七月三十一日(木):土用の丑の日
これは、静岡県に住む稲葉慎吾さんが、大学時代に体験したという、まさに背筋が凍るような話です。
慎吾さんは地元の国立大学に通っていたのですが、夏休みに入るとすぐに、友人の矢島剛と一緒に浜名湖近くの旅館でバイトをすることになりました。観光地でもあり、周囲にはうなぎ料理の名店が軒を連ねるエリアです。二人は料理の配膳や客室の掃除などを担当していました。
その旅館は、湖のほとりにぽつんと立っていて、周囲には人家もまばら。裏手には漆黒の松林が広がり、夜になると静寂の中に波の音だけが不気味に響くような場所でした。
バイトを始めて一週間ほど経ったころでしょうか。その頃から、徐々に奇妙な気配が漂い始めたのです。
ちょうど土用の丑の日が近づいていたこともあり、旅館も普段より賑わっていました。それは、ある意味で嵐の前の静けさだったのかもしれません。
━━━━━━━刻━━━━━━━
その日の夜、仕事が一段落したあと、慎吾さんと剛は休憩室で遅めの夕食を取っていました。厨房の女将が作ってくれたまかない飯には、何と、肉厚なうなぎのかば焼きがのっていたのです。香ばしい匂いが鼻をくすぐります。
『これ、浜名湖の天然ものらしいよ』と剛が言うと、女将は小さく首を振ったのです。
『今日は、ちょっと特別な仕入れだったのよ』
慎吾さんが『特別って?』と聞いても、女将は『まあね』と意味ありげに笑うだけで、詳しくは話してくれませんでした。
夜十時を過ぎて、旅館もようやく静かになり、二人は交代で風呂に入りました。部屋に戻ると、剛がぽつりと言ったのです。
『なあ……裏の松林、変じゃなかったか?』
『何が?』
『さっき、ちょっとだけ歩いたんだよ。月がきれいでさ。でも途中で妙なものを見た』
その時、慎吾さんも軽く聞き流してしまいました。まさか、その「妙なもの」が、後に自分にも迫ってくるとは知らずに……。
━━━━━━━深夜━━━━━━━
慎吾さんは、なぜかふと目が覚めてしまいました。蒸し暑さのせいもあったでしょうが、なんとなく喉が渇いて、部屋を出て自販機まで行こうと廊下を歩いていたのです。
ふと、旅館の裏手にある非常口の扉が、ほんの少し隙間を開けているのに気づきました。風でも吹いたのかと近づこうとした、まさにその瞬間――
『ずるっ、ずるっ……』
何かを引きずるような音が、あの漆黒の松林のほうから、微かに、しかし確かに聞こえてきたのです。
耳を澄ませると、草を踏みしだく音とともに、『ぴち、ぴち』と、おぞましい水音のようなものも混じっていたのです。
恐る恐る扉を開け、裏の松林の方に目をやると……
そこに、暗がりの中にぼんやりと、ある“もの”が立っていました。
いや、それはもはや人影というには異様すぎたのです。
その身体は妙に細長く、まるで生き物のようにうねるような動きをしている。そして、背中には魚のような艶があり、おぞましくぬめぬめと光っていたのです。
まるで、うなぎが人の姿を模したような――そんな悍ましい異形だったのです。
慎吾さんが思わず後ずさった、まさにその瞬間、その存在はするりと松林の奥へと滑るように消え去ったのです。
━━━━━━━刻━━━━━━━
翌朝、剛が青ざめた顔で、慎吾に言いました。
『やっぱり、見たんだな。あれ……何かの祟りなんじゃないか』
女将に相談すると、彼女は一瞬顔をこわばらせたあと、震えるような声でぽつりとこう言ったのです。
『……昔ね、この辺りの漁師が湖で“人魚”を捕まえたことがあったのよ。でも、それを食べた者は皆、恐ろしいほど奇妙な死に方をしたって』
あの夜、彼らが食べたうなぎは、もしかすると――。
『まさか、人魚の――?』
━━━━━━━刻━━━━━━━
その年の土用の丑の日、旅館では一匹だけ、まさにあの時、女将が言っていた“特別な仕入れ”があったそうです。
あの夜、松林にいたのは、まさにその“特別な”うなぎ、喰われたものが還ってきた、悍ましい姿だったのでしょうか。
慎吾さんが見たものは、決して夢などではなかったのです。
あのぬめりとぬくもり、そして、まとわりつくような湿った視線は、今でもはっきりと、慎吾さんの脳裏に記憶されているそうです。
恐らく、あれは──。
土用の丑の日に、決して口にしてはならない、悍ましいものだったのではないでしょうか。
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