第2話 呪われ王子と黒猫のルール



「え、感情がないと存在も消える!? そんなのあり!?」


 朝の光が差し込むカフェで、わたしは叫んでいた。シェルが詳しい説明を始めたからだ。


「人間の存在は、感情によって支えられている」


 黒猫は本棚から分厚い魔法書を引っ張り出した。紫の宝石が、また不気味に脈打つ。


「喜び、悲しみ、怒り、恐怖——これらが複雑に絡み合って、『自分』という存在を形作る。それが失われれば——」


「消えちゃうってこと?」


「その通り」


 王子が窓辺に立っている。朝日を浴びて、透けた身体がきらきら光っている。きれいだけど、切ない。


「でも、どうして感情を失ったの?」


 わたしの質問に、王子の表情が一瞬歪んだ。苦しい? いや、違う。これは——


「呪いだ」


 シェルが重い声で言った。


「感情封印の呪い。しかも、かなり強力な」


「誰が!? なんでそんなひどいこと!」


「それが分からない」


 王子が振り返る。その瞬間、目の奥で赤い光がちらついた。昨日も見た、あの光。


「記憶も一緒に封印されているみたいなんだ」


 シェルがカウンターに飛び乗った。


「さて、このカフェのルールを教えておこう。昨日は時間がなくて省略したが」


 カフェのルール?


「第一に、支払いは『小さな勇気』や『素直な言葉』」


 昨日もらった石を思い出す。あれが勇気の結晶だったんだ。


「第二に、営業時間は夕暮れから深夜まで」


「第三に——」


 シェルの声が急に低くなった。


「感情が戻りすぎると、制御できなくなることがある」


「え?」


「特に、負の感情はね。怒り、憎しみ、絶望。一気に戻れば——」


 王子の手が、ぎゅっと握りしめられた。


「暴走する、ってこと?」


「その可能性がある」


 ぞっとした。感情が暴走したら、何が起きるの?


「だから、少しずつ戻していく。今日はレモンパイで記憶の扉を開く」


 レシピ本のページを開く。『記憶のレモンパイ』。


 材料を見ると——『追憶のレモン』『時間の粉』『忘却の砂糖』。


「追憶のレモンは地下室にある」


 シェルに案内されて、薄暗い階段を降りる。王子もついてきた。


 地下室は、ひんやりとしていた。棚にはいろんな瓶や箱が並んでいる。


「これだ」


 金色に光るレモン。でも、手に取ろうとしたとき——


「危ない!」


 王子がわたしを引っ張った。レモンの隣に、真っ黒なレモンがあった。


「それは『忘却のレモン』。触れたら、君の記憶も消える」


 危なかった……。


 王子の手が、わたしの手を握ったまま。冷たいけど、しっかりしている。


「ありがとう」


「ん」


 短い返事。でも、耳が少し赤い? 感情が戻ってきている証拠かな。


 厨房に戻って、パイ作り開始。


 まず生地から。バターを小麦粉に切り込んでいく。


「落ち着いて。バターが溶けないように」


 王子がアドバイスしてくれる。


「どうして作り方知ってるの?」


「分からない。でも、手が覚えてる」


 不思議。記憶は消えても、身体は覚えているんだ。


 生地ができたら、型に敷いて、重しをのせて焼く。


 その間にレモンフィリング。


 追憶のレモンを絞ると——


「きれい……」


 果汁がきらきら光って、中に何かが見える。景色? 人?


「記憶の欠片が見えるんだ」


 シェルが説明する。


「これを煮詰めると、食べた人の記憶を呼び覚ます」


 慎重に火にかける。ぐつぐつと煮えるたびに、映像がはっきりしてくる。


 城、庭、そして——女の人。


「あ……」


 王子が鍋を見つめる。


「この人……」


 でも、そこで映像が乱れた。まるで、誰かが邪魔しているみたい。


 焼き上がったパイに、フィリングを流し込む。仕上げにメレンゲをのせて、こんがりと。


「できた!」


「上手になったね」


 王子が微笑む。昨日より、表情が豊かになっている。


 一口食べた瞬間——


 王子の瞳が見開かれた。


「見える……母様だ」


 涙が一筋、頬を伝う。


「歌を歌ってくれた。優しい人だった」


 身体の透明度が、20%から15%に。


「でも、なぜ……なぜ僕は……」


 急に王子が頭を抱えた。


「痛い!」


「王子!?」


 王子の周りで、赤い光が激しく明滅する。まるで、何かが記憶を守ろうとしているみたい。


「これは——呪いの防衛反応だ」


 シェルが飛び上がる。


「記憶を取り戻そうとすると、呪いが抵抗する」


 王子が苦しそうにうずくまる。その手が、テーブルをぎゅっと握ると——


 パキッ


 テーブルに亀裂が入った。


「力が……制御できない」


 これが感情の暴走の前兆?


「王子、深呼吸して!」


 わたしは王子の手を握った。冷たい手が、今は熱い。


「大丈夫、ゆっくりでいいから」


 少しずつ、王子の呼吸が落ち着いてくる。赤い光も収まった。


「ごめん、怖かった?」


「ううん。でも——」


 正直に言った。


「感情が戻るのって、大変なんだね」


「そうだね」


 王子が力なく笑う。


「でも、それでも取り戻したい。母様のことも、全部思い出したい」


 2階に部屋を案内してもらった。わたしの部屋は、想像以上に素敵だった。


 天蓋つきのベッド、本棚、小さな机。まるで、ずっと前からわたしの部屋だったみたい。


「気に入った?」


「うん、すごく」


 王子が嬉しそうに笑った。でも、その笑顔の裏に、不安が見える。


「コトハ」


「なあに?」


「もし、僕が感情を取り戻して、嫌な奴だったらどうする?」


 意外な質問に、考え込む。


「それでも、消えるよりはいいよ」


「本当に?」


「うん。だって、嫌な奴でも、変わることはできるから」


 王子が目を丸くした。


「君は、強いね」


「そんなことない」


 わたしは首を振った。


「わたしだって、親友に裏切られて、ずっと逃げてた」


 自分の過去を、少しだけ話した。信じていた子に裏切られて、学校に行けなくなったこと。


「でも、ここに来て思った。逃げてばかりじゃダメだって」


 王子が優しい目でわたしを見る。


「君も、傷ついていたんだね」


「うん。だから、このカフェに呼ばれたんだと思う」


 夜になって、窓の外を見ると、紫とオレンジの空。この世界の夕焼けは、いつ見ても不思議な色。


 と、その時——


 遠くに、黒い影が見えた。人? いや、もっと大きい。


「あれは何?」


 王子も気づいて、顔が青ざめた。


「まさか——」


「知ってるの?」


「分からない。でも、嫌な予感がする」


 影は、こちらを見ているような気がした。でも、すぐに森の中に消えてしまった。


 シェルを呼んで報告すると、黒猫の表情が険しくなった。


「やはり、来たか」


「やはりって?」


「王子の感情を狙う者がいる。感情は、力の源でもあるからね」


 ぞっとした。王子の感情を奪う存在がいるなんて。


「でも、このカフェの結界は強固だ。簡単には入れない」


 本当かな。さっきの影、すごく不気味だった。


 眠る前、王子が部屋をノックした。


「入っていい?」


「うん」


 王子は、小さな箱を持っていた。


「これ、君に」


 中には、きれいな青い石のペンダント。


「お守り。母様の形見なんだ」


「え、でも、大切なものでしょ?」


「だから、君に持っていてほしい」


 王子の顔が、月明かりに照らされている。


「君を守りたいから」


 胸がどきどきする。


「ありがとう」


 ペンダントを首にかけると、温かい力を感じた。


 でも、同時に不安も。


 王子の感情が戻って、本当にいいのかな。


 あの赤い光、暴走の予感、謎の影——


 でも、今は信じるしかない。


 王子を救うって、決めたんだから。


「え、感情がないと存在も消える!? そんなのあり!?」

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