第4話 遠い夏の日の光
美咲が森田れいから譲り受けたのは、彼女の古いアパートの鍵だった。
「私が家にいる時に来るのは大変だろうから、いつでも好きな時に来て。ひなこのアルバムやカメラも、私の方にもたくさんあるから。整理するのを手伝ってくれると助かるわ」
れいからの連絡に、美咲は二つ返事で快諾した。自分の新しい職場が始まるまでの間、いや、始まってからも、この作業は美咲にとって、失われた母の痕跡を辿る唯一の道標になるだろう。
老朽化したアパートの廊下は、わずかにカビの匂いがした。鍵を回し、ドアを開けると、そこには、ひなこの家とは対照的に、物が溢れかえった空間が広がっていた。壁には、たくさんの写真が貼られている。若い頃のれいとひなこ、見知らぬ人々の顔、そして、幼い頃の美咲の写真もちらほらと見える。テーブルの上には、使いかけの編みかけの毛糸玉と、読みかけの古い文庫本。全てが、時間の経過と、そこに暮らす人の温かさを物語っていた。
美咲は、奥の部屋から聞こえる微かな物音に気づいた。声をかけると、背中を丸めた小柄な女性が、ゆっくりと振り返った。森田れいだった。彼女は、前回会った時よりも、さらに小さく、そして、どこか儚げに見えた。白髪が短く刈り込まれ、深く刻まれた皺が、その人生の長さを物語る。だが、その瞳だけは、通夜で見た時と同じ、静かで、しかし確かな光を宿していた。
「美咲ちゃん、よく来てくれたね。狭い家でごめんよ」
れいの声は、穏やかで、どこか昔話の語り部のような響きがあった。
「いえ、お邪魔します。あの、お片付け、手伝わせていただきます」
美咲は、持ってきた手土産をテーブルに置くと、早速、散乱した本や書類を整理し始めた。
れいが、美咲の作業を見守りながら、ふと壁に貼られた一枚の古びた写真に目をやった。それは、桜川高校の校庭で、ひなことれいが満面の笑顔で並んでいる写真だった。ひなこは、まだあどけない笑顔で、片手に大きなスケッチブックを抱え、もう片方の手で、れいの肩を抱いている。れいもまた、どこか照れたように微笑んでいた。
「あの頃は、二人でどこへでも行ったねぇ」
れいは、遠い目をして呟いた。その声には、懐かしさと、そしてわずかな寂しさが混じり合っていた。
美咲は、れいの言葉に耳を傾けながら、ふと、このれいという人が、どれほどの時間を生きてきたのだろう、と思った。自分はまだ20歳。母の人生も、自分にとってほとんどが「知らない過去」だった。しかし、れいさんは、その「知らない過去」のほとんど全てを、母と共に生きてきたのだ。その事実が、美咲の心を掴んだ。
「森田さん……お母さんは、どんな高校生だったんですか?」
美咲は、思い切って尋ねた。知りたい。自分が出会う前の、ひまわりのような笑顔の母が、どんな風に青春を過ごしていたのか。
れいは、壁の写真から視線を美咲に移すと、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「ひなこはねぇ……」
そして、れいの瞳は、遠い過去を見つめるように、細められた。その視線の先に、半世紀以上も前の、鮮やかな情景が広がっていく。
(ここから、森田れいさんの回想シーン。彼女が80歳を超えた今の視点から、ひなこさんとの高校時代の思い出が語られます。)
「そうねぇ……ひなこは、いつも太陽みたいな子だったよ。どこにいても、ひなこがいると、そこだけ明るくなるような。私は、そんなひなこの隣にいるのが、好きだったんだ」
れいの声は、ゆっくりと、しかし鮮明に、その時の情景を紡ぎ始めた。
「夏の日だったわね。うだるような暑さで、アスファルトの匂いがむせ返るみたいだった。それでもひなこは、校舎の裏にある古い理科室へ行くって言って聞かなくて。私は、そんなひなこを、いつも半ば呆れながら、それでも放っておけなくて、ついて行ってたっけ」
れいが語りかける言葉には、当時の空気、匂い、そしてひなこの活き活きとした姿が色濃く現れていた。
「あの理科室はね、古くて薄暗くて、生徒たちからは『秘密の教室』って呼ばれてたの。普段は誰も近寄らない場所。でも、ひなこにとっては、宝物がいっぱい詰まった場所だったんだ。埃まみれの棚には、奇妙な実験道具が並んでて、窓からは、校庭の木々がぼんやりと見えていたわ」
「ひなこは、いつもその部屋の隅にある古いアップライトピアノに座って、下手くそな歌を歌ってた。ドレミもまともに弾けないのに、楽しそうに指を動かしてね。私は、その隣で、ひなこのスケッチブックを眺めたり、本を読んだり。特別な会話をするわけじゃないんだけど、そこにいるだけで、私たちは繋がってるって感じてた」
れいの声は、わずかに震えていた。その震えは、失われた時間への郷愁と、ひなこへの深い愛情が入り混じったものだった。美咲は、その震えを、自分の胸の奥で感じた。
「ひなこは、いつも突拍子もないことを思いつくから、周りの人を振り回すこともあった。でも、どんな時でも、彼女の心はまっすぐだった。誰かの痛みに寄り添う優しさも持ってた。私なんかよりも、ずっと、周りのことを見ていたわ。だから、みんな、ひなこのことが好きだったの。もちろん、私もね」
れいが語るひなこは、美咲が知る母の姿と重なりながらも、美咲が知らなかった一人の人間としての魅力に満ちていた。特に、「私なんかよりも、ずっと、周りのことを見ていた」というれいの言葉には、美咲の知らない、深い意味が隠されているように感じられた。それは、れい自身がひなこに対して抱いていた、敬愛にも似た感情なのだろうか。
「あの頃のひなこは、いつも未来を夢見てた。この狭い街を出て、広い世界を見てみたいって。そんな夢を語る時のひなこの目は、本当にキラキラしてたわ。私も、ひなこが夢を語るのを聞くのが好きだった。隣にいるだけで、自分まで、広い世界に行けるような気がしたから」
老いたれいの目には、遠い日のひなこの輝きが映っているようだった。その瞳の奥には、ひなこと共に過ごした、かけがえのない時間が、確かに息づいていた。美咲は、その光景を想像した。制服姿の母とれいが、薄暗い教室で、未来を夢見て語り合う姿。美咲が知る、温かい母の声が、その光景の中に響いているような気がした。
れいの回想は、美咲の心に、これまで知らなかった母の「輪郭」を与えていく。それは、ただの過去の断片ではない。母が生きてきた証であり、れいとの絆の結晶だった。そして、その全てが、今、美咲の心をゆっくりと温め、止まっていた時間を、確かに動かし始めていた。
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