八月五日(火):タクシー
これは、神奈川県の湘南でタクシー運転手をしている秋元圭介さんが語ってくれた話だ。
秋元さんは四十代後半のベテランドライバーで、深夜帯の乗務を担当している。人通りが少なくなる時間帯だからこそ、予想外の出来事に出くわすことも多いといい、「職業柄、怖いことには慣れている」と彼は言っていた。
それでも、あの夜のことだけは、いまでも忘れられないという。
それは、真夏の蒸し暑い夜だった。空気が肌にまとわりつくような、嫌な熱気が充満していた。
時刻は深夜二時。海岸通りの灯りはまばらで、道路はほとんど無人だった。秋元さんは、駅前ロータリーで休憩を取り、缶コーヒーを飲みながら、静まり返った夜の帳をぼんやりと眺めていた。
その時、無線が鳴った。
「大船駅西口からの迎車、一名。女性客。目的地は藤沢市内」
了解、と返事をし、秋元さんは車を発進させた。エンジンの音が、静寂にやけに響く。
━━━━━━━刻━━━━━━━
西口のロータリーに着くと、薄暗い歩道のベンチに、白いワンピースを着た長髪の女が一人、静かに座っていた。まるで、そこに「置かれている」かのように微動だにしない。近づいて声をかけると、女はうっすらと頷き、音もなく後部座席に乗り込んだ。その仕草には、まるで生気が感じられなかった。
「藤沢方面ですね」
返事はなかった。しかし、拒否も肯定もされなかったため、秋元さんはナビを設定し、静かに車を走らせた。
走り出してしばらくして、ミラーで女の顔を確認しようとした、その時だ。ふと、奇妙なことに気づいた。
顔が、映っていない。
長い髪に隠れているせいだろうか。いや、どう見ても、ミラーには輪郭すら見えないのだ。後部座席に人が座っているのは確かだった。白い服の袖。膝のあたりで膨らんだスカート。座面の微かな沈み。すべてが「そこにある」のに、顔だけがどこにもない。
その瞬間、秋元さんの背中に、嫌な冷たい汗が、すうっと流れるのを感じた。真夏の蒸し暑さとは違う、底冷えするような寒気だった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
信号待ちの間、意を決して振り返ろうとした、その時だった。
「まっすぐ……でいいです」
はっきりとした女の声が、耳元で聞こえたような気がした。後部座席からではなく、すぐそばから聞こえたような錯覚に、秋元さんの心臓が大きく跳ねた。その声に一瞬だけ安堵し、「はい、了解です」と答えて再び前を向いた、その時——
ミラーに、顔が映っていたのだ。
だが、それは……顔というには、あまりにも「のっぺり」とした何かだった。
目も、鼻も、口もなく、ただ肌色の粘土のように均一な……何もない顔。
その「顔」が、ミラー越しに、じっと運転席を見つめていたのだ。まるで、すべてを見透かすかのように、何の感情も宿さない眼差しで。
その瞬間、信号が青に変わった。秋元さんは反射的に車を発進させた。もう、後ろを見ることはできなかった。見たら、何か決定的なものが、そこにいるような気がした。
数分後、時間の感覚が曖昧なまま、目的地近くの住宅街に入った。
「この辺でいいです」
また、あの声がした。今度は、少しだけ遠く感じられた。
車を止めると、女は静かにドアを開けて降りた。その動きは人形のようにぎこちなく、そして無音だった。ゆっくりと、暗い路地の方へと歩いていく。
━━━━━━━刻━━━━━━━
女の姿が完全に見えなくなったところで、秋元さんは意を決して後部座席を見た。
シートには、人の座った形跡が一切残っていなかったのだ。
くっきりと残るはずのシワも、体温も、髪の毛一本すらも、そこには何もない。まるで最初から誰も座っていなかったかのように、シートは完璧なままだった。
それ以来、秋元さんは「顔の見えない乗客」には特に注意するようにしているそうだ。
「顔のない女っていうけど、あれは……『顔を見られたくなかった女』だったのかもしれないな」
そう語った彼の言葉が、いまも妙に耳に残っている。まるで、それが、あなたへの警告であるかのように。
あなたが深夜、タクシーに乗った時。
ふと、ドライバーのミラーに「顔が映らない」ことに気づいたら——
どうしますか?
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