に音を奏でられる場所」を、美咲が、れいと共に、これから作っていくという、新たな決意の証やった。
肥後橋から阿波座へと繋がる、母の残した旋律。それは、止まっていた時間を動かす、二人の心と心が重なり合う、美しい協奏曲となり、今、再び、この場所で、新たな未来へと響き渡り始めたんやった。美咲の心の中で、母の「秘密の教室」の夢は、もう一つの「虹の広場」として、鮮やかに息づいていた。
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