(3)



 絵本を読み希を寝かせつけると、僕はひとりリビングに起き出した。


 母さんは希を寝かせている時に帰ってきたようだけど、一度顔を覗かせただけで寝てしまったらしい。テーブルの上に置いておいた作り置きの夕食は、すでに空っぽになってシンクに置かれていた。僕の分と希の分、それから母さんの分の食器は、積み重なったままだ。せめて母さんには食器を水に浸けておいてほしかったけど、それを言うタイミングをいつも見つけられずにいる。


 家族がこうしてばらばらになったのは、父さんが出て行ってからだろう。

 父さんは専業主夫だった。経営者としてバリバリ働く母さんを支えながら、僕たち兄妹の面倒をみてくれていた。

 そんな父さんが突然この家を出て行ったのは一昨年、僕が高校1年生の時だった。原因は父さんに恋人ができたこと。相手はアプリで出会った女らしい。


 前日まで普通に会話を交わし、夕食だって作ってくれたのに、翌日目を覚ますと父さんは書き置きだけを残していなくなっていた。なんの予兆も前触れもなく、当たり前だと思っていた日々は突然崩れ落ちた。


 書き置きは母さんがすぐに破り捨ててしまったから鮮明には覚えていないけど、家族への謝罪、それから家事と育児に追われる日々がつらかったのだと、そういったことがつらつらと書かれたいた。

 僕は父さんが家族を捨てたという事実よりも、父さんをそこまで追い詰めていたという事実がなによりショックだった。手紙に書かれていた、『この家での生活が息苦しくなってしまったのです』という一文が妙に心に突き刺さっている。

 父さんはその心中を隠すように、家では明るく振る舞い、てきぱきと家事をこなし続けた。僕や母さんでさえその異変に気づけないほど。そうして限界の境界線を誤魔化し続けた結果、父さんの心は窒息寸前にまでなってしまったのだ。


 父さんがこの家の外に逃げ場を作ったのは僕のせいだ。サッカーと勉強ばかりで、ろくに家事の手伝いも希の面倒をみることもしてこなかった。家事も育児も、してもらうことが当たり前だと思い込んでいた僕は、父さんに甘え切っていた。

 僕がもっと父さんの気苦労をわかっていれば……そう思ってももう手遅れなのだ。


 母さんは気を紛らわせるためか残業の時間を増やすようになり、ほとんど家族の場に顔を出さなくなった。

 家族はもちろん、精神的にも物理的にもばらばらになった。


 みんなが寝静まり、リビングはがらんとしている。昔は笑顔で溢れていたこの空間も、今では見る影もない。僕を孤独に追い込む静寂が、大声でその存在を主張してくる。


「はあ……」


 気づけばため息がこぼれるようになった。胸の中の重い空気を吐き出すように、自然とため息はこぼれる。


 ふと、窓のカーテンを閉めるのを忘れていたことに気づく。

 一度椅子に据えた重い腰を持ち上げ、窓辺に近づく。……と、その手が止まった。


「満月……」


 一面の黒の中に、ぽっかりと白い月が浮かんでいた。

 そういえば今朝の天気予報で、今日は満月が見えると言っていた気がしなくもない。


 なんとなく、ふらりと。まるで居場所を見つけに行くかのように、僕は外に出ていた。

 寝室で眠っている希のことがちらりと気にかかったけれど、母さんがいるからいいかと自分に言い聞かせる。


 満月なんてそんなに珍しいものでもないのに、僕はなぜかその神秘的な光を称える月をもっとよく見たいと思った。僕の足は、満月がよく見える高台にある公園へと向かう。

 時刻は22時半。辺りはすっかり夜の景色を纏っていた。ほとんどのお店が閉まり、家の窓の中に時折光を見つけるくらい。街灯が多いわけでもないので、月の明かりがライト代わりだ。

 けれど不思議と疎外感はなかった。それどころか夜闇が僕を受け入れてくれているような、そんな気さえしてくる。


 4月とはいえ、夜になるとまだ肌寒い。冷たい夜風が僕の頬を撫でる。

 そういえば通学路に桜が咲いていたな、と不意に思う。季節を感じる余裕なんて忘れていた僕は、この前まで冬だと思っていたのに、いつの間にか季節が移ろっていることに少しだけ驚いてしまう。


 ……そういえば、なにも持って出てこなかったな。スマホすらも。

 そのくらいふらっと、足が赴くままに家を出てきてしまった。

 でもまあいいか。

 家の外に出て、ようやく息がつけた気がする。肩に乗りかかっていた重力がふわりと消えて、自分の体がうんと軽くなった気がする。歩きながら伸びをした。人に溢れた昼間より研ぎ澄まされ澄んでいる空気が、肺を満たす。ああ、なんて気持ちいいのだろう。


 見つかったら補導かもなとか、家で寝ている家族が起きていたらどうしようとか、そういう雑念は消えていた。

 むしろ、夜に家族に黙って外を出歩く、その背徳感が心地よくさえ感じる。


 わずかに息を弾ませながら坂をのぼり、ようやく公園が見えてきた。

 家から歩いて10分ほどのこの公園にはたまに希を連れてくるけれど、こうして夜に訪れるのはもちろん初めて。昼間、小学生がよく遊んでいるこの公園が、今は別人の顔をして見える。


 僕は時計台を背に、ベンチに座ってみた。

 見上げれば、白い満月がそこにある。視界を遮る障害物がないせいで、手を伸ばせば月に届きそうだ。

 まわりに人がいないのをいいことに、僕は満月に向かって手を伸ばした。もちろん手が届かないことなんてわかっている。でもそんな馬鹿げたことをしてみたくなってしまうくらい、僕は浮かれていたのだと思う。


 その時だった。


「月が綺麗ですね」


 まるで流れ星が流れたように、その声はすっと胸の中に差し込んできた。柔らかくて優しくて、けれど芯の通った声。


 けれどまさか人がいるなんて思ってもいなかった僕は驚きの方が先行してしまい、案の定慌ててベンチから飛び上がる。


「えっ」

「あ……ごめんなさい。驚かせちゃいました?」


 振り返る。そこには女の子が立っていた。

 多分、同年代くらい。

 白い月明りに照らされた彼女は、あまりに神秘的な雰囲気を纏っていた。目鼻立ちがはっきりしていて、僕の手のひらよりもっと顔が小さい。なにより月明りに透けてしまいそうなほど色が白く透明感があり、それとコントラストを描くように黒い宇宙のような瞳が印象的だった。率直に、可愛い、と心が感嘆の声を漏らす。


「初めまして、不良少年くん」


 彼女が笑う。夜闇に溶けてしまいそうなほど淡く儚くて、僕は思わず見惚れてしまう。

 そのせいで、それに返した僕の声はあまりに小さいものだったと思う。


「初めまして……」

「見てたんですか? 月」

「はい。なんか見惚れちゃって」

「うん、わかります」


 彼女が月を見上げる。曲線が織りなすその横顔が綺麗だ。僕はこの時間を繋ぎ止めるかのように、咄嗟に会話の糸口を探していた。


「えっと、どうしてここに?」


 すると彼女は困ったように笑った。


「なんででしょう。私もきっと月を見に来たんだと思います」


 その曖昧な答えに、ほんの少し首を傾げかける。

 けれどそれを深く受け取るより先に、彼女が口を開いた。


「もしよかったら、お隣いいですか?」

「あ、もちろんです。どうぞ」


 ベンチに並んで座る。自然と目が合う向かい合わせと、自分から顔を動かして目を合わせに行かないといけない横並びとでは距離感が格段に変わり、急にハードルが上がった気がする。そわそわして視線を彷徨わせれば、不意に今更彼女が同じ高校の制服を着ていることに気づいた。

 もしかしたら夜のテンションなのかもしれない。すべてそのせいにしてしまいたい。普通なら初対面の人に自分から深く入り込むようなことはしないはずなのに、僕は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。


「もしかして、青葉高校ですか?」

「はい、そうです」


 僕の問いに彼女が頷く。やっぱり。


「学年は?」

「2年生です」

「え、僕と同じだ」


 僕は頭の中から、彼女と同じ顔の生徒の情報を探ろうとする。

 けれど合致した答えが出るより前に、彼女がネタばらしをするように苦笑した。


「でもきっと私のことはわからない思います。学校には行けてないから」


 不登校、なのだろうか。どんな事情か気になりはしたけど、さすがに個人的な深い事情に入り込むことは躊躇われて言葉を飲む。

 すると彼女は長い髪を揺らしながら上体を倒し、俺の顔を覗き込んできた。


「そういえば名乗ってなかったですよね。私、高槻宵たかつき よいっていいます」


 とても綺麗な名前だと思った。崇高な彼女を顕すのに相応しい。……なんて、多分今彼女のことならなんでも心の中で褒め称えてしまいたくなるくらいには、彼女の魅力に僕は惹かれていた。


「僕は、佐々木灯です」


 足元に落ちていた木の枝を掴み、「佐々木灯」と自分の名前の漢字を地面に書く。


「……灯くん」


 自分の中にそれをなじませるかのように、口の中でそう呟く彼女。

 彼女の澄んだ声で紡がれると、毎日聞いているはずの自分の名がなんだか特別なものに思えさえするのだから、彼女はすごい。


「高槻さんはここら辺に住んでるんですか?」

「あ、宵でいいです」

「宵、さん」


 すると彼女は、なにかいたずらを企んでいるみたいににっこり笑顔で首を振る。


「宵ちゃん……?」


 ふるふる。これでもだめみたいだ。

 でもだとすると僕に残されたのはひとつしかないのだけど……それはあまりにハードルが高いものな気がする。だって生まれてこのかた、僕は女子を呼び捨てにしたことがない。けれど彼女がそれしか許してくれないのなら……。

 ひとつ呼吸をし、改まってその名を呼ぶ。


「……宵」


 すると彼女は、それがひどく大切なものであるかのように、嬉しそうに心地よさそうに笑んだ。


「はい。敬語もいらないよ。同い年なんだし」

「え……」


 なんでか宵には逆らえない。最初は戸惑っていたけれど、宵にのせられるようにして心が解れていくのがわかった。緊張しながらも、少しでもフランクを装って話しかける。


「宵はよくここに来るの?」

「うん、たまに来たことあるけど、夜に来るのは初めて。でも来てよかったな。灯くんに会えた」


 無邪気な笑みと共に爆弾を落とされ、どくん、と心臓が揺れる。

 そんな彼女に翻弄されていると、宵は僕を探るように目を覗き込んでくる。


「で? 不良少年くんはどうしてこんな夜に外にいたの? 灯くんって優等生に見えるのに」

「不良少年って……」


 苦笑しながらも、僕は月を見上げた。そして自分の心の中を紐解いていくように言葉を繋いでいく。


「月が綺麗だったのもあるけど……なんとなく、逃げ出したいと思った、かな」


 日中は忙しなく時間が過ぎていき、僕は置いてきぼりにされるけど、夜なら僕の居場所があるかもしれないと、そう思ったのだ。

 寝てしまったら朝が来る。明日が来る。忙殺され、心が死んでいく毎日。だから僕は、明日が来るのが怖いのだ。一瞬でも長く、夜に留まっていたかった。


「そっか……」

「ダサいよな、高校生にもなって現実逃避とか……」


 言いながら、いたたまれなくなってくる。逃げ出したところで現実はなにも変わらない。24時間はだれにも等しく与えられていて、明日の朝はどれだけもがこうとも否応なしにやってくるのに。


 けれど宵は僕の目を貫いたまま言い放つ。


「ダサくないよ。逃げたいって、現実に向き合ってる人にしかわからない感情だから」

「え……」

「逃げることって悪いことじゃないと思う」

「…………」


 言葉が見つからない。真正面から受け止められて虚をつかれたのだ。

 そしてそれと同時に胸に湧き出たのは、それまで必死に抑え込んできた思いだった。


「……でも、無責任だと思う」

「え?」


 ずっと、父さんに対して後悔の念を抱きながら、心のどこかでは父さんのことをそう責めていた。でも僕が責めてしまったら、あの日の笑っていた父さんの面影すべてが消えてしまう気がして、ずっと押し殺してきたのだ。


 僕の過剰な感情が乗った声に、事情があるだろうということは宵もきっと察しただろう。

 でも、なにがあったの、とは聞かなかった。僕の言葉にそして感情に寄り添うように、うん……と時間をかけて考え、それから静かに唇を開いた。


「もちろん、最初から目を逸らして逃げるのはだめだと思う。でも心の体調もキャパシティーも、自分にしかわかってあげられないことだから。ひとりで抱えきれなくなる前に、逃げる勇気を持つことも必要なんじゃないかな。我慢して我慢して、ひとつしかない自分の心を壊しちゃいけないんだよ」


 じん、と心の端っこが痺れる。

 言葉を発することができなくなった僕の代わりに、宵が空を見上げたままぽつりと呟く。


「夜ってさ、人によってはなんてないものかもしれないけど、人によっては救いにもなるよね」

「うん……」


 目を瞑り、宵の言葉にじんわり浸る。


「昔は夜が怖かったけど、今はそう思えるってことは、私たちも成長できてるのかもね」

「そう、なのかな」


 漠然と、迷子になりそうなほど広い満点の星空の下、彼女と一緒にいられてよかったと、心の底からそう思った。


「こうやって嫌でも生きるしかないんだから、生きることをもっと身軽に考えてあげてもいいんじゃないかな。一瞬でも楽しくないともったいないでしょ?」


 彼女の言葉は、どんな障害物もはらむことなく胸にすっと入ってくる。


「だからね、逃げたり立ち止まったりすることは悪くないんだよ。その代わり、逃げたいって思った自分を否定しないで、優しく抱きしめて受け入れてあげて」


 宵はそう言った。さっきの言葉をより強く肯定するように。

 凝り固まっていた父への憎しみが、家族を置いて夜に逃げたという焦げついていた罪悪感が、音もなく溶けていく。


「ありがとう、宵」


 心を取り出し感情を形にしたら、その言葉がこぼれた。

 君に出会えてよかった、たしかに僕はそう思ったんだ。


 すると宵は、僕の感情を受け止め、眩しそうに微笑んだ。


「ううん。……さて。そろそろ帰ろうかな」

「こんな時間まで外で歩いてたら、怒られちゃうよな」

「ううん、うちは放任主義だからいいの」

「不良少女は容認されてるんだ」

「あ。不良少女って言ったな?」

「そっちが先に言った」

「へへ、たしかに」


 そんなことを言い合っていると、宵が立ち上がった。そしてスカートを翻し、白い満月を背にこちらを振り向く。


「ねえ、灯くん。また会いに来てくれる?」

「え?」

「私と、明日も夜を一緒に過ごしてくれないかな」


 直向きでいじらしい彼女の言葉に、僕の心は揺さぶられる。

 僕は自分の気持ちに素直に答えた。


「明日も僕にくれるの?」


 すると宵は笑った。私の夜をもらってくださいって。




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