八月一日(金):花火
これは、大学時代の友人である杉山真理子が体験した、決して忘れられない、恐ろしい夜の話です。
真理子が住んでいたのは、長野県のとある山間の町でした。人口は少なく、夏になると町内会主催の『納涼花火大会』が一番のイベントでした。山に囲まれたその町では、打ち上げ花火の音が反響して、まるで空全体が鳴っているように感じるほどで、町の子どもたちは毎年それを楽しみにしていたそうです。
その年の花火大会は、例年通り川沿いの広場で行われる予定でした。真理子は地元の友人である村岡健吾と、後輩の平野香奈と三人で連れ立って会場へ向かっていたんです。
会場は人で賑わっており、出店の灯りと夕焼けが混ざり合って、不思議な色の空が広がっていました。真理子たちは土手にレジャーシートを敷き、屋台で買った焼きそばとラムネを手に、のんびりと開始を待っていたのです。
━━━━━━━刻━━━━━━━
やがて辺りが暗くなり、最初の花火が、どんと音を立てて夜空に咲きました。
『きれいだね』と香奈が言い、真理子も『うん』と頷いた、まさにその時。
ふと、健吾が首をかしげながら空を見上げて、不意に言ったのです。
『なあ、さっきの花火……音、遅すぎなかったか?』
真理子は最初、何を言っているのかわかりませんでした。しかし次の瞬間、もう一発花火が打ち上がった時、それが確かな違和感へと変わったのです。
確かに、光が広がってから音が響くまで、不自然なほど妙に長い間があったのです。
『距離のせいじゃない?』と香奈が言いましたが、健吾は首を横に振ったのです。
『それにしても、おかしい。あの打ち上げ場、すぐ向こうだぞ。ここから五〇〇メートルもない』
三人とも何かしらの違和感を覚えながらも、花火は、まるで何もなかったかのように続きました。
━━━━━━━刻━━━━━━━
しかし、ある一発の花火の後──その異変は、はっきりと現れたのです。
辺りが一瞬、まるで世界から音が消え去ったかのように、無音になったのです。
屋台の喧騒も、人々の笑い声も、虫の声すら聞こえません。ただ、その静寂だけが、重く、深く、そこに横たわっていたのです。
ただ、空に残る火の粉のような残像だけが、不気味にゆらゆらと広がっていたそうです。
その時、真理子はふと、土手のずっと下の川辺に、一人立ち尽くして空を見上げる幼い女の子の姿を見つけました。浴衣姿の、小学低学年くらいの女の子でした。
『……あんなとこ、立ち入り禁止じゃなかった?』と真理子がつぶやくと、健吾が『おい、やばいって。あの子……花火、見てないぞ』と言ったのです。
確かに、女の子の視線は空ではなく、ただひたすらに、まっすぐこちらを見上げていたのです。
次の花火が上がった、まさにその瞬間——
その子の姿が、花火の光に照らされて、ありありとくっきりと浮かび上がったのです。
そして、その左の手首が、途中で『無い』ことに、真理子たちは気づいたのです。それを隠そうともせず、無表情でこちらを見上げる女の子。
次の瞬間、真理子たちは思わず『うわっ!』という声を上げて立ち上がりました。気がつけば、周囲の音はいつの間にか戻っていて、他の観客たちは何事もなかったかのように花火を見上げていたのです。
『おい、さっきの子……』と健吾が川辺を指差すと、もうそこには誰もいませんでした。
━━━━━━━刻━━━━━━━
香奈は恐怖に震える声で言ったのです。
『ねえ、知ってる?……数年前の花火大会で、川に落ちて亡くなった子がいたって……。打ち上げ場に近づきすぎて、花火の筒の爆発で転落したって……』
それを聞いた真理子は、まさに背筋が凍るのを感じました。
あの子は——いったい何を、訴えようとしていたのでしょうか。
今でも真理子は、花火を見ると、あの無音の瞬間と、視線を逸らさずにこちらを見ていた女の子の顔を、はっきりと思い出してしまうそうです。
きっと、あの子は——忘れられた事故のことを、今もなお、誰かに思い出してほしいのかもしれませんね。
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