第3話 誰がどう呼ぼうと、私にはどうでもいい
その日は、少しだけ体が動いた。
まだふらつく足元を気にしながら、僕は壁に手をついて、廊下を歩いた。
どこに行きたいのかなんて、分からなかった。
ただ、あの部屋の空気が、今日はやけに息苦しく感じたんだ。
廊下はやけに静かだった。
窓から射す光が、舞い上がる埃を照らしている。
まるで、この城の中だけ、時間が止まってしまったみたいだった。
そんなときだった。
重たそうな木の扉が、ひとつだけ半開きになっていた。
気がつけば僕は、その扉の前に立っていた。
中は書物で埋め尽くされていた。
壁一面に本棚が並び、中央の机には、丁寧に積まれた紙の束。
どれも整っていて、だけど、長く誰の手も触れていないように見えた。
僕は、机の上に置かれていた一冊をなんとなく手に取った。
革張りで、厚みがあって、古い文字が刻まれていたけれど……読めた。
「第一の時代、魔王は世界を統べる者として目覚めた」
「第二の時代、魔王は人間と魔族の間に平和を築いた」
「第三の時代、魔王は全てを託し、姿を消した」
──魔王。
あの人のことだろうか、と思う前に、背後から衣擦れの音がした。
振り向くと、そこに彼女がいた。
黒衣のまま、穏やかな表情で僕を見ていた。
「歴史に興味があるの?」
その声に、責める響きはなかった。
僕は慌てて本を閉じたけど、彼女は首を横に振った。
「読んでいいのよ。好きなだけ」
その言葉に、僕は言葉を失った。
何もできない僕が、ここにいることすらおかしいのに──記録にまで触れていいなんて。
「……この本、整ってますね」
震える声でそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「ええ。記録の管理は、アレクシアという子に任せていたの」
「……アレクシア?」
「私に仕えていた、優秀なメイドだったわ。几帳面で、仕事も正確。ちょっと頑固だったけどね」
その声に、どこか懐かしさがにじんでいた。
彼女の記憶の中に、確かな誰かの姿があるのが分かった。
「いまは、おやすみしてもらってるの」
「……おやすみ……」
「うん。あの子には、少し長く働きすぎてもらったから。今は、静かに休ませてあげてるのよ」
「……生きてる、んですか……?」
「もちろんよ。だから、君のお世話が私の手に余るようなら──アレクシアに来てもらったほうがいいのかもね」
冗談みたいに微笑んで、でもその奥にある何かが、僕にはうまく読み取れなかった。
何かを試されているような気もしたし、ただ寂しさを隠しているようにも見えた。
だから、思わず口を開いていた。
「お世話になっておきながら、自己紹介がまだでした。……僕、レノっていいます」
名乗った瞬間、彼女の目がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……そう。教えてくれてありがとう、レノ」
そして、すぐにこう続けた。
「この書物にあるように──私が“魔王”なの」
その言葉に、僕は目を見張った。
でも彼女は、僕の反応を受けとめるように、静かに問いかけてきた。
「……レノには、私が“魔王”に見える?」
どうして、そんなことを訊くんだろう。
でも答えられなかった。
今の僕には、「魔王」という言葉が、まだどこか現実のものと思えなかったから。
「誰がどう呼ぼうと、もう私にとってはどうでもいいこと。
でも……君がどう思うか、それだけが少し気になるのよ」
その声は、遠くを見ているようだった。
まるで、自分がもうこの世界に必要ないものだと信じているような。
僕は答えられないまま、彼女の横顔を見ていた。
そこには確かに、ただの人ではない重さと、
それ以上に──深い、静かな孤独があった。
役立たずの僕と引退した魔王様の優しい城暮らし 自己否定の物語 @2nd2kai
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