八月十三日(水):灯籠
これは、友人の村田由香里さんから聞いた、忘れられない夏の話だ。
由香里さんは千葉の小さな港町で生まれ育ち、今も海のそばで暮らしている。その出来事が起きたのは、彼女が二十歳を過ぎたばかりの頃だったそうだ。
その年、八月十三日はちょうどお盆の迎え火の日で、港の近くを流れる小さな川では、夜になると灯籠流しが行われることになっていた。
由香里さんの家は、代々この行事に参加してきた家だ。祖母からは「ご先祖様が道に迷わないよう、灯りを流すんだよ」と、幼い頃から繰り返し教えられて育ったという。
夕方、由香里さんは浴衣に着替え、母と祖母と三人で川沿いを歩いた。普段は静かで穏やかな流れの川だが、この夜は両岸に吊るされた提灯の赤や黄色の光が、水面をぼんやりと染め上げていた。すでに下流の方では、いくつもの灯籠がゆらゆらと漂い、その小さな炎が、刻一刻と闇を増していく空に映えて、幻想的な光景を作り出していた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
しかし、由香里さんの心には、どこか落ち着かない、妙なざわめきがあった。川面が、いつもより重く、暗く見えたのだ。
灯籠を流す場所は決まっていて、町の人たちが静かに順番を待っていた。由香里さんも列に並び、ただぼんやりと川面を眺めていた、その時だった。ふと下流の闇の中に、異様な影を見つけた。
それは、人の頭のように丸いものが、灯籠の間をゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かって漂ってくるものだった。
最初は、ただの流木か、灯籠の飾りが壊れたものかと思った。
しかし、視線を釘付けにされたまま見つめていると、それが時折、ぐっと水面から高く持ち上がる。濡れた長い髪のようなものが貼り付き、そして、川の流れに逆らうように、少しずつ、少しずつ、こちらに近づいてくるのがわかった。
その動きは、まるで水中にいる誰かが、こちらを探しているかのようだった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
「由香里、順番だよ」
母の低い声に、由香里さんははっと我に返った。両手に持った灯籠の重みを確かめ、川へと歩み出そうとした、その時だった。足を水際に近づけた瞬間、下流の闇からその“頭”がはっきりと姿を現したのだ。
それは、人の顔だった。いや、人の顔だったもの、と言うべきだろうか。
目の部分は、空洞のように真っ黒に窪み、そこからごぼごぼと音を立てて水があふれ出ていた。唇は何かを言おうとするかのようにひきつり、開いたり閉じたりしている。だが、声は聞こえず、ただその口からも、絶え間なく水が流れ続けていた。
その光景に、由香里さんは息をのんだ。恐怖のあまり、持っていた灯籠を取り落としそうになり、慌てて足元に視線を落とす。
その瞬間、「バシャリ」という鈍い水音が、すぐ近くで響いた。見ると、小さな灯籠が二つ、まるでぶつかり合うように同じ場所で揺れていた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
由香里さんが顔を上げた時には、すでにその顔は消えていた。ただ川面に、いくつもの炎が揺らめいているだけ。
しかし、川下の暗がりからはまだ、あの「ごぼごぼ」という、水が泡立つ音が遠く、かすかに、絶え間なく響いていたそうだ。
行事が終わり、家に戻る帰り道。祖母が由香里さんの顔をじっと見つめ、そして、ぼそりとつぶやくように言った。
「灯籠流しにはね、ご先祖様だけじゃなく、あの世に帰れなかった者も一緒に上がってくることがあるんだよ。そういうのは、決して、目を合わせちゃいけない」
あの時見た顔は、きっと、この世に帰ってきてはいけないものだったのだろう。いや、もしかしたら、由香里さんを探していたのかもしれない。
そう思うと、彼女は今も、あの夏の夜の川面を思い出すたびに、背筋が凍るような思いに囚われるのだという。
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