牡丹雪

三毛栗

牡丹雪


 「あれ、雪だ」


 残業でヘトヘトな状態で帰路に着いていた私のもとに、白い結晶が降ってきた。けれどこの重くて貼り付く感じからして、この雪は牡丹雪というやつだろう。


 (折り畳みあったっけ…あった!)


 私は雪ではしゃぐ訳でもなく、淡々と折り畳み傘を取り出した。生憎明日も仕事があるので、風邪をひくわけにはいかないのだ。


 

  バサッ



 いつから使っていなかったのか。開いた折り畳み傘の柄を見て、ふとそんな事を考える。最近は雨も降らないし、降ったとしても朝からだったため、普通の傘を使うことが多かったのだ。


 段々と強さを増す雪の重みを傘に受けつつ、私は少し急ぎ足で、誰もいない夜の街を歩く。


 そして家の手前の寂れた公園を横目に捉えた時、私は厄介なものを見つけてしまった。


 この公園にはベンチしかない。公園唯一の灯りに照らされたそのベンチには、明らかに小学校低学年くらいの、小柄な少女が静かに座っていた。


 腕の時計をチラリと見ると、時刻は11:30を回っていた。こんな遅くに外にいる、しかも雪が降っているのに傘もささない少女。


 厄介な匂いがプンプンするものの、無視して帰ってもずっと引っかかり続けるだろう。これでもしも朝に凍死した状態で発見とか言われたら、私は生涯後悔し続ける事になる。


 「はあ…」


 覚悟を決めた私は、その少女に声を掛けた。


 「大丈夫?もう夜遅いけど」


 少女の顔をのぞき込んだ私は、その可憐さに驚いた。そしてその子の首に喉仏らしきものを見つけ、もっとずっと驚いた。


 「…大丈夫だよ、お姉さん」


 私が少女だと思ったその子は、実際は髪の長い少年だった。その声は正に少年とでもいうように、少し低く透き通っていた。


 「お家はどこかな?良かったら送っていくよ」


 「お家は、ないんだ」


 そう言った黒い長髪の少年は、どこか寂しそうに笑った。


 (これは、思ったより厄介だな…)


 「えっと…じゃあ、お父さんとお母さんは?」


 「…もう、居ないんだ」


 「そ、そっか〜…」


 (え、じゃあこれどうすればいいの?)


 「ねえねえお姉さん、交番はどこにあるか知ってる?」


 「え?あ、あぁ!知ってる知ってる」


 交番…その1番に考えるべき選択肢を見失っていたとは。私は相当疲れていたらしい。


 「連れて行ってくれる?」


 「勿論いいよ!」


 私は急いでスマホで交番を探し始める。私が知っている交番は駅前の交番だけで、駅までは少し距離がある。そのため、近くにも無いか探してみたのだ。


 (な、ない…)


 そして意外にも駅前より近い交番は発見できず。結局私は、さっき急ぎ足で歩いてきた道をUターンすることになったのだ。


 「傘、1本しかないからもう少し私に寄って。もっと濡れちゃうよ」


 「ありがとう」


 雪に降られたからか、少年の美しい長髪は少し湿り気を帯びている。


 「ねえお姉さん。この白いものは何?」


 「え、雪を知らないの?」


 「この白いのが、ゆき?」


 「そうそう。雨が溶け切らないで私たちの元に降ってきたんだよ」


 「そうなんだ。ここではよく降るの?」


 「うーん。あんまり降らないと思うよ。まあ、私も今年住み始めたからまだ分からないけどね」


 「へえ。僕、初めて見たよ。こんなに綺麗なものが、この世界にはあるんだね」


 そうやって、キラキラとした目で雪を眺める少年を、私は眩しいものを見るかのように見下ろした。


 子供の頃は私も、雪が降るたびに外に出てはしゃぎ回っていた。いつもと違う景色に心躍って、雪の冷たさに驚いて、寒いと震えるお母さんに雪玉をぶつけて怒られた。


 心ときめく存在だった雪を、私はいつから、邪険にするようになったのだろう。


 「ねぇ君、名前は?」


 ふと、気になった。雪を知らない少年の、その名前を知りたくなった。


 「僕の名前は、"ゆき"だよ」


 「…え?」


 「だからね、お姉さんがゆきって言った時僕びっくりしたんだ。僕の名前がこんなに綺麗なものだって知れて、嬉しかったんだ」


 その少年はそう言って、心の底から嬉しそうに笑って…私にはそれが、酷く不気味に思えた。


 「…知りたいとは、思わなかったの?その、自分の名前の意味を」


 「…?どうしてそんな事を思うの?」


 本当に分からないと、そんな風に目を見開く彼は、まるで何も知らない幼子のように純真な眼差しを私に向ける。


 「どうしてって…言葉を習う時とかに、気にならない?これは何を表しているのか、とか。名前なんて、1番呼ばれるようなものだから尚更…」


 「フフフ、変なお姉さん。名前は特別な日だけに呼ばれるものだよ?だから1番大切で、綺麗なんでしょう?」


 名前を、呼ばれない。そう言えばそうだった。この少年には、家も親もない。それが仮に嘘だったとしても、赤の他人にそう言い切れる程度には、彼の中で今その事柄は触れられたくないものなのだろう。


 「何だか、ごめんね…」


 「どうして謝るの?どこか痛いの?」


 「…ううん、何でもないんだ」

  

 最初から、気が付いてはいた。



 こんな夜中に1人で居て。


 喉仏があるにしてはかなり小柄で。


 雪が何かも知らなくて。


 名前を滅多に呼ばれなくて。


 …痛いことをされると、謝ってしまう。


 

 この子はきっと、虐待に遭っている。逃げてきたのか、追い出されたのか、定かではないけれど。


 雪が、静かな牡丹雪が降って。


 彼の…ゆきのこれからにゆきあれと、その小さな身体を見つめながら、私はそう願わずにはいられなかった。



 □ □ □


 

 「着いたよ。あの、光ってるところが交番。あそこのお巡りさんに事情を話せば、保護してくれるはずだよ」


 「うん。ここまで本当にありがとう、お姉さん。とっても楽しい時間だったよ」


 私とゆきは、あれから色々なことを話した。まあ、ほとんど私が一方的に話してたんだけど。…それでも、私がどんな話をしても、ゆきはいつでも、本当に楽しそうに笑ってくれたから。私にとってもこの時間は、心が癒やされていく幸せなものだった。


 「でも、本当に良いの?1人で行きたいだなんて。やっぱり私も行って説明とかするべきじゃない?」


 「ううん、良いんだ。これ以上、お姉さんに迷惑は掛けられないから」

  

 「迷惑じゃないよ。ゆきと話すの、すごく楽しかったし。ここまで来たら、最後まで責任持つし…」


 「やっぱり、お姉さんはすごく優しいね。でも本当に大丈夫だから。気をつけて帰ってね」


 ゆきは柔らかい物言いをしながらも、どうやら1人で交番に行きたいという思いだけは確固たるものらしかった。

 

 サクサクと、少し積もった雪を踏みしめながらゆきは私から遠ざかっていく。その背中に私は、別れの言葉を告げる。


 「さよなら、ゆき。良い人生を!」


 すると、チラリと振り返ったゆきは少し迷うような素振りを見せる。そして、ゆっくり私を正面に見据えながらこう言った。


 「お姉さん!僕ね!お父さんとお母さんを殺したの!悪い子なの!」


 …一瞬、何を言っているのか、理解できなかった。


 「それだけ!バイバイお姉さん」


 そう言ってまた交番に向き直り、雪の中を駆け抜けていくゆきの姿が、酷く朧げに見えた。


 その濡れた髪は、血を洗い流した跡だったのだろうか。そう、ふと考えて頭を振っても、ゆきの笑顔は頭から離れない。それなのに、その笑顔はもう私を少しだって癒やしてはくれなかった。


 雪が、冷たい牡丹雪が降って。


 夢のように儚げで朧げで、どこか雪のような少年に、私は未だに囚われ続けている。


 


 


 





 


 

 

 




 



 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

牡丹雪 三毛栗 @Mike-38

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ