七月八日(火):留守電

 これは、東京都内に暮らす、ある会社員の女性が実際に体験した、身の毛もよだつような話である。

 彼女の名は香織、当時二十九歳。

 職場までのアクセスを重視して選んだ、ごく普通の、小さなワンルームマンションに一人暮らしをしていた。

 毎年この時期は仕事が繁忙期で、帰宅するのはいつも遅くなる。

 この日も例に漏れず、日付が変わる寸前の終電での帰宅となった。

 マンションに着いたのは、日付が変わる直前——すでに七月八日の深夜に差し掛かっていた。

 玄関のドアを開けると、むわっとした湿気と、何かが澱んだような空気が、香織の肌にまとわりついた。

 その日は朝から雨が降り続いており、部屋の中もどこか湿っぽく、重苦しい空気に満ちていた。

 冷房をつけ、重い体をシャワーで洗い流し、冷たい水を一気に飲み干した。ベッドに横になったのは、すでに午前一時を回っていた頃だった。

 目を閉じると、疲労からか、すぐに深い眠気が押し寄せてきた……。だが、その時だ。

 枕元に置いたスマホが、微かに、しかし確かに震えたのだ。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 ベッド脇のスマホを手に取ると、『留守番電話にメッセージが一件』という通知が表示されていた。

 仕事柄、電話がかかってくることは頻繁にあるが、夜中に留守電が残されているのは滅多にないことだった。

 不思議に思いながら再生ボタンを押すと……、『ザザ……』という、耳障りな雑音の中から、掠れた女の声が聞こえてきた。

『……あ……た……し……、か……おり……』

 それは、低く、湿り気を帯びたような声で、香織自身の名を呼んでいるのだ。

『……か……おり……、どう……して……』

 そこでメッセージは、まるで糸が切れるかのように、ブツリと途切れた。

 一瞬、全身に鳥肌が総毛立つ。

 ——自分のことを知っている?

 誰かの悪ふざけか、間違い電話か……?

 香織は震える手でスマホを伏せ、無理矢理『気のせいだ』と自分に言い聞かせ、逃げるように眠りについた。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 次の日。

 昨日のことが頭から離れないまま、香織は仕事終わりに帰宅した。そして、ふと気になりポストを開けると、そこには見慣れない茶封筒が不自然に収まっていた。

 差出人の名前は書かれていない。

 マンションの住所と『香織様』とだけ書かれた、薄汚れた封筒だった。

 恐る恐る中を開けると、そこには、たった一枚の、薄気味悪い写真が収められていた。

 ——ベッドに寝ている香織自身の後ろ姿。

 パジャマ姿で、無防備に髪をほどいて横たわる、紛れもない香織自身の姿だった。

 香織の手が震えた。

「……誰か、この部屋に、侵入したのか……?」

 香織は慌てて玄関の鍵を、そして窓という窓の鍵を、必死に確認した。しかし、どれも厳重に閉まっている。

 しかし、写真に写る光景は、紛れもなく、この部屋の中から撮影されたものだった。

 恐怖に震える香織は、その夜、部屋の電気を煌々と点けたまま眠りについた。

 だが……夜中の三時、香織は再び、耳元に直接響くような、あの掠れた囁き声で目を覚ました。

『……かおり……かえして……』

 反射的に飛び起き、部屋の電気を点けたが、当然ながら、そこに人影はない。

 ただ……視線が吸い寄せられるように、クローゼットの扉が、わずかに、本当にわずかに開いているのが見えた。

 いつもは、寝る前に必ず閉めていたはずなのに——。

 恐る恐る、一歩ずつ近づき、震える指先で扉を押し開くと……中は、当然のごとく、ひっそりと空っぽだった。

 だが、その壁には……まるで小さな指先で、血を擦りつけたかのように、黒く、不気味な線がいくつも這っていたのだ。

 ——まるで、「ここにいたぞ」とでも、嘲笑うかのように。

 香織は、その日を朝まで震えながら耐え忍び、夜が明けるや否や、そのまま実家へと逃げ帰った。

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 後日、香織は警察に相談し、部屋を調べてもらったが、侵入の形跡は一切見当たらず、クローゼットの黒い線も「カビの類でしょう」と、あっさり片付けられてしまった。

 留守電のメッセージについても、「単なる間違い電話でしょう」と一笑に付された。

 しかし、香織には、どうしても拭い去れない、ある疑念が残っていた。

 それは、茶封筒に収められていた写真の裏に、微かに記されていた、小さな文字だった。

『七月八日 午前一時二十六分』

 それは、香織が留守電の声を耳にした、まさにその時刻と、不気味なほどに一致していた。

 あの時、この部屋の、クローゼットの暗闇の中に、“誰か”が潜んでいて、無防備な自分を、ずっと見つめていたのだとしたら……?

 

━━━━━━━刻━━━━━━━

 

 その後、香織はすぐに引っ越しを決意した。

 だが今も、毎年七月八日が近づくと、香織のスマホの留守電には、あの世から響くような、掠れた女の声が残されるのだという。

『……かおり……かえして……』

 まるで、自らの住処を奪われたとでも主張するかのように——。

 そして、香織自身もまた、薄々気付いているのだ。

 あのマンションの、香織が足を踏み入れたその部屋に、本当は最初から“別の誰か”が住み着いていたことに。

 ——だから、その“誰か”は、今も、香織が戻ってくるのを、ずっと待ち続けているのだ。

『私の部屋を返して』と。

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