第2話 指先が触れた夜に

雨は止まなかった。


昼過ぎ、教室の窓の雫をぼんやり眺めながら、先生の声は頭を素通りしていた。


ミツキと同じクラスではないのに、どこかでずっと見られているような気がする。廊下ですれ違った時も、食堂で背中を向けているときも。


──気のせいだ。きっと、俺の問題。


午後の授業が終わる頃には、雨は小降りになっていた。けれど空はまだ重く、夕焼けはどこにもなかった。寮の部屋に戻ると、ミツキはもう帰っていた。机に向かい、何かノートを書いている。

「おかえり」


こちらに背を向けたまま、ミツキはそう言った。


「、ただいま」


ドアを閉めると、部屋の中の空気が一気に狭く感じられた。静かだ。雨の音さえ、もう聞こえない。ミツキの視線はノートから動かない。

「何、書いてるの?」

自分でも驚くほど不自然な声だった。気を遣ったつもりなのか、距離を測ろうとしたのか、自分でもわからない。


「日記、みたいなものかな」

「日記?」

「うん。……忘れたくないことって、あるから」


その言葉に、ふと胸がざわついた。


忘れたくない。

いや、俺は──忘れたい。


その夜、ミツキが先にベッドに入った。

「明日、晴れるといいね」


布団の中からかすれるような声が聞こえる。


「うん。」


返事をしながら、俺もベッドに入る。しばらく沈黙が続いて、それを破ったのは、ミツキの声だった。


「ねえ、ナオくん」

「なに?」

「前の学校、つらかった?」


背筋が凍った。

それは、俺がここに来て一度も誰にも話していないこと。


「どうして、知ってるの。」


問いながら、目を開けられなかった。

心臓の音がうるさくて、呼吸の仕方さえわからなくなる。

「なんとなく、だよ」

少し笑ったような声。けれど、その笑いは優しさというより、安心させようとする計算のように感じた。


ミツキの気配が、近づいてくる。


寝返りを打った音。ベッドがわずかに軋む音。


そして、


指先が、頬に触れた。


「ナオくんのこと、ずっと見てたよ」

耳元で囁かれたその言葉に、身体が動かなかった。


「最初から、知ってた。名前も、前の学校のことも。あの子のことも」


──あの子。


その名前を、ここでは一度も言っていない。教師にも、寮の誰にも。

「だからね」

ミツキの声が、やわらかく、けれど低く、胸の奥に沈んでいく。


「もう、逃げなくていいんだよ」


目を閉じたまま、俺は思った。


やっぱり、怖いのは──ミツキなのか。

それとも、ミツキの中に映っている俺自身なのか。

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