第2話 無理に動かなくていいわ
夢は見なかった。
ただ、深く沈んだ水の底にいるような感覚だった。
手も足も動かない。
目も開かない。
思考は浮かんでは消えて、霧みたいに散っていった。
どれくらいそうしていたんだろう。
時間の感覚は、とうに置き去りだった。
──コトッ
かすかな音と一緒に、何かが置かれる気配がした。
それと同時に、湯気の匂いが鼻先をくすぐった。
「……今日のスープは、昨日より温かいはずよ」
あの声だった。
昨日と同じ声。
不思議と、耳にまっすぐ入ってくる声。
「今はまだ、無理しなくていいわ。
飲めたら、それでいい。飲めなくても、咎めはしない」
ゆっくりと、扉が閉まる音がした。
そのあとは、また静かになった。
目を開けた。
石の天井があって、そこに柔らかな光が差していた。
毛布の中にいる自分が、昨日と少し違うことに気づいた。
体が、ほんの少しだけ軽かった。
それだけで、なんとなく起き上がってみようと思った。
「……よいしょ」
腕が重くて、声が出たのが自分でも意外だった。
でも、動いた。ちゃんと。
器に手を伸ばす。
今度のスープは、昨日よりも湯気が立っていた。
その中に、わずかに塩の匂いが混じっていた。
「……スープって、こんな匂いだったっけ」
味は、よく分からなかった。
けど、昨日よりずっと飲みやすかった。
喉が、素直に動いた。
飲み終わって、器をそっと枕元に置く。
何もないけど、それだけで今日は終わったような気がした。
夕方。
扉がまた静かに開いた。
彼女が入ってきた。
何も言わず、毛布を直してくれる。
窓を少し開けて、新しい空気が入ってくる。
僕は、目を閉じていた。
眠ったふりをしていた。
でも──
彼女の指が、そっと僕の額に触れた。
冷たくて、でもあたたかい手だった。
「……少し、熱が下がったわね。よかった」
その声を、僕は耳の奥にしまい込んだ。
まるで、割れやすい器みたいに、大切に。
彼女はすぐに立ち上がって、部屋を出ていった。
足音は、とても静かだった。
……“よかった”って、誰のために言ったんだろう。
眠れなかった。
目を閉じても、まぶたの裏にさっきの言葉が残っていた。
ずっと、誰にも言われなかった言葉。
ずっと、誰にも向けられなかった優しさ。
僕は、毛布の中でじっと目を開けたまま、夜が更けていくのを待っていた。
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