七月二十日(日):肝試し

 これは、私と友人が実際に体験した話です。

私は当時、都内の小さなデザイン会社に勤めていました。普段の残業続きで疲れ切っていた私は、せっかくの休日にわざわざ予定を入れる気にもなれず、昼過ぎまで惰眠を貪り、録り溜めたドラマを消化しながら、ひたすらダラダラと過ごすつもりでいた。

 だが、その日の夜。近所のスーパーで偶然、高校時代の友人、圭介と会ったことが、私のその後の日常を大きく変える、とんでもない体験の始まりとなった。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 圭介は高校の同級生で、いわゆる“怖いもの知らず”な性格の男だった。大学時代には肝試しと称して廃墟やトンネルに何度も行っていたらしく、以前から「何度か、本当に“ヤバいもの”を見た」と、武勇伝のように語っていたのを記憶している。

そんな圭介が、あの日も例によって「今夜、ちょっと付き合わないか?」と言ってきた。

「いや、せっかくの休みだし家でのんびりしたいよ」

 そう返すと、圭介はニヤリとしてこう言った。

「俺の知り合いから聞いたんだが、本当に“出る”場所があるらしい。都内だからすぐ行って帰れる。な?せっかくだしさ、どうだ?」

 その言葉には、妙な説得力があった。結局、私は彼の誘いを断りきれず、同行することになった。

 その場にいたのは、私と圭介、それに圭介の同僚らしい女性の美咲さん、もう一人、彼女の友達の遥さんという計四人だった。

 車は圭介が運転し、夜の九時過ぎ、私たちは目的地へ向かった。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 車の中で圭介が教えてくれたのは、その場所が“八坂のアパート”と呼ばれる廃アパートだということだった。

 まだ取り壊されずに残っていて、夜中になると何人もの影が窓からこちらを見ているのだとか。

「ただの野次馬じゃないぞ。なんでも、こないだそこに行った奴が、次の日に飛び降りたらしいからな」

 圭介は平然とした顔でそんな話をするので、助手席にいた美咲さんと遥さんは顔を見合わせていた。

 正直なところ、私もその時は、「また圭介が大げさに言っているのだろう」と、半信半疑だった。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 目的地に着いたのは十時を少し回った頃だった。

場所は環状七号線から少し入った、住宅地の外れにある小さな坂道の先だった。

 周りは真っ暗で、街灯はかろうじて灯っているものの、その光は薄ぼんやりと頼りなく、周囲の闇をかえって深く際立たせていた。坂の上のほうに、確かにぼろぼろの二階建てのアパートが見えた。

 外壁はところどころ剥がれ、窓ガラスは何枚も割れ、その全体が、まるで内側に何かを閉じ込めているかのように、黒ずんで見えた。

 玄関のドアには「立入禁止」の看板があり、厚い金網が貼られていた。だが、その金網は無残にも破られ、人一人分の隙間が不気味に口を開けていた。

「どうだ?雰囲気あるだろ」

 圭介が金網の隙間を覗き込みながら言った。

「やめとこうよ、管理人とかに見つかったら厄介だし」私はそう言ったが、遥さんは意外にも乗り気で、「せっかくだから、入ってみようよ」と皆を促した。結局、私たちは引き返せないまま、その廃アパートの中へと足を踏み入れた。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 中は埃っぽく、カビ臭さが漂っていた。

 一階の廊下は、日中の光が届かぬほどに薄暗く、踏み出すたびに床板が古びた獣の骨のように軋む音がした。部屋の扉はどれも開け放たれていて、中にはゴミや古びた家具が放置されている。

 階段を上がり、二階の廊下に差し掛かった時、遥さんが小さく「……なんか、音しなかった?」と呟いた。

 私は耳を澄ませたが、特に何も聞こえなかった。

 ただ、どの部屋も窓が壊れているせいか、風がヒュウヒュウと不気味に吹き込み、その音だけがやけに響いていた。

「気のせいだろ」

 圭介が先頭に立ち、二階の一番奥の部屋まで進んだ。

 その部屋だけは、固く扉が閉ざされ、取っ手はひどく錆び付いていた。

 圭介が力任せに開けると、中は他のどの部屋よりも濃密な闇に包まれ、窓は全て、何者かに板で打ち付けられていた。

 その時だ。

 ――カツン。

 ――と、誰かが廊下の床を踏みしめる音が、すぐ近くで響いた。

 私は思わず振り向いたが、そこには誰もいない。

 遥さんが、顔から血の気を失くしたまま、小さな声で「今……音したよね?」と私に尋ねた。

 私は頷いたが、圭介は「気のせいだって」と笑い飛ばした。

 だがその瞬間――

「……でてけ」

 それは、すぐ耳元で囁かれたかのような、小さく、しかし耳の奥にへばりつく、ぞっとする声だった。

 美咲さんが悲鳴を上げ、遥さんも顔を青ざめている。

 私はその場から一歩も動けなかった。

 圭介もさすがに真剣な顔になり、「出るぞ」と短く言い、私たちは、文字通り悲鳴を上げながら、一目散に階段を駆け下り、無我夢中で外へと飛び出した。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 外の空気は湿り気を帯びていたが、不思議と安堵の匂いがした。

 皆、無言で車に戻り、しばらくして圭介が口を開いた。

「……どうだ、すごかっただろ?」

 そう言った彼の声は、わずかに震えていた。助手席から、小刻みに震える圭介の手が視界に入った。

 遥さんも美咲さんも、それ以上は何も言わず、車内は帰り道ずっと沈黙が続いた。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 家に着いたのは、深夜一時を回っていた。

その日はなんとか眠りについたものの――翌朝、スマホを開いた私は、思わず息を呑んだ。

 LINEに知らないアカウントからメッセージが届いていたのだ。

『まだいるの?』

 ただ、それだけの文章。

 アカウント名は空白で、アイコンもなかった。

慌てて圭介に連絡を入れると、彼もまた、全く同じメッセージを受け取っていたと言う。

 美咲さんと遥さんにも確認したが、二人にも同じ文面が送られてきていた。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 それから一週間ほど、私は寝ても寝ても金縛りに遭うようになり、夜中に廊下を歩く足音が聞こえるようになった。

 圭介も「なんかずっと見られてる感じがする」と言い、急にお祓いに行ったそうだ。

 今では、あの金縛りも足音も、ほとんど収まっている。だが、スマホのメッセージだけは、たまに深夜、不意に届くのだ。

『まだいるの?』

 あれ以来、私は夜中に廃墟や心霊スポットに近づくことはやめた。

 あの時、私たちが八坂のアパートで見たもの、聞いたものが何だったのか、未だに分からない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。あの部屋にいた“何か”は、いまだに私たちを見続けているのだ。

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