第2話 沈黙と陽気な足音

──スレは980を越えて、すでに落ちていた。

噂と記録だけが、ログの底に残っていた。



980 :名無しの訓練板

……で、あれ。通ったヤツいたのか?


981 :名無しの整備士志望

無理だろ。

あの実技、マニュアル使えねぇ時点で詰んでる。


982 :名無しの観測班

一機だけ、動いたらしい。

誰がやったかは、出てない。


983 :名無しの噂好き

てか整備枠って、通ることあるんだな。


984 :名無しの記録班

……発表、名前なかったけどな。



【録画ログ:地球圏ニュース24時】


「次世代航宙計画『プロジェクト・グラビティ』、ついに実戦段階へ──

 世界各地で行われた選抜試験の合格者数は、わずか十二名。


 参加条件は、年齢二十五歳未満・適応指数AAA以上・

 宇宙航行耐性の最高値を保持すること。


 今回は特に、“長距離航行”に適した若年層を中心とした二部隊編成が採用されています。

 それぞれのユニットには、最新鋭の訓練用モジュールが配備され──」


「なお、特別選抜者の一部については、記録非公開とされ──」


──画面が、砂嵐のように歪んだ。


藤崎優司は、自分の手のひらをじっと見ていた。

手袋の内側、火傷の跡はまだ残っている。

痛みはもう消えたが、あのときの感触──冷たい金属に熱が逆流する微かな震えだけが、皮膚に残っていた。


試験のとき、渡されたのはひとつのユニットと一本の工具。

冷却機能は死んでいた。構造が図面と違っていた。


他の候補たちは、戸惑いながらもマニュアル的な処置に徹した。

優司だけが、それを破った。


配線を切り、芯材を剥き、触れてはいけない熱源を押さえ込む。

手袋を脱ぎ、素手で圧をかけた。感電ギリギリの火花が跳ねる。


だが、動いた。


あの瞬間、彼は“直した”のではない。

“生かした”のだ。


機械を。システムを。

選ばれなかった誰かの死を、想定して。


──車体が静かに減速を始めた。


窓のない搬送車の中で、優司はただ前を見ていた。

軽いブレーキののち、扉が滑らかに開く。


白と金を基調にしたミニマルな曲線美。

光を反射しすぎない、滑らかで落ち着いた素材。


ここが訓練施設だと知らなければ、

誰もが“迎賓館”か“政財界向けのサロン”と見間違えるだろう。


入り口には黒のスーツを着た男がひとり、直立していた。

姿勢に乱れはなく、まるで一流ホテルのドアマンのように、

機能と美を兼ね備えた動きで来訪者を迎える。


廊下の端に立っていた女性スタッフは、完璧な姿勢で優司を出迎えた。

その所作は静かで柔らかく、言葉も感情を乱さぬように抑えられている。


「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。

 ご移動に不備などはございませんでしたか?」


優司は、わずかに首を横に振るだけだった。


「……ご案内いたします。どうぞこちらへ」


スタッフの笑顔は崩れない。

慣れているのだろう、“こういう受け答え”をする候補者に。


歩きながら、彼女は続けた。


「これより先は関係者以外の立ち入りが制限されております。

 滞在期間中は、必要な物資はすべて部屋に届くよう手配されています。

 ご不明な点があれば、いつでも館内AIをご利用ください」


「……了解」


ようやく返された声は、短く低い。

それでも、彼女は柔らかく微笑んだままだった。


優司は、淡々と荷をほどく。

備え付けの計測端末を確認し、支給されたインナーに着替える。


身支度にかける時間は、必要最小限。

それでも、その動きに乱れはない。


──ノックの音が、空気を揺らした。


静寂の中に、初めて“誰か”の気配が差し込んだ。


「おー、やっぱ誰かいたか! うわ……この部屋、ホテルっていうか……舞踏会の控え室?」


軽い足取りで部屋に入ってきた少年は、そのまま無遠慮に笑ってみせた。


「レオ・サントス、よろしく。

 フルネームで言うとなんか固いけどな」


そして椅子に腰を下ろしながら、肩をすくめて言い足す。


「ま、勝手にレオって呼んでいいよ。

 俺も覚えやすい方が好きだし」


レオは、椅子に深く腰を下ろしたまま、腕を組んで天井を仰いでいた。


「……まあ、ここがどんなに綺麗でも、俺らはこれから“汚れる側”なんだよな」


優司がつぶやいた言葉は、軽く笑っているようで、どこかに翳りを宿していた。

その声は、どこか遠くを見るように静かだった。


「お前、しゃべるんだな。よかった」


レオはふっと笑った。

笑顔は作り物ではない。力の抜けた、自然なものだった。


「俺さ、寡黙な人とかめっちゃ苦手なんだよね。

 いや、別に文句じゃないけどさ。なんかこう、緊張するだろ?」


優司は返さない。ただ、少しだけ顔を戻す。


「……お前、何人目だ?」


「ん?」


「ここに通されたやつ」


「たぶん、二人目。俺の前には誰もいなかったし、お前が最初だろ?」


そう言って、レオは無造作に腕時計を確認した。

最新型の多機能端末。読み取り用の透明スクリーンが起動し、数値が流れる。


「時差的には、俺の出発が一番遅いはずだったんだけどな。……ま、航路優先か」


その一言に、優司のまなざしがわずかに動いた。

この男、見た目の軽さに似合わず、思考が速い。


「なあ」


レオが改まった声で言った。


「お前さ、もしかして“整備士枠”じゃない?」


今度は、優司が明確にこちらを見た。


「……どうしてそう思った?」


「見た。手の甲、痕が残ってる。

 普通の候補者なら、あれは付かない」


声に、嘲りはなかった。

興味と、微かな敬意があった。


「俺、少しだけ医療訓練受けてるからさ。

 やけどの痕は分かるんだよ。

 あと道具の扱いに慣れてる人の動きって、なんか分かるんだよな」


優司は言葉を返さなかった。

だが、その目には明確に警戒ではない“興味”が宿っていた。


陽気なだけの男ではない。


レオは立ち上がると、ふっと伸びをしながら言った。


「ま、でも余計なこと聞くつもりはないから。安心しなよ」


その声は、優しさだけでできていた。


──藤崎優司とレオ・サントスの出会いは、言葉よりも温度で始まった。

静けさの中に、ただ一人、迷いなく踏み込んできた声。

それが彼にとって、初めての“他者”だった。

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