第5話 レンズに映る、もう一つの世界
れいの家で過ごした時間は、美咲にとって、心の奥底に染み渡る温かい光のようだった。れいが語る母の青春は、美咲が知らなかった「小野ひなこ」という一人の女性の息吹を美咲の心に吹き込んだ。特に、進路に悩み、弱さを見せていた母の姿は、美咲自身の葛藤と重なり、深い共感を呼んだ。無理に前を向かなくてもいい、立ち止まってもいい――れいの言葉は、美咲の心を縛り付けていた鎖を、少しずつ解いていくようだった。
数日後、美咲は再びれいの家を訪れた。今回は、母の遺した「思い出」の箱から、あの古いフィルムカメラと、バラバラになった写真の束を持参した。まだ開けていない最後の手紙は、相変わらず箱の奥にしまわれたままだ。それでも、少しずつ、母の過去に触れていく中で、いつか、その手紙を開く日が来るだろうという予感が、美咲の心の中に芽生え始めていた。
リビングのテーブルには、昨日美咲が整理した本や書類が、再び少しだけ散乱していたが、美咲はもう気にしなかった。この、物で溢れた温かい空間が、今の美咲には心地よかった。れいが淹れてくれた、少し苦めのコーヒーを一口飲む。
「あの、森田さん。このフィルムカメラ、母がすごく大事にしていたって聞きましたけど、これって、まだ現像できるんでしょうか?」
美咲は、フィルムカメラをそっとテーブルに置いた。レンズには、やはり薄く埃が被っている。
れいが、そのカメラを手に取り、ゆっくりと撫でた。その指先からは、深い愛情が伝わってくるようだった。
「ああ、これはね。ひなこが、人生の節目節目で、いろんなものを写してたんだ。美咲ちゃんが生まれてからも、たくさん撮ってたよ」
れいの言葉に、美咲の胸が高鳴った。このカメラには、美咲が知らない母の日常、そして母の視点が記録されているのだろうか。
「どこか、現像してくれるところ、ありますかね?」
「もちろん。古いカメラのフィルムでも、ちゃんと対応してくれる写真屋さんがあるよ。肥後橋にも、昔ながらの店があるはずだ」
れいの言葉に、美咲の顔に、久しぶりに微かな光が差した。
翌日、美咲とれいは、肥後橋にある昔ながらの写真店を訪れた。ショーウィンドウには、古びたカメラや、セピア色の写真が飾られている。店の奥から出てきた店主は、白髪交じりの温厚な顔立ちをした男性だった。
「あら、これは珍しいカメラだね。随分と使い込まれているようだ」
店主は、フィルムカメラを手に取ると、懐かしそうに眺めた。
「母が、ずっと大切にしていたもので。中にフィルムが入ってるようなんですけど、現像できますか?」
美咲が尋ねると、店主は丁寧にカメラを調べ、ゆっくりと頷いた。
「ああ、大丈夫だよ。ただし、古いフィルムだから、どんな風に写っているかは、現像してみないと分からないがね」
美咲とれいは、現像を依頼し、数日後にまた来ることを約束した。
数日後。美咲は、新しい職場の研修を終え、へとへとになっていた。慣れない環境、知らない人々。社会人としての責任感が、美咲の肩に重くのしかかる。母がいない現実が、時折、美咲の心を締め付ける。こんな時、母が生きていたら、どんな言葉をかけてくれただろう。そう思うたび、胸の奥がチクリと痛んだ。焦り、不安、そして、母を失った悲しみ。様々な感情が、美咲の心の中で複雑に絡み合っていた。
そんな中、れいから連絡があった。
「美咲ちゃん、写真、現像できたって」
その声に、美咲の疲れた心が、ふっと軽くなった。美咲は、仕事帰りにそのままれいの家へ向かった。
れいのリビングのテーブルには、真新しい写真が何枚か並べられていた。モノクロームのものもあれば、少し色褪せたカラー写真もある。どれも、この古いフィルムカメラで撮られたものだという。
「どれどれ……」
美咲は、一枚一枚、手に取って見ていく。
そこに写っていたのは、美咲がまだ幼かった頃の日常の風景だった。
母が、美咲の手を引いて公園で遊んでいる姿。美咲が初めて自転車に乗れた日、転んで膝を擦りむいて、泣きじゃくる美咲を、母が抱きしめている写真。そして、美咲の誕生日。ローソクの立ったケーキの前で、満面の笑みを浮かべる幼い美咲。その横で、やはり優しい笑顔で見守る母の姿。その写真は、美咲が覚えていない、あるいは記憶の隅に埋もれていた温かい思い出を、鮮やかに呼び覚ましてくれた。
「この時のひなこはね、美咲ちゃんのこと、本当に楽しそうに話してたわ。美咲ちゃんの成長が、ひなこの一番の喜びだったって」
れいが、静かに語りかけた。その言葉に、美咲の目から、温かい涙が溢れ出した。それは、悲しい涙ではなかった。母の深い愛情を感じる、優しい涙だった。
一枚の写真に、美咲の指が止まった。それは、美咲が小学校に入学する日、真新しいランドセルを背負い、誇らしげに立っている美咲を、母が少し離れた場所から、このカメラで撮っている写真だった。そして、その写真の隅に、母の影がわずかに写り込んでいる。まるで、美咲の人生の節目節目に、母が寄り添い、その瞬間を大切に記録してくれていたかのように。
そして、美咲は、ある写真に息を呑んだ。
それは、ひなこが、病院のベッドに横たわっている美咲を、優しい眼差しで見つめている写真だった。まだ幼い美咲は、点滴につながれ、眠っている。美咲が幼い頃に、一度だけ大きな病気をしたことがあったのを思い出した。その時の、母の不安と、それでも美咲を慈しむような深い愛情が、写真からひしひしと伝わってくる。その一枚の写真が、美咲の記憶の奥底に眠っていた、あの時の母の痛みを、まるで自分のことのように感じさせた。
「ひなこはね、美咲ちゃんのどんな瞬間も、逃したくないって、いつもこのカメラを持ち歩いてたわ」
れいの言葉に、美咲は、胸がいっぱいになった。このカメラには、母の愛が、一つ一つの写真に込められていたのだ。それは、美咲が漠然と感じていた「母の愛」とは違う、より具体的で、深く、温かい、母の確かな「証」だった。
現像された写真の中には、ひなこの自撮り写真も数枚あった。病室のベッドで、少しやつれてはいるものの、カメラに向かってピースサインをする母。そこには、美咲が知る、どんな時も明るく、前向きな「ひなこ」がいた。そして、最後の数枚は、何も写っていない、真っ黒な写真だった。フィルムの最後の部分だろうか。しかし、その真っ黒な写真が、美咲には、母の最期の息吹、そして、美咲への、まだ見ぬメッセージのように感じられた。
れいが、美咲の様子を静かに見守っていた。美咲は、一枚一枚、写真を大切に手に取り、まるで母の体温を感じるかのように、そっと胸に抱きしめた。
「お母さん……こんなに、私のこと、見てくれてたんだ……」
美咲の声は、震えていた。瞳から、温かい涙がとめどなく溢れ落ちる。それは、悲しみだけではない、深い感謝と、そして、母の愛に包まれるような、優しい感情だった。
ふと、美咲は、まだ箱の中に残る、最後の手紙の存在を思い出した。
「森田さん、私、まだ、母からの最後の手紙、開けられてないんです。怖くて……」
美咲が言うと、れいが静かに、しかし力強く言った。
「大丈夫。美咲ちゃんが、開けたいと思った時が、その時だ。ひなこは、きっと、美咲ちゃんが一番いいタイミングで、その手紙を読んでくれることを、分かってるよ」
れいの言葉に、美咲は深く頷いた。そうだ。焦る必要はない。このフィルムカメラの現像が、美咲の心を少しだけ、前向きにさせてくれたように、手紙もまた、美咲が本当の意味で母の死を受け入れ、前へ進むための、大切な一歩となるだろう。
美咲は、手に抱えた写真をもう一度見つめた。そこには、美咲の知らなかった、そして知っていた、様々な母の顔があった。そして、その全てが、美咲の心の中で、一つの光となって輝き始めていた。止まっていた時間が、今は確かに、温かい音を立てて、動き出している。
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