八月六日(水):広島

 これは、広島県出身の遠藤理央が、二十代前半の頃に体験した話です。

 当時、遠藤は小さな出版社で働いており、広島の戦争遺構や口承記録をまとめる書籍の編集を担当していました。その過程で、広島市内から北に数十キロ離れた山間の町に、戦時中、一時的に疎開していた人々の集落があったという話を耳にしたのです。

 その土地の名前は古い地図にかろうじて残っていたが、現在は人もおらず、住宅もほとんど取り壊されているとのこと。戦後間もなく無人となり、今では訪れる人もない場所でした。

 昭和20年8月6日の朝、その山間部の住人たちは、爆心地から遠く離れていたにもかかわらず、「強烈な光」と「熱風」を見聞きした──そう記録されています。

 実際、当時そこに疎開していたという高齢の女性が語っていたといいます。

「朝の畑に出ていたら、遠くの空がぱあっと白う光って、そのあと風が来たんよ。煙みたいな匂いもしてね、山の向こうに何かあったと、子ども心に感じた」

 その話に興味を持った遠藤は、調査の一環としてその土地を訪れることにしました。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 夏の盛り。ミンミンとけたたましいセミの声が響く中、町役場の古地図を頼りに山道を登っていきました。舗装は途中までしかなく、そこからは草の生い茂った獣道を徒歩で進むしかありません。

 やがて、木々の間から小さな平地が現れました。竹が生い茂り、わずかに土台の石垣が残るだけの、何の変哲もない空き地でした。

「ここが……」

 周囲には人の気配もなく、ただセミの声だけが異様に続いていました。遠藤はノートを広げ、地形や遺構の状態をメモし始めました。

 すると──


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 不意に、蝉の声がすっと止んだのです。

風もない。鳥の声もない。ただ、異様なほどの静寂だけが辺りに広がっていました。耳鳴りがするほどの静けさ。

 時計を見ると、午前八時十五分を指していました。

 遠藤が顔を上げた瞬間、空がぱあっと明るくなりました。

 雲一つない晴天だったはずの空が、全方位から、太陽の何倍もの光が差し込むような錯覚。目を細める間もなく、視界全体が白く、そして赤く染まりました。

 次の瞬間、熱い風が吹きつけました。

 一気に身体がよろけるほどの突風。耳に圧がかかり、頭の奥がキーンと鳴り響きます。服の袖がはためき、鞄のノートが風にあおられて飛びそうになる。

 そして、焦げた匂いが鼻を突きました。

 焚き火とは違う、人工的で、生々しい匂い。何かが焼け焦げる、乾いた黒煙のような臭気が、肺の奥にまで染み込むようでした。

 遠藤は息を止めて、ただ立ち尽くしました。どこかで何かが爆発したのかと、本気で思ったそうです。

だが、空に雲はなく、音もない。ただ、強烈な光と、熱い風と、焦げ付くような匂いだけが、確かにそこにあったのです。

 ほんの十数秒だったでしょうか。光はすっと消え、風も止みました。セミの声が、何事もなかったかのように再び鳴き始めていました。

 焦げた匂いだけが、しばらく鼻の奥に残っていました。


━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 帰り道、遠藤はその出来事について何度も考えました。あれが自然現象だとは思えませんでした。山の天気が急変したわけでもない。何より、あの光──あれは、見てはいけないものを、確かに見てしまった感覚がありました。

 後日、当時の住民が書いたという手記を資料館で見つけました。

「光はまぶしゅうて、目が潰れるかと思うた。風がきて、匂いがきて、なにが起こったかは分からなんだが、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。こりゃただ事じゃないと、誰もが思うた」

 遠藤が体験したことは、おそらく──その“目撃の記憶”だったのでしょう。

 あの日、遠く離れた疎開地で、「見えた」人々の感覚。あまりに強烈すぎて、土地に焼き付き、今もその場を訪れた人間に再生される。

 それは、霊でも幻でもありません。

 ただ、「あの光を見た記憶」そのものが、今もなお、そこに存在し続けているのです。

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