【第2話 夢に現れる通路】

瀬野アユム――そう名乗った少年は、どこか夢の中の住人のようだった。

 足元のアスファルトは濡れていたはずなのに、彼の靴には一滴の泥も付いていなかった。

 声も、妙に輪郭が曖昧だった。まるで、誰かの記憶の中から取り出された存在のように。


「アユムくん、あなた、ここで誰かに呼ばれたの?」


 私が問いかけると、アユムは小さく頷いた。


「階段を降りていく夢を見たの。すごく長くて、真っ暗で。でも誰かが下の方から呼んでたんだ。だから……降りてみたの」


「……それは今朝の夢?」


「ううん。昨日も、その前も、毎日」


 その答えを聞いて、私は内心で警鐘を鳴らした。

 “繰り返す夢”は、異界が記録を越えて侵食し始めている兆候だ。

 その呼びかけは、おそらく“名”を求めている。


「アユムくん、その夢のこと、誰かに話した?」


「……うん。学校の先生。でも、笑ってた。『疲れてるんじゃない?』って」


 ありふれた反応だろう。だが、それが最も危うい。

 異界の兆しを“ただの夢”として受け流すことは、封印にとって致命的だ。

 名を呼ばれ、存在が曖昧になっていく子どもたちは、やがて“記録されない存在”になる。


「アユムくん。これ、大事に持ってて」


 私は名守札の代わりとなる簡易の紙札を渡す。桂木さんから譲り受けた、幼子用の簡易護符だ。


「これ、変な夢を見ないようにするお守り。名前、大切にしまっておくの」


 アユムは真剣な表情で頷き、それをランドセルの奥にしまいこんだ。

 それを確認してから、私は別れを告げ、空き地の奥へと足を進めた。


  * * *


 空き地は、地図上では“未開発区域”とされている。だが、周囲にはすでに新しいマンションが何棟も建ち並んでいる。

 本来ならば、ここにもすでに工事が入っていて不思議ではなかった。


 だが、不動産会社が次々と撤退したと聞く。作業員の体調不良、機材の不調、夜間の人影。

 原因は不明のまま、工事は二年以上止まっている。


 この空白地帯こそが、詠月区画の“綻び”だ。


 * * *


 記録者の拠点に戻った私は、桂木仁の手帳を再度読み返した。  彼が亡くなる前に残したメモは断片的で、解読には根気が要った。


『名を問われても、答えるな』 『階段は十二段目で止まれ』 『扉を開けた者は、名を失う』


 名と夢が鍵だ。桂木さんは、夢に現れる構造を"通路"として捉えていた節がある。  そして、それは決して物理的な場所ではない。見る者の記憶、無意識、そして“記録されなかったもの”が形を取る異界。


 再開発が進み、祠も記録も地図から消え、土地が“忘れられていく”過程で、封印はその存在を薄めていく。だが、忘却は時に異界の扉を開ける。


 その扉を閉じるには、夢を通じて、私が向こうへ入るしかない。


 問題は、その方法だった。


  * * *


 その夜、私は自室で記録者の道具を取り出した。  夢路札(むろふだ)――夢を媒介として封印・接続を可能にする札である。  使用者の名を記し、枕元に置くことで、自身の“夢の構造”を安定化させる。  桂木さんはかつて、私にそれを託していた。彼の死後、それが意味を持ち始めている。


 私は札に自分の名を記した。  『香坂瑠璃』


 そして、灯りを落とし、眠りに入った。


  * * *


 目を覚ますと、私は階段の上にいた。  暗がりの中に、白い石造りの階段が、どこまでも続いている。  これは夢であり、異界との接続路である。


 下から、声がする。


 ――瑠璃。


 名を、呼ばれた。  私は返事をしない。桂木さんの警告が、耳の奥にこだまする。  “返事をするな”。


 私は一歩ずつ階段を降りていった。  一段、二段、三段……数えながら進む。


 十一段目に差しかかったとき、視界が歪んだ。  空間が揺れ、風が吹いた。誰かが笑っている。桂木さんの声だった。


「記録とは、忘れないことだよ、瑠璃くん」


 私は立ち止まった。十二段目を、目前にして。  彼はすでに異界の一部なのか、それとも私の記憶が呼び出した幻影か。


 と、そのとき足元から手が伸びてきた。細く白い指先。


 「アユム……」


 少年の顔が、階段の下から覗いていた。  その目は虚ろで、口元がかすかに動いている。


 ――たすけて。


 私は思わず、階段を駆け下りようとした。


 が、十二段目を越えた瞬間、空間が反転した。


 世界が、裏返った。


 私は、異界に入ったのだ。


  * * *


 目を覚ますと、まだ夜だった。夢の記憶は鮮明だったが、アユムの姿は曖昧だった。


 ただ一つ、確信できることがある。


 彼は、まだ“向こう”にいる。


 そして私は、もう戻れない階段を、踏み越えてしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る