『毎日怪談』
MKT
七月七日(月):七夕のお願い
これは、都内に暮らす一人の男性が、七夕の夜に実際に体験した、おぞましくも奇妙な出来事である。
彼の名は浩一、当時三十二歳。
商社勤めで多忙な日々を送る中、七夕だからといって特に気にかけることもなく、浩一はその日も残業を終え、疲れ果てた体で帰路についていた。
家路の途中、駅前の広場には、色とりどりの笹飾りが無数に並び、そこに結ばれた短冊が、生ぬるい夜風に揺れていた。
人々が楽しげに願い事を書き込む姿を横目に、浩一は疲れた顔でわずかに苦笑した。
(大人になっても、こうして願い事など書くものなのか……)
そう思いながら、ふと足を止めた。何かに誘われるかのように、浩一は手近な笹飾りの一つにかけられた短冊に目を向けた。
そこには、『大好きなあの人と結ばれますように』『病気が治りますように』『お金持ちになりたい!』など、ありふれた願いが思い思いに書かれており、どこか微笑ましささえ感じられた。
しかし……その中に、一枚だけ、ひどく場違いで、妙に気味の悪い短冊が、浩一の目に飛び込んできた。
『○○○○さんが、私のものになりますように』
名前が書かれているはずの部分は、真っ黒なインクで醜く塗りつぶされており、一体誰の名前が記されていたのか、判別不能だった。
ただ、その筆跡は、まるで神経を擦り減らしたかのように細く乱れており、そこから滲み出るような、恐ろしいほどの執念が感じられたのだ。
得も言われぬ嫌悪感と、ふとした悪寒に襲われた浩一は、その場から逃げ出すように、足早に家路を急いだ。
まさか、その夜から自身を襲うおぞましい異変の始まりだとは、この時の浩一は、知る由もなかった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
家に着いたのは、午後十一時を少し回った頃だった。
シャワーを浴びて冷たいビールを飲み干し、ソファに身を沈める。何気なくスマホを手に取った、その瞬間だった。
すると、見覚えのない、しかし明らかに『自分宛て』とわかるメッセージが、一件届いていたのだ。
差出人は表示されていない。ただ一言、ゾクリとする言葉が記されていた。
——『七夕のお願い、叶えてね』
浩一には、全く心当たりがなかった。
悪質な悪戯かと片付けようと、無視してスマホをサイドテーブルに置いた。
しかし……午前零時を過ぎた頃、浩一は部屋の中に満ちる、得体のしれない、妙な気配に、半ば意識を引きずられるように目を覚ました。
冷房を効かせているはずなのに、肌にまとわりつくような蒸し暑さが、じわりと部屋を満たしている。
その上、部屋の空気は鉛のように重苦しく、浩一は喉の奥が詰まるような息苦しささえ覚えた。
そして、微かな衣擦れのような音が、カーテンの向こうから聞こえてきた。何かが、ゆっくりと揺れている音だ。
風のせいか、と頭では思いながらも、なぜか視線が釘付けになり、浩一は、恐怖に駆られながら恐る恐るカーテンを開けた——
そこにいたのは、ベランダの柵の向こう側、漆黒の闇を背にした、白い浴衣の女だった。
顔は長く濡れたような髪に隠され、表情を読み取ることはできない。しかし、その虚ろな視線が、確かに浩一を捉えているのが分かった。
浩一は、恐怖で呼吸が止まりかけた。
浩一の部屋は五階だ。外廊下を回って、回り込んでこない限り、ベランダに誰かがいるはずがない。
だが、紛れもない、確かな存在感を放ち、女はそこに“いる”のだ。
そして、その女は、ゆっくりと細い指を動かし、まるで死の世界へ誘うかのように、浩一に向かって不気味に手招きしたのだ。
その動きがあまりにも異様で、生理的な嫌悪感を覚えた浩一は、悲鳴を押し殺し、慌ててカーテンを閉め、布団の奥深くに身を潜めた。
━━━━━━━刻━━━━━━━
翌朝、太陽の光が部屋に差し込むまで耐え忍び、浩一は恐る恐るベランダを確認した。だが、そこに人影はなかった。
ただ、ベランダのガラスの外側には、まるで爪で引っ掻いたかのような、細く、おぞましい指の跡がいくつも残されていたのだ。
それは、昨夜、確かに“あの女”が、浩一を覗き込んでいたという、紛れもない証拠のように。
拭い去れない嫌悪感を抱えたまま出社し、疲労困憊で帰宅した、その夜だった。
ポストの口から、一枚の短冊が、わずかに顔を覗かせていた。
それは、昨日、駅前の笹飾りにかけられていた、まさにあの短冊だった。
そこには、浩一が昨日見た時には真っ黒に塗りつぶされていたはずの名前が、血文字のようにくっきりと、しかし乱れた筆跡で書き直されていたのだ。
『浩一さんが、私のものになりますように』
浩一の手が、ひどく震えた。
あの駅前の笹飾りに結ばれた短冊に、悪意を持って記されていたのが、他ならぬ自分の名前だったのだ。
浩一は、その夜、もはや自宅にいることなどできず、友人の家へと転がり込んだ。
しかし……午前零時を過ぎた頃、友人の部屋の窓ガラスが、『コツ……コツ……』と、まるで誰かが爪で引っ掻くように、静かに叩かれる音が響いたのだ。
背筋に氷が走る浩一は、恐る恐るカーテンの隙間から外を覗いた。すると、そこには、昨夜見た白い浴衣の女が、先ほどと同じように、じっと立っていたのだ。
髪の隙間から覗く顔は、月明かりの下で青白く不気味に浮かび上がり、口元は、耳元まで引き裂かれるように大きく歪んで笑っていた。
そして、まるで息の根を止められたかのような、かすれた声で、浩一に向かってこう呟いたのだ。
——『お願い……叶えて……』
浩一は、翌日、もはや正気を保っていられず、会社を辞め、誰にも行き先を告げることなく、まるで存在そのものが消え去るかのように、忽然と姿を消してしまった。
━━━━━━━刻━━━━━━━
それから数年が経った今もなお、奇妙なことに、駅前の広場では毎年七夕の夜になると、決まってあの不気味な短冊が見つかるという。
あの時と同じ、黒い執念を滲ませた筆跡で、こう記された短冊が——
「『浩一さんが、私のものになりますように』」
そして、その短冊をほんのわずかでも目に留めた者の中には、七夕の夜が明けた後も、夜になると決まって、窓の外から、あの世のものとも知れぬ何かに、恐ろしくも執拗に手招きされるようになるという。
七夕の願いというものは、一度記してしまえば、もはや決して取り消せない呪いなのかもしれない。
——たとえ、その代償が、無関係な“誰かの命”であったとしても。
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