あぶないハンディファン【短編】
カズサノスケ
あぶないハンディファン
一歩進むだけで汗が噴き出る、立っているだけでも汗がにじむ。多くの人々が、日陰から日陰へと渡る様に歩く夏本番。
「あちぃ~~、しぬぅ~~」
高校生の神宮寺紗子にとってハンディファンは必需品だった。
「あぁ……、おあしすぅ」
うっかり忘れて家を出てしまった時は、例え500mほど進んでしまった後でも取りに戻る。それがある1日か、ない1日かでは天国と地獄ほどの差だからだ。
だが、ある事件を機に紗子はハンディファンのない夏を過ごす事になる。例え、それが地獄だとしても……。
◆ ◆ ◆
――あつぉ……。もう、やだぁ……。
右手に持ったハンディファンは顔の5cm手前にある。紗子にとって、それが定位置だ。風をそよがせながら駅の階段を登っている時の事。
『ブゥ~~~~、ブビッ』
――ん?
それは、前の方から聞こえた様な気がした。紗子はけだるそうに少し頭を上げる。夕方に差し掛かろうかという頃、それほど人影は多くない。正面には、三段上を進む紺色のスーツの、禿げあがった頭のおじさんが見えるだけ。
――ん? くっさぁ!!
「おえっ! ゲホっ、ゲホっ」
むせるとおじさんが振り向く。脂ぎった顔で目を細めて睨みつけて来る様子に、咳き込むならマスクしろ、と言われた様な気分となる紗子。
――この臭い、おならじゃん……って事は。
臭いの元。おじさんは汚い物から逃げるかの様に、足早に階段を登り始めた。自分がおならを撒き散らした事は棚に上げ。まるでコロナ過の時の様に、他人の衛生感覚だけを疑ってみせる事に怒りがこみあげて来る。
――あのぉ、ハゲぇっ!!
他人のそれを不意に嗅がせられてしまった事はあった。だが、その時とは違う。臭いの塊を一気に鼻の中に押し込まれた様な不快感。
呆然と立ち尽くしていれば、ブゥーン、と普段は気にも留めないハンディファンの音が妙に耳に残る。
「まさか……」
◆ ◆ ◆
「ギョえっ……。ゲホッ、ゲホッ。やっぱりか!」
独り、むせていた紗子だった。駅を出て、いつも使う帰り路を通り、途中で脇道に入って少し進んだところにあるとんこつラーメン屋の前。以前、たまたま前を通った時に嗅いだ、独特な脂臭さに鼻をやられた覚えがあった。
塊となったそれを鼻にねじ込まれた様な感覚に、涙目となる。その潤んだ目でハンディファンを見つめる。
「考えた事もなかった」
火照った首筋、ほっぺにおでこを心地よくしてくれる風。ハンディファンから送られて来るそれが、そもそもどこから来ていたか――紗子は頭の中でイメージする。
普段意識していないだけで、ちょっと考えれば簡単な仕組みだった。ファンが回ると前方の空気が吸い込まれ、回転で勢いをつけた状態で顔に当たる。つまり――
「あのハゲの、おならを掻き集めて吸い込んだのか……」
ハンディファンが何の悪気もなく勝手にやった事ではある。しかし、自身が両手を使ってそこら中のおならを集めて嗅いでいる姿が目に浮かんでしまった。
「ずっと、これまで……」
どこから来たのか得体も知れない空気。それを掻き集めて自身の顔にぶつけてきた事にゾっとした。空気は風上から来る。つまり、自分の目の前を歩く者の残り香すら逃さない吸引機だったのだ。
◆ ◆ ◆
翌日の学校。化学の授業――
「――で、あるからして、臭いと感じるのは臭素という物質が鼻の中に付着したからという事になるな」
――なっ!? 物質って……。つまり……。
紗子がそっと右手を挙げれば、気付いて首を傾げる化学の教師。
「ほぅ、神宮寺とは珍しいな。どうした、質問か?」
紗子の化学の成績は決していい方ではない。普通よりちょっと下程度で、何か質問するのはこれが初めてだった。
「あのぉ。例えばです、例えばですよ。他人のおならを嗅いでしまって臭い思いをする事ってあるじゃないですか。あれって、もしかして?」
頷きながら聞いていた教師が苦笑い。
「まあ、その、汚い話にはなるがそういう事だ。臭素がお尻の穴を通って外に出る。それが鼻の中に入って来ると臭いと感じる」
――あぁぁ、なんて事だ……。
「あっ、ありがとうございました」
紗子の頭の中に、昨日のおならおじさんの脂ぎった顔が浮かぶ。あれのお尻の穴を通ったものが自分の――
この日の帰り路、紗子のハンディファンはずっと鞄の中にしまった切りだった。もう、あの心地よい風が信じられなくなっていた。
あぶないハンディファン【短編】 カズサノスケ @oniwaban
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