八月十一日(月):山小屋
これは、登山仲間の村田隆志さんから聞いた、真夏の山での恐ろしい話です。
村田さんは四十代半ばの会社員で、趣味は登山。観光地のような低い山ではなく、地図に載ってはいるが人通りの少ない中級〜上級者向けの山道を好んで登るタイプです。真夏でも日陰に入ればひんやりする高山の空気が好きで、休みが取れると必ず山に入っていました。
ある年の夏休み、村田さんは大学時代からの友人である佐伯真一さん、そして佐伯さんの後輩・田島裕介さんの三人で山に行くことになりました。選んだのは、標高1,800メートルほどの某県境にある山。この山には登山道がいくつかありますが、彼らが選んだのは「旧道」と呼ばれる、地元の年配者しか知らない古い登山道でした。舗装もされておらず、木々が道に覆いかぶさるように伸び、昼間でも薄暗い道です。
━━━━━━━刻━━━━━━━
午前十時過ぎ、三人は登山口を出発しました。最初は鳥の声や蝉の鳴き声が響いていましたが、標高が上がるにつれ、不思議なことに音が減っていきました。やがて聞こえるのは、自分たちの足音と、時折どこからか落ちてくる水滴の音だけになったのです。
「……なんか静かすぎないか?」
佐伯さんが立ち止まり、あたりを見回します。村田さんも同感でした。風もなく、葉が揺れる音すらしない。ただ、ひっそりとした静寂だけが、三人の周りを覆っていました。不気味に思いながらも、三人はそのまま歩き続けました。
旧道は中腹で沢沿いに出ます。そこから小さな吊り橋を渡るのですが、橋の先には使われなくなった山小屋がぽつんと建っています。木の壁は灰色に変色し、屋根も一部崩れていました。
「休憩するか」
田島さんがそう言い、山小屋の縁側に腰掛けました。すると——。山小屋の奥から、かすかに人の気配がしました。足音のような、木がきしむような音。
三人は顔を見合わせます。
「人、いる?」
村田さんが声をかけても、返事はありませんでした。
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怖いもの見たさもあり、懐中電灯を手にして中を覗くと、そこは埃まみれで、家具もなく、床板の一部が抜けていました。
しかし——山小屋の奥の壁に、黒い染みが大きく広がっていたのです。まるで、人の背丈ほどの形をして。
田島さんが「うわ、なんだこれ」と近づいた瞬間。足元の床板が、まるで誰かに引っ張られたかのように「ガタン」と沈み込みました。田島さんが悲鳴をあげ、慌てて飛び退きます。
そのとき、村田さんははっきり見たそうです。床板の隙間から、土色の、細い腕のようなものが、ゆっくりと田島さんの足首をつかもうとしていたことを。
三人は慌てて山小屋を飛び出しました。
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外に出た瞬間、なぜか蝉の鳴き声が一斉に戻ってきます。さっきまでの静寂が嘘のようでした。「な、なんだよ今の!」佐伯さんは息を切らしながら叫び、田島さんも顔面蒼白。
村田さんは振り返り、もう一度山小屋を見ました。
そこにあったはずの黒い染みが、入口近くまで広がってきているのが見えました。しかも形が、人の背丈ほどの「立ち上がった人影」に変わっていたのです。
三人は無言のまま、ほぼ駆け足で旧道を下山しました。
途中、一度だけ振り返った村田さんは、木々の隙間からこちらをじっと見ている「黒い何か」を確かに見たと言います。
あの山小屋は地図にも記載がなく、地元の人もほとんど近寄らない場所だそうです。もしかすると、旧道を通る人が極端に少ないのは、あそこに近づかないためなのかもしれません。
あの時、田島さんの足をつかもうとしたものは、一体なんだったのでしょうか。
そして、あの黒い染みが山小屋を抜け出す日は来るのでしょうか。
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