(2)




 宵が僕を連れて来たのは、公園の前の坂を下って、少し歩いた先にある池だった。

 けれど池と呼ぶにはおおよそ大きすぎる沢だ。一周するのに20分ほどはかかるのではないだろうか。


 池畔をぐるりと囲むのは、何本もの桜の巨木。満開の桜はライトアップされ、池に映り幻想的な光景を作り上げている。

 小学生の時だったか遠足で来たことがあるけれど、なんとなく退屈で、それ以降はあえてここを訪れようとはしなかった。けれど今目の前にある景色は、ぼんやりとした記憶の中のそれよりもっと鮮やかで美しく壮大だった。今日までここを訪れなかったことを後悔させるほどには。


「すご……」


 思わず僕が息をのむと、宵が隣でくすりと笑った。


「綺麗だよね、ここの夜桜」

「ああ、とっても」

「昼間もいいけど、このライトアップがさ、なんか雅だよね」

「うん、わかる。夜桜って初めて見た」

「でしょ? だと思って、ここに一緒に来たかったんだ」


 宵の言葉で、僕の心にぽっと温もりが宿る。宵にとっては些細で深い意味はないのかもしれないけれど、僕にとっては輝かしい宝物になる。


 ふと隣を見れば、夜桜をバックに宵の横顔が目に入り、僕は思わず目を奪われる。白くて華奢な曲線が織りなす横顔で、長くくるりとカールした睫毛を精一杯持ち上げて、その瞳に目の前の景色を刻みつけるような直向きな眼差しを称える彼女。なんでそんなに懸命に焼きつけているのだろう。


「綺麗……」


 息を吐くのと同じ体感で、意識する間もなくそう呟いていた。


「ん?」


 案の定、その言葉は拾われてしまい、僕は焦る。


「あ、いや、なんか夜桜と宵ってすごく似合うっていうか……」

「ええ? それって褒められてる?」

「うん、ホメてる……」


 宵の顔が見られなくて、夜桜を見上げたまま答える。

 すると隣で宵が小さく吹き出した気配がする。


「嬉しいな。初めて言われた」

「……はずい」

「なんかこれ、私まではずいよ」


 穴があったら入りたくて額に手を当てていると、宵が「でもさ」と呟いた。


「桜も満月もすごいよね。それを前にすると、人はどんなに悲しくて下を向いていたって顔を上げずにいられないんだから」

「……たしかに」


 自然の神秘的なパワーを前に、人間はちっぽけだ。月の満ち欠けも四季も何度も巡ってくるのに、そのたびに圧倒されずにはいられないのだ。


 改めて感心していると、宵が得意げに僕を見上げて笑う。


「どう? 夜のお散歩もいいでしょ?」


 だから「デートじゃなくて?」とすかさず問うてやると、宵は「もう」と頬を膨らませた。怒っているつもりだろうに可愛いのだからずるい。


「東屋の方行こうよ」

「いいね」


 ふたりで並んで歩きながら、橋へと向かう。池の真ん中には木で作られた、人ふたりがやっと通れるほど細い橋が架かっており、池の真ん中にある小さな島へと繋がっているのだ。その島には東屋が建てられている。


 足元の水面には散った花びらが浮かび、それは星屑のよう。空がふたつあるみたいだ。

 池を見つめながら歩いていると、隣で宵が教えてくれる。


「これ、花筏って言うんだよ」

「ハナイカダ?」

「花びらが連なって、筏に見えるでしょう?」

「たしかに。宵は物知りだな」

「へへ」


 柵は低く、少しでもふらついたら池に落ちそうだな、なんて考えながら橋を渡り、池に囲まれた東屋に入る。コの字を描くベンチはとっても長いというのに、僕たちはこぢんまりと並んで座った。


 22時半を過ぎた池畔には、僕らのほかに人影はない。この空間一帯にゆったりとした静謐な時間が流れ、鯉がぽちゃんと跳ねた音がやけに響き渡る。

 同じ方向を見て、ライトアップされる夜桜を見つめる。静寂があたりを包む。

 不思議と静寂が息苦しくはなかった。けれど、せっかく宵の隣にいられるのに沈黙はもったいなくて、僕は自然な風を装って話題を切り出す。


「宵はどんな子どもだった?」

「え?」


 隣から僕を見上げる視線を感じ、僕は観念して本音をこぼす。


「いや……宵のこと、知りたいなと思って」

「嬉しいこと言うね」


 宵の声が綻ぶ。けれどその中には、少しだけ潤んだ気配があって。

 宵はすん、と鼻を啜ると、軽く空を仰いだ。


「どんな子どもかあ……」

「告白とかすごいされただろ」

「ううん、全然」

「そうなの? 高嶺の花だから声かけられないんじゃない?」

「そんなことないよ。普通だよ」


 謙遜するけど、絶対嘘だと思う。宵がモテないはずがない。僕がクラスメイトだったら、授業中も見惚れて勉強が手につかなかったはずだ。


「でもそうだなあ……。私は見栄っ張りな子どもだったな」

「見栄っ張り?」


 宵を表すには毒のあるその言葉は似つかわしくなくて、僕は疑問符を打つ。

 すると宵はあくまで軽やかな声で継いだ。


「まわりにはよく社交的だねって言われるけど、本当はなにより本が大好きで、空想の世界にいるのが幸せだったの。教室でもひとりで本に没頭していたいくらいにね。でも本当のことを言ったら仲間外れにされるかもと思って、みんなに隠してかっこつけた私を演じてたんだ」


 それから宵は、足元に視線を落とした。


「実は、中学生の頃からこっそり小説を書いてたの」

「え、すごい」

「いや、ほんとにね、素人なんだけど。でも、それもだれにも話せなかったんだ。恥ずかしくて」


 思春期の世界は残酷だ。本当の自分を隠すことが、宵が生き抜く手段だったのだろう。


 すると、不意に宵の声が和らいだ。


「だけどある時、ある人が私の小説を読んでくれてね。それで言ってくれたんだ。私の物語には愛があるって」


 その時の感情が心に蘇ったかのように、宵の横顔が優しく笑う。


「それが私、すごく嬉しくて……。勝手に否定されるって思い込んでたけど、実は世界って私が思うよりもっと優しかったんだなあって。それから私、もっとまわりの世界を信じてみようって思ったの。そうしたらとっても生きやすくなって、世界が一気に煌めいたの」


 宵がこちらを見る。横顔を見つめていた僕と、視線が交わる。


「今の私があるのは、その人のおかげなんだ」


 息をのむ。目を奪われ、宵の瞳に吸い込まれそうになった。

 そして、僕は心のどこかで羨ましいと思ってしまった。宵の作品を読み、宵の心を揺さぶったその人のことが。

 だからその言葉を放ったのは、必然的なことだったのだと思う。


「僕にもその小説、いつか読ませてくれないかな」

「え?」

「読んでみたい」


 自分の声に熱心な色が滲んだ。

 嫉妬ももちろんあったけれど、純粋に彼女の頭の中に広がる世界を僕も知りたいのだ。宵と同じ眼差しで、物事を見つめてみたい。


 すると宵は嬉しそうに瞳を緩め、そしてひっそりとした声で呟いた。


「うん……。いつか読んでほしいな」


 それから宵は風合いを正すように、声のトーンをひとつ上げた。長い睫毛の下の瞳が、魅力的にきらりと光る。


「灯くんは? 灯くんは、どんな子だった?」


 問われ、僕は「んー……」と唸りながら自分の子ども時代を回顧する。

 僕は多分、一般的に言えば平凡な子どもだった。話題に事欠かない子ども時代を過ごせていたらよかったけど、現実は理想とは程遠い。かっこいい武勇伝も、話が弾むようなエピソードトークもない。


「僕も社交的ではなかったよ。サッカーに打ち込んでたし、友達はひとりいてくれれば充分だったし」


 ついでに恋人もいたことないし……と付け加えようかと思ったけど、蛇足になるかと思い自重する。こんな情報、宵にとってはどうでもよすぎる。

 代わりに僕は大きな事件があったことを思い出し、苦笑しながら頬をかいた。


「でもさすがに、高2のクラス替えをしてすぐ事故に遭った時は焦ったかもな……。クラス中から忘れられると思った」


 それは学校に向かう途中のこと。乗っていたバスが事故に遭い、事故に巻き込まれた僕は生死の境を彷徨って2ヶ月入院した。打ちどころが悪かったらしく、生きていたのが奇跡だとまで医師に言われた。

 サッカーを辞めたあとだったのが、不幸中の幸いだったかもしれない。


「事故……。今は大丈夫なの?」

「あ、今は全然大丈夫。後遺症もないし」


 こちらに体を向けた宵に不安そうに顔を覗き込まれ、僕は両手を振りながらおどけて笑って見せる。

 すると宵が泣きそうになりながらきゅうっと瞳を細め、そして俯いた。


「灯くんが無事でよかった……」


 てっきり笑い話になると思って持ち出した話題なのに、存外にもしんみりした空気になってしまって僕は焦る。まずい、こんなはずじゃなかったのに。

 空気を切り替えようと、僕は苦し紛れに声を張り上げた。


「大丈夫……! 僕の生命線すごく長いから、しぶといんだ、きっと!」

「え……?」


 僕が右の手のひらを突きつけると、宵がきょとんとして僕を見つめる。


「それってもしかして慰めてくれてるの?」

「あ、いや……かっこつかなくてごめん……」


 自分で言いながらいたたまれなくなってくる。もっとかっこよく振る舞えたら、もっとスマートに会話を操れたら……僕はきっと宵にこんな顔をさせなかったのに。


 と、落ち込む僕の手に、小さな白い手が重ねられた。

 顔を上げれば、宵が眉を下げながら唇の端を持ち上げ、懸命に微笑んでいた。


「ありがとう、灯くん」


 濡れた瞳に見つめられ、鼓動が逸る。


「灯くんには敵わないなあ、ほんとに」


 宵はしんみり浸るようにそう呟くけど、それを言うなら僕の方だ。


 桜越しに、青白い月が音もなく僕らを見守っている。

 僕は動くこともできないまま、その瞳に閉じ込められていた。






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