【第1話 欠けた封印】

雨が降っていた。


しとしとと、まるで何かを洗い流すように――あるいは、静かに誰かの足跡を消してしまうように――都の空に、冷たい水が落ち続けていた。


その日、都内の一角にある閉鎖された旧ビルの一室には、五人の男女が集まっていた。


「……それで、桂木さんの後任は?」


会議机の端に座った私は、誰にともなく問いかけた。

返答はなかった。

誰もが黙したまま、視線を交わすこともせず、雨音のほうをじっと聞いていた。


この場にいるのは、私――香坂瑠璃を含めた五名の記録者たち。

都内各地に点在する、異界への接続点――“裂け目”――を監視し、封印を維持する役割を担う、いわば語られぬ祀り手たち。


その中でも最古参だった桂木仁が、先日亡くなった。

「事故死」とだけ伝えられたが、ここにいる全員が、その言葉の裏に潜む真実に気づいていた。

これは、ただの事故などではない。

封印の綻びが、あちら側の“何か”を引き寄せてしまったのだ。


「……私は、もう無理だよ。足腰がもう、動かなくてね」


春原美千代が微笑んだ。

けれどその声は、やわらかい表情の奥に、どこか諦めと痛みを滲ませていた。


「俺もな……引退して十年近くになる。いまさら記録の現場に戻れる気力も、体力もないよ」


黒瀬道哉も苦笑交じりに言った。

かつては厳格な記録者として知られた彼も、すっかり老いの影を背負っていた。


「私も……ごめんなさいね」


小さな声でそう言ったのは、和泉律子。かつて第十番座標の記録を担っていた女性だ。

白髪交じりの髪を後ろで束ね、背筋を伸ばして座っていたが、手元の茶湯椀を支える指が微かに震えていた。


「最近、夢にうなされる日が増えてね。記録札に名前を書くのも、手が止まってしまうのよ。もう、役目は果たしたと思ってるの」


そして、もう一人。

無言のまま黙っていた青年が、私の隣でようやく口を開いた。


「僕は……ただの補助要員ですから。記録者の正式継承なんて、荷が重すぎる」


その青年――野本祐一は、かつて桂木仁の現地調査に同行していた人物で、封印札の管理や記録簿の補助を担っていた。

異界に接触する適性は高いものの、まだ心身の準備が追いついていないのは明白だった。


「……つまり、残るのは私だけ、ということですね」


自嘲気味にそう言うと、誰も否定はしなかった。

この場に、次の担い手は、もう私しかいないのだ。


詠月区画――

そこは、都内でも再開発の進行が特に著しい地域。

高層マンションが立ち並び、古い地名も、祠も、過去の記憶も、地図から消えつつある。


しかしそこには、確かに“何か”があった。

そして、それは今も、まだ息づいている。


桂木さんは、かつて私に言った。


『あの場所は夢を喰うんだよ。だからね、夢を記録しなさい。名と共に』


当時は、何のことかわからなかった。

けれど今なら、わかる気がする。

あれは予兆だったのだ。


「封印の兆候が崩れてきています。夢を見た者が、そのまま眠ったまま目を覚まさなくなる。……そんな報告が出てきています」


私がそう告げると、春原さんが深く眉を寄せた。


「……桂木さんの“名守札”、まだ有効なのかしら?」


「おそらく……もう限界です。異常が出ているということは、名の力が弱まってきている証拠かと」


名守札――記録者が自らの名を刻み、異界の“座標”に打ち込む封印札。

それは、あちら側へと開きかけた口を、名の重みで此岸に縫いとめるもの。


だが、その効力は、時間と共に擦り減る。

記録の断絶が生まれれば、封印は確実に崩れていく。


「私が行きます。詠月区画、現地の確認をしてきます」


立ち上がった私に、誰も止める者はいなかった。

ただ、春原さんがそっと口にした。


「……あなたは、夢を見る人だったわね」


私は静かに頷き、小さく笑って応えた。



---


詠月区画。

かつての町並みはほとんど残っていない。

新築のビル、ガラス張りのマンション。

それらの隙間にぽっかりと空いた、空き地。


そこが、裂け目の“座標”だ。


桂木さんの手帳を取り出し、ページをめくる。

手書きの走り書きが、微かに滲んでいた。


『夢に名を呼ばれるな。夢の階段を数えるな。声に返事をするな』


それは、異界と接触した者に課される禁忌――

呼ばれ、応じた瞬間に、名と記憶は“あちら”に引きずられる。


私は膝をつき、手袋越しに地面へそっと触れた。

皮膚越しに感じる、心臓のような微かな脈動。


「……目覚めかけてる」


そのとき、不意に声がかけられた。


「お姉さん、ここでなにしてるの?」


振り返ると、ランドセルを背負った男の子が、こちらを見上げていた。

目元に不思議な光をたたえながら、無邪気に笑っている。


「あなた……名前を教えてくれる?」


私がそう尋ねると、少年は首をかしげて、こう答えた。


「瀬野アユム。夢の中で、“誰か”に呼ばれたんだ」


その瞬間、全身の感覚が研ぎ澄まされた。

この子は――もう、半分、異界の中にいる。

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