第15話自分が誰かに選ばれるなんて

その週末、相川はいつものように予定のない休日を迎えていた。

朝の光が差し込む部屋。窓の外はどんよりとした曇り空。


何も予定がないはずなのに、落ち着かないのはどうしてだろう。

ソファに座ったまま、スマホを手にしては画面を見つめて閉じる。

咲から連絡が来るわけでもないのに、つい気にしてしまう自分がいた。


(俺は今、何を期待してるんだ)


ふいに、スマホが震えた。

画面には「咲」の名前と、たった一言。


「いますか?」


返信する前に、ドアベルが鳴った。


(……まさか)


玄関を開けると、そこに制服ではない咲が立っていた。

ダッフルコートにニット。少しだけ巻かれた髪。

学校の姿とは違う、その雰囲気に相川は一瞬言葉をなくした。


「おはようございます。……来ちゃいました」


「……来ちゃいましたって……」


「迷惑ですか?」


「……いや」


嘘だった。本当は驚いていた。でも、それ以上に、胸の奥が妙にざわついていた。


咲は、両手に袋を提げていた。


「朝ごはん、作りに来ました。昨日の夜、相川さん、カップ麺のツイートしてたから」


「……見てたのか」


「フォローしてますから」


咲は靴を脱ぐと、迷いなくキッチンの方へ向かっていった。

まるで以前にもここへ来たことがあるかのように、まっすぐに。

その後ろ姿を見送るしかなくて、相川は呆然と玄関を閉めた。



しばらくして、食卓に小さな朝食が並んだ。

卵焼き、ウィンナー、味噌汁。

すべて咲の手作りだった。


「おお……ちゃんとしてる」


「私、家ではけっこう料理するんです。母が朝早くて。自分のぶんは自分で、って感じで」


相川は箸を取り、卵焼きを口に入れた。


やさしい味だった。


「……うまい」


「ありがとうございます」


咲は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、なぜか胸が痛くなる。


「なあ、咲……どうして俺なんだ?」


咲は手を止めた。


「俺なんか、特別なものは何もない。ただの会社員で、冴えないおっさんで……なんでそんなに、俺を選ぶんだよ」


しばらく沈黙があった。

そして、咲は箸を置いて、まっすぐに相川を見た。


「昔、いじめられてたんです。

中学生のとき、ひどく。グループで無視されたり、机に落書きされたり、他にも色々と…」


相川は息をのんだ。


「誰にも助けてもらえなかった。先生も、“見なかったこと”にした。でも、そのうち私は、そういう扱いをされるのが“普通”だと思いはじめて……」


咲は、声のトーンを変えずに続けた。


「だから、あの日、コンビニで絡まれてたときも、“誰も助けてくれない”って、どこかで決めつけてました。でも……相川さんは来てくれた。ほんの“たまたま”でも」


「……」


「私にとっては、それが“世界が変わった瞬間”だったんです。誰かが、ちゃんと見てくれたって思えた」


咲の声は、静かだった。けれどその静けさが、胸に強く響いた。


「だから、私は相川さんを選んだんです。理由はそれだけで、十分なんです」


「……咲」


「……いつか、私のことも、ちゃんと選んでくれますか?」


その言葉に、相川はすぐに返せなかった。


けれど、確かに胸の奥が静かに揺れていた。

“自分が誰かに選ばれる”ということ。

それがどれほどの重みと勇気を伴うのか、いまの相川には少しだけ、わかりかけていた。

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