『魔法カフェと72時間で消える王子』―スイーツと感情で、君の心を取り戻す物語―

ソコニ

第1話 異世界の厨房で、王子が透けている



「あと72時間で、僕は消える」


 半透明の少年がそう言った瞬間、甘い香りが世界を包んだ。


 わたし、神崎コトハは、さっきまで学校の図書室にいたはずだった。放課後の静かな空間で、誰にも見つからないように本を読んでいた。でも、古い料理の本を開いた瞬間、ページから金色の光があふれて——気がついたら、ここにいた。


 目の前の少年は、向こう側の景色が透けて見えるほど薄い。まるでガラスでできているみたい。青い瞳だけが、はっきりとわたしを見つめている。


「72時間って……それって明後日の夜!?」


 わたしの叫び声に、足元から落ち着いた声がした。


「その通り。正確には、あと71時間42分だ」


 見下ろすと、紺色の瞳をした黒猫が座っていた。首には紫の宝石がついた首輪。宝石が不気味に脈打つように光っている。


「ね、猫がしゃべった!?」


「失礼な。私は猫ではない。元宮廷魔導医のシェルだ」


 黒猫——シェルのひげがぴくりと動いた。その瞬間、厨房の温度が少し下がった気がした。


「君は選ばれてここに来た。そして彼は——」


 シェルが透けた少年を見上げる。その視線には、隠しきれない焦りがにじんでいた。


「ユアン王子。感情を失い、このままでは完全に消滅する」


 王子が一歩前に出た。その動きで、身体がさらに薄くなったように見えた。今は……25%くらいしか実体がない?


「どうして消えちゃうの?」


「感情がなくなると、人は存在できなくなる」


 王子の声は、まるで他人事みたいに淡々としていた。でも、よく見ると、その手がかすかに震えている。


 ——怖いんだ。感情がないって言うけど、本当は怖いんだ。


「君には特別な力がある」


 シェルの言葉で、我に返った。


「見てごらん。王子の周りに何か見えないかい?」


 目を凝らすと——


「うわっ!」


 王子の周りに、灰色のもやが渦巻いていた。時々、赤や青の光がちらつく。まるで、消えかけた感情の残骸みたい。


「これって……」


「感情の残りかす。君には感情が見える。そして——」


 シェルがカウンターに飛び乗った。着地の瞬間、また宝石が光った。


「このカフェで作る魔法のスイーツは、失われた感情を呼び戻すことができる。ただし」


 シェルの声が急に低くなった。


「失敗すれば、王子の消滅を早めることもある」


 背筋がぞくっとした。失敗したら——


「脅かさないで、シェル」


 王子が初めて、感情らしきものを見せた。ほんの少しの苛立ち?


「コトハ、君に無理強いはしない。でも——」


 王子の瞳に、何かが宿った。諦めと、それでもどこかにある希望と。


「僕は、もう一度感じたい。喜びも、悲しみも、全部」


 わたしは厨房を見回した。見たことのない調理器具。光る瓶。天井から吊るされた不思議な植物。


 できるかな。わたしにできるかな。


 でも——


「やる」


 エプロンを手に取った。ピンク色の、ふりふりがついたかわいいエプロン。着けた瞬間、身体に魔力が流れ込んでくるのを感じた。


「決めたんだね」


 シェルが古い本を開いた。『心拍のショートケーキ』のページ。


「最初は基本から。これを作れば、王子の心臓に命の鼓動が戻る」


 恐る恐る王子の胸に手を近づけた。


 ——何も、ない。


 音も、振動も、温度も。まるで、生きていない人形みたい。


「急ごう。時間がない」


 材料を確認する。卵、小麦粉、砂糖、生クリーム、そして——


「『希望の苺』? これ何?」


「窓の外を見て」


 小さな庭に、光る苺が実っていた。でも、よく見ると、実の半分が黒く染まっている。


「気をつけて。黒い部分は絶望の毒。間違えれば——」


「分かった」


 震える手で、赤い部分だけを慎重に摘み取る。


 調理開始。


 卵を割る——殻が入った。


 小麦粉をふるう——こぼれた。


 混ぜる——飛び散った。


「落ち着いて!」


 王子が叫んだ。あ、また感情が。


「君なら、できる」


 深呼吸。もう一度。


 今度は慎重に。卵を泡立てて、ふんわりするまで。小麦粉を少しずつ。


 オーブンに入れて、待つこと30分。


 その間、王子の様子がおかしくなってきた。


「うっ……」


 身体を押さえて、苦しそうに。


「どうしたの!?」


「時々、こうなる。感情が戻ろうとして、でも戻れなくて」


 透明度が増していく。25%から30%に。


「早く、早く焼けて!」


 やっと焼き上がった。急いでクリームを塗って、希望の苺を飾る。


「食べて!」


 王子がフォークを手に取る。一口——


 ドクン!


 大きな音が、部屋中に響いた。


「心臓が……動いた」


 王子の顔に、驚きと喜びが混ざった表情。そして、身体の透明度が20%に戻った。


「やった! でも——」


 王子が胸を押さえる。


「苦しい。久しぶりすぎて、苦しい」


「それでいい」


 シェルが言った。


「生きているということは、時に苦しいものだ」


 壁の振り子時計が、逆回りに動いている。残り71時間12分。


 王子がわたしを見つめる。


「君の名前は?」


「コトハ。神崎コトハ」


「コトハ……ありがとう」


 でも、王子の手はまだ震えていた。そして、時々、目の奥に暗い影が過ぎる。


 ——本当に、全部の感情を取り戻していいのかな。


 そんな不安が、一瞬よぎった。


 窓の外で、何かが動いた。


 黒い影? でも、すぐに消えた。


 気のせい、だよね。


「次は何を作る?」


 王子の問いかけに、我に返る。


「明日は、記憶のレモンパイだ」


 シェルが本を閉じる。


「今日はゆっくり休みなさい。明日からが、本当の勝負だ」


 カフェの扉に掛かった看板が、風に揺れている。


『営業時間:午後4時~深夜0時 心に傷を持つ者だけが見つけられるカフェ』


 わたしも、ここに来られた。


 親友に裏切られて、誰も信じられなくなって、学校に居場所がなくて。


 でも今は、目の前に救わなきゃいけない人がいる。


「絶対に、消えさせない」


 その決意と一緒に、小さな石がテーブルに現れた。


「それが、君の支払いだ」


 シェルが説明する。


「『小さな勇気』の結晶。大切にしなさい」


 不思議な世界。不思議なルール。


 でも、なぜか怖くない。


 むしろ——


「明日が、楽しみ」


 小さくつぶやいた言葉を、王子が聞いていた。


「僕もだよ」


 でも、その笑顔の裏で、王子の瞳に一瞬、赤い光が走った。


 それを、わたしは見逃してしまった。


「72時間で消えるって、それって明後日の夜!?」

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