第14話 境界の崩壊

──ポタ……ポタ……ポタ……


水の滴る音が、寝室の静寂を切り裂く。


健二の肩にそっと触れる白いワンピースの女の手。


それは異様に細く長く、骨ばった指が夫の体を包み込むように絡んでいる。


「……健二……」


由美は震える声で呼びかけた。


しかし、彼は微動だにせず、虚ろな目で立ち尽くしていた。


いや……目が変わっている。


──黒く潰れている。


「……健二、しっかりして!!」


由美は恐怖を押し殺しながら、夫の腕を引いた。


だが、その瞬間。


白いワンピースの女が、ゆっくりと顔を上げた。


その黒い瞳が、じっと由美を見つめる。


「……あなたも、こちらへおいで」


低く掠れた声。


ぞくりと、背筋が凍る。


「いや……絶対に行かない!!」


必死に健二の腕を引き寄せる。


だが、夫の身体は異常なほど冷たく、まるで水の底に沈んでいるかのように重い。


──ずる……ずる……


健二の身体が、ゆっくりとクローゼットの奥へと引きずられていく。


「ダメ!! 健二!!!」


由美は全身の力を込めて夫を引き戻そうとする。


しかし、女の手が絡みつくたび、夫の体がさらに冷たくなっていく。


(このままでは、健二が完全に持っていかれる!!)


◆美咲の叫び

「ママ!!!」


突然、美咲の叫び声が響いた。


振り返ると、美咲が両手に塩を握りしめて立っていた。


「やめて!! パパを返して!!!」


そう叫びながら、彼女は一気に塩をクローゼットの中へ投げ込んだ。


──ザッ!!!


まるで霧が晴れるように、クローゼットの奥が一瞬、ぼやけた光に包まれる。


「ギィィィ……!!!」


女が、耳を裂くような声を上げた。


まるで水の底から絞り出したような苦しげな悲鳴。


健二の体が急に軽くなり、由美は夫を力いっぱい引き寄せた。


ドサッ!!


夫の身体が床に倒れ込む。


そして──


クローゼットの中にいた女は、消えていた。


部屋には、静寂が戻っていた。


ポタ……ポタ……


水の音も、止まっている。


◆帰還

「健二!!」


由美は夫の身体を抱き起こした。


「……う、うぅ……」


健二の目がゆっくりと開く。


黒い潰れた瞳は、元に戻っていた。


「由美……?」


彼は困惑したように瞬きを繰り返した。


「俺……何が……?」


「戻ってきたのね……!!」


由美は夫を強く抱きしめた。


美咲も泣きながら、二人にしがみつく。


「パパ!! もうどこにも行かないで!!」


「……ああ、絶対に」


夫は、力なく美咲の頭を撫でた。


まるで、夢から覚めたばかりのように、まだ朦朧としている。


だが、確かに──


彼は、生きて、戻ってきたのだ。


◆全ての終わり……?

翌日。


由美たちは、この家を引き払うことにした。


もう、この家にはいられない。


朝の光が差し込むリビング。


昨日までの恐怖が嘘のように、静かだった。


まるで何もなかったかのように。


荷物をまとめながら、ふと玄関に目をやる。


濡れた足跡は、消えていた。


健二も、体調はまだ戻らないものの、意識ははっきりしている。


「……やっと終わったのよね?」


由美は、美咲の小さな手を握った。


「うん……」


美咲は不安そうに、玄関の方を見つめた。


「でもね……ママ」


「何?」


娘は、ぽつりと呟いた。


「昨日の夜……最後にね……パパの後ろに……」


「……」


「もうひとり、パパがいた気がするの……」


由美の血の気が引く。


そのとき、ふと気づいた。


──玄関の隅。


そこに、小さな水溜まりができていた。


ポタ……ポタ……


水の滴る音が、静かに響いた。


終わりではない。

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