BAR

@amane404

一話完結

カランッ

BARにドアベルの音が響く

俺はこのBARが好きだ、五年通うほどには

客入りもあまりなく、店内にかかっているジャズの音色も心地よい、そして何よりマスターが話さないのだ

注文を言うと無言でシェイカーを使い、カクテルを作り、客の前に置く

俺はそれを飲みながらジャズの音色に身を任せるのがとても好きだった

口下手な俺でもずっと通ってしまうくらいここは心地のいい空間だった

「いらっしゃい」

マスターがいつものセリフを口にする

俺はいつもの席に座り

「マスター、カルーアミ…」

「貴方長年いつも来て下さる方ですよね。今日は感謝の印として一杯私のオススメをおごらせてください」

俺の注文に被せてマスターが口を開いた

初めてのことだった、五年通って初めて

驚愕だ、マスターと話している

いや話していることはもちもん聞いたことがある

しかし、テンプレートのように

「いらっしゃい」「ありがとうございました」

と入店と退店の時に言われる言葉しか聞いてこなかったのだ

「あ…ああ」

驚きのあまりそれしか口にできなかった

なぜ、なぜ今になってだ、色々な疑問が頭を巡る

「出来ましたよ」

パチンッ

風船が割れるように頭の疑問が飛散した

目の前に置かれたのはオレンジ色をした一杯のカクテル

「マスター、これは」

「カルフォルニアレモネード、さっぱりとした味わいです。気に入ってくれると嬉しいのですが」

いつものマスターはどこへ行った

それほど饒舌に話す姿は初めて見た

「マスター、気になったことを聞いてもいいか」

「ええ」

「なぜ今なんだ。マスターがこんなにも饒舌に話す姿なんて五年通ったが見た事がない」

「別に、貴方と話してみたくなった。それだけです」

なんという拍子抜け

俺は疑問を口にしてから止めていた息をはぁーと大きく吐き出す

「このカクテルの言葉は何なんだ」

次に気になっていた疑問をぶつける

なぜこのカクテルが俺に出されたのか、それが気になってしょうがない

「それは…永遠の感謝です。貴方が初めてなんです。ここまで長く通ってくれる方は」

少し口ごもり、答えてくれた

感謝

俺はこの空間が好きだから通っていただけだがマスターからすれば違ったようだ

そうか、感謝か

嬉しい、胸が昂ってくる、可能なら今すぐマスターの手を取り、ジャズの音色に合わせて踊り出したい気分だ

昂る気持ちを抑え、この夜マスターと初めて雑談を交わした

俺の名前や職業、五年のうちに何があったか

マスターの、名前、そしてこの五年で何をしていたのか

そう、互いの名前すら知らなかった俺たちが一晩で多くのことを知った

それは意外にもとても心地よい時間だった

時間はあっという間に過ぎ、カクテルも無くなっている

俺は雑談を切りあげて退店しようとする

「またお越しください」

なんということだ、マスターのテンプレートだった別れの挨拶が変わっている

一晩のうちに色々なことが変わったみたいだ

「ああ、また近いうちに来るよ」

俺はそう答え、店を出る

なんだか、夢を見ていたような気分だ

カクテルのせいもあるだろうがふわふわとし、夢見心地

本当に今日起きたことは現実なのか

だが、とても心地よかった

今晩の出来事だけで今日が素晴らしい日だったと思える


三日後

俺はまたあのBARへ行った

「いらっしゃい」

いつもの無口なマスターがそこには居た

やはりあの夜は夢だったのか

しかし、ひとつ変わったことがある

「マスター、カルフォルニアレモネードを一杯」

俺の注文するカクテルが変わった

それ以外は何ら変わりない

マスターは無言でシェイカーを取り、カクテルを作り俺の前へ置く

俺はいつものようにジャズの音色に身を任せ、カクテルを飲む

今日は比較的早く飲み終わり、支払いを済ませ、退店しようとする

すると

「またお越しください」

なんだ変わったこともうひとつあったんじゃないか

あの夜はやはり夢ではなく、現実だった

退店の挨拶がマスターとの次の約束になる

「ああ、また近いうちに」


俺はそれからもBARに通った

マスターと雑談を交わすこともあれば、無言で音楽に身を任せることもある

五年通って変わったのはそれくらいだ

マスターとの雑談もジャズに身を任せることも同じように心地がいい

きっとこの新しい日常にもすぐに慣れる

そういえばもうひとつ気づいたことがある

俺はマスターが話そうが、話すまいがこのBARが好きだ

もうひとつ、マスターと話す時だけは俺は少し饒舌になる

口下手だった俺も変わってきている

それも含めて俺はこのBARが大好きだ

きっとこれからも色々変化しながらもこの大好きなBARに俺は通うだろう

心地よいジャズの音色と、少し無口なマスターに会うために




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