航路

ユビキタス

 前後不覚の状態のなか、胃の中の未消化物をトイレで吐き出すと、ようやく多少なりともまともな思考を取り戻すことができた。

 トイレの電灯は異様に薄暗い。立ち上がって、そんな電灯によって落とされていた自分自身の影が取り払われると、便器の中の嘔吐物の中には鮮やかなオレンジ色が混ざっているのが分かって、多分昨晩食べた、つけ合わせの人参だろうなと思った。あれは美味しくなかった。ハンバーグについてくるやけに甘い人参。ハンバーグにかかっているデミグラスソースをべたべたにつけて食べた。

 トイレットペーパーで口を拭いて、それを便器に捨てた。レバーを引くと、勢いよく水が流れて、嘔吐物は便器の奥の深い闇の底へと吸い込まれていった。

 トイレからふらふらと出て、ふいな大きな揺れによろけながらも、おれは壁に手をついて船内中央の階段を降りて、休憩室を目指した。休憩室は、食堂からドアを挟んで隣接しているスペースで、食堂で買った食べ物を持ち込む事もできた。出入りには必ず食堂を通る必要があるし、実際、そこは単なる食堂の中の一区画と言ってもいいのだが、他と違うのは客室以外で電源タップがある唯一の場所であるということと、古ぼけた雑誌やコミック本が置かれた棚があることと、レコードで音楽が流れていること。それと、テレビと、古い映画のDVDがあることだ。テレビはそれだけでは砂嵐しか映さないが。

 休憩室に入ると、窓際の席にすでに先客が一人いるのを認めた。そうか、間が悪かったな。深夜だし、上手くいけば一人になれるかと思ったんだけど。そう広くない空間だし、お互い全く無視というのも、気が悪い。食堂のテーブルの方にしようかとも思ったが、あっちには音楽もないし、それに深夜で食堂としての営業を終えているから、調理場の奥が真っ暗で不気味だ。客室は客室で、他に人がいる。

 どうしようかとおれが考えあぐねていると、先客がこちらを向いて言った。

「あぁ、あの」

 厚手のダッフルコートを着ていて体型がわからないし、髪の毛が長かったので初めは女性かと思ったが、喋ってみれば、彼は男性だった。

「すみません……席を譲りましょうか?」

「いや」おれは答えた。「構いませんよ」

「でも、ここは窓と、電源が両方あるんですよ。あなたもそう思っていたんじゃないですか」

 彼は窓の外を見た。丸い窓の奥に、夜の闇が広がっている。雨粒が激しく窓を叩く。外は大雨で、海は荒れている。

 壁に備えられた電源タップに、彼はケーブルでスマホを繋いで、テーブルの上に置いていた。窓際のテーブルはもう一つあるが、そちらには電源タップがないらしい。確認してみると、タップがあるにはあるのだが、穴が養生テープで塞がれている。何か、故障でもしているのだろうか。あるいは過去に、二つのタップを同時に使って、ブレーカーが落ちる事件があったから、そうしているとか。こうなると、確かに電源が使えて、窓際となると今彼の使っているそのテーブルだけのようだ。

「電源にも窓にも用はなくて……」

 おれはそう言った。

「では、何に?」

「ああ、ええと、音楽」

 レコードではジャズが流れていた。ジャズ奏者の名前など一人も知らないが、とにかく音楽が流れている事がおれには重要だった。この長い航路を耐えるためには、音楽か、あるいは映画といったものは味方になってくれるとおれは考えていた。

 おれは、つい口をすべらせて、もう一つ付け加えた。

「……あと、一人になりたくて……」

 言う必要のないことを言った。これでは、あなたは邪魔ですと言っているようなものじゃないか。瞬間的に激しい後悔が襲ってきて、おれはますます居心地悪く、目線を外した。

 しかし彼は、おれの言葉を聞くと、むしろ気分良さそうな声色で言った。

「ああ、奇遇ですね。僕もそうなんです。客室には、他の乗客がいるでしょう。さっさと眠ってしまえればよかったんですが、雨が降ると想像の五倍、五倍……いや、十倍は揺れるもので、寝れなかったのです。」

 彼が喋る言葉には、なんというか文章的なところがあって、整理された印象があった。おれと違って、人前で喋り慣れているような、ラジオのパーソナリティのような安定感があって、あるいは実際に、そういうことを生業にしている人でもおかしくはないなと思った。

「その、一人になりたいという人に、これをいうのは不躾と思うのですが、良ければ、話しませんか?」


 青年は、大変な喋りたがりだった。おれは彼の向かいに座りながら、この雨音と、ジャズと、彼の喋り声が響く空間に身を任せていた。

 青年はユビキタスと名乗った。

「……ユビキタスというのは、偏在ということです。どこにでもいる、ある、例えば神様とかそういったものについて、あるいはネットワークとかそういうものについて、ユビキタスというんです。

 そういう意味らしいんですが……ただ、語感が好きなんですよ。なんか、頭が良さそうじゃないですか? ユビキタスって」

「実際、ちょっと頭が良さそうですけど、あなた」

「知的な雰囲気を醸すのが得意なんです。ですが、複雑なことを処理するのは、めっぽう苦手ですね」

「そうですか……」

 ユビキタスは、自分の本名を思い出せないらしい。しかし、そのことに対しておれは少しも驚きはしなかった。むしろ、そんな風に、単に語感が好きというだけの言葉を、便宜上自分の名前とする、という柔軟さに、感心したものだった。

 そういう風に思うのは、おれたち二人が、いやこの船の乗客全員が、異常としか言えない奇妙な状況に置かれていることが、すでに明らかだったからだ。要するに、自分の名前を思い出せないということなど、この船ではありふれたことだった。誰もこの船がどこに向かってどこの海を漂っていて、どの港で乗船したのか、どれくらいこうして航海を続けているのかといったことを、知らないという有り様なのだ。客だけでなく、スタッフも、誰も知らない。確かなのは、誰が操舵しているでもなく、この船は自動で動いているということ、どういうわけか食料は尽きないらしいということ、電波が存在せず、外を知るための手段がないということ。

 これも奇妙なことだが、閉鎖空間にありがちな、誰かが状況に耐えかねて怒り狂ったり、争い合ったりということは、今のところ起きていない。みんな、一種の納得感みたいなものを言外に共有していたのだ。船酔いにだけ気をつけていれば、ここでは穏やかな時間を過ごすことができる。

 いつから乗っているか分からないとはいったが、おれの記憶がはっきりしている範囲では、すでに六回朝日を見ていた。

 人によって、そのあたりも言い分が違うし、乗った瞬間のことやその前後のことは、やはり誰も覚えていないのだから、なんの手がかりにもならない。ただ、船酔いに慣れる気配がないので、それほど大げさな日数は経っていないのでないかと思う。

 そういう話をしたところ、ユビキタスはこう答えた。

「僕も朝日を見たのは六回です。あなたの言う通りだと思います」

 彼も、から朝日が昇ったのは六回で間違いないと言った。そして、喋りながら、流れ作業的にスマホを確認した。

「それ意味ないですよ」

 おれが言うと、彼は「そうですね」とスマホを置いた。スマホの時間表記は、点けるたびにでたらめな表記になる。13月43日、60時82分とか。それもこの船が非現実的な状況にあることを示す現象の一つだった。

「時間もわからず、電波も入らないのでは、スマホはあまり役には立たない道具ですね」

「そうですね」

「でもこうして充電してしまう。なんか、こう、満タンじゃないと不安なんでしょう」彼はまた窓の外を見る。「窓だって、雨が降っていて、夜で、見ていたって仕方のないくらい真っ暗なんですが、つい窓ぎわの席を選んでしまいました」

「癖みたいなもの?」

「そうです。こういう場所が好きというより、癖でしょうね。あなたの音楽はどうですか」

 音楽は好きかどうか。おれは少し悩んだ。おれは音楽が好きというよりは、退屈で途方もない現実時間の経過に対しての、ごまかしとして聴いているだけで、その中身にどれほど興味や関心があるのかは、あやしいところがある。

「これも癖のようなものかな」

 おれが言うと、ユビキタスは笑った。

「癖というくらい聴くなら、もう好きではだめですか?」

「病気を和らげるために薬を処方されて、それを定期的に服用する人は、薬を好きなわけじゃない。薬を飲むのが、日常で習慣だから、やめると不安になるけど、好きでは決してない。薬の中身には興味がないんです」

「音楽が薬なんですか?」

「まぁ、現実逃避です。映画も見るんですが、映画も音楽も同じです」

「なるほど。映画と音楽というと、それは時間がかかるものですね」

「時間?」

「固有の時間がありますよね。例えば読書なんかはページをめくらないと進まないんです。映画と音楽は、それそのものに決まった時間があります。あれは、つまり、鑑賞者はこの現実の時間から、別のタイムラインにスライドしているという感覚になるんです」

「そういう風に考えたことはないですよ」

「すると、舞台はどうなのということになるのですが、演劇との違いは、わずかな時間の揺らぎ以上に、再生できるかということが問題になりそうです。再生、っていいますよね。その、固有の時間を再生して取り戻すことができるわけです」

「舞台だってDVDで見れば再生ですし、音楽も生でライブをしますけど」

「そうですね、大雑把な言い方をしたかもしれません。ええと、つまり……」

 彼は何か、時間というものに関して、考えを表明したがっているようだった。時間にまつわる彼なりの哲学というものがあって、おれが言った音楽や映画というキーワードから、その話題に繋げようとしているらしい。この船で、時間のことを考えるのにどれほど意味があるのだろうか。

「つまり、あれは過去の時間を取り戻す行為と言えるんです」

「音が気持ちよかったり映画のストーリーが面白いということがですか? 難しく考えすぎじゃないですか」

「すみません、ただ、映画や音楽といったものに、惹かれる理由を考えたんですけど……」

「ただの癖ですよ」

「そうですね」

 自分に何かを好きだと思うような情熱があるかと言われれば、全くない。だからただの癖でしかなくて、それで構わないと思った。おれは別に、この船から降りたいとも思っていない。そういうエネルギーの欠如みたいなものがあって、どうにも埋めようがないし、ここで争いが起きないのも、そういうヤツが集まっているからかもしれない。眼の前のユビキタスという男は、ある意味では例外的で、力を入れておれとの会話を盛り上げようとしているようだった。

「昨日は何を食べました?」

 彼はそんなありきたりな質問をした。おれはさっき吐いたゲロのことを思い出した。

「ハンバーグです」

「そうですか。僕はホットケーキを食べました」

「ホットケーキあるんですか? ここの食堂」

「あります。食券機の端っこにひっそりと。ただ、バターとメープルシロップが、あの、なんていうんですか、あの容器に入っているタイプでした。あの、真ん中でぱきっと折り曲げて、にゅって絞り出すやつです」

「趣がないですね」

「そうですね。幸せの象徴のホットケーキには程遠い感じでした。贅沢を言ってはいけないんですが」

 それから、好みの食事のことを、ぽつぽつと喋りあった。彼とおれとは、コーヒーが苦手ということだけが共通していて、しばらくはコーヒーの悪口を言って過ごした。あれがメジャーな飲み物として、受け入れられているのはおかしい。何か、遺伝子レベルでの洗脳みたいなものを感じると言っているうちに、次第に音楽も雨音も耳に入ってこなくなった。


「さっきの再生という話ですけど」

 しばらく他愛ない会話が続いたあと、彼は出し抜けにそう言った。また音楽や映画の話だろうか。おれは大して詳しくないから、会話が続くか心配だ、と思った。だが、彼が続けた言葉は意外なものだった。

「ここは死後の世界ではないかという気がしてきました」

「え?」

 思わず聞き返してしまった。この船の世界は現実ではない、夢か何かだろうか、とは思っていた。だが、まさか自分たちが既に死んでいるかもとは、思ってもみなかったからだ。

「二つのパターンが考えられます。これが往路である場合と、復路である場合です。海は、ものすごく大きい三途の川みたいなものと思ってください」

「はい」

「で、つまり僕たちは死んでいて、これから地獄に、天国に、運ばれるというのが、一つ目。二つ目は、その逆です。私達は、もともと地獄か天国にいて、これから現世に生まれ変わる最中という考えです」

「どちらでもなく、すでにここが地獄というのはどうですか」

「それは、一番悲しいですね……」

「ユビキタスさんはどれだと思いますか?」

「ですから、『再生』です」

 彼は再生という言葉を、強調するような言い方をした。

 彼の言う死後の世界説は、あながち、この異常な状況に対する説明としてはまぁ悪くないような気がした。創作物のようで面白いと思った。ただ、さらにその中にある、三つの選択肢としては、これから地獄に行く説と、すでに地獄である説が、おれにはしっくりきた。逆に言えば再生が一番ありえない、浮ついた考えだ。ユビキタスは楽観主義的なのかもしれないが、これから第二の世が始まるというのは、あまり面白くはない。要するに、ここは産道だというのだから、うすら気持ち悪い話だとおれは思った。

「僕は……輪廻みたいなものが、あってほしいと思っているかもしれません」

彼はそう言った。

「輪廻ですか」

「そうです。繰り返すことです。人は、過去のために生きるのが本当なんですよ」

 過去のために生きる。不思議な言葉だった。今のためでも、未来のためでもなく、過去のために生きる?

「過去にあった、幸せな時間でもいいですし、自分が生まれるより前の、神様の時代でもいいんですけど、つまり、原初の体験というか。そういうものを蘇らせるために生きるんです。神話を今に蘇らせるために、お祭りとかをするように」

「でも、一般的には未来をよくするために頑張ったり、今この瞬間を楽しむって、言うんですよ」

「みんなそう言いますが、未来というのは存在してないんです。今というのも、意味がないんです。全部、過去になってようやく意味を持って、結論を出すんです」

「過去の幸せに囚われているだけと言えませんか」

「それではだめなんでしょうか。いえ、だめなんでしょうね」

 彼はとても悲しそうな面持ちをした。

 おれは、そんな彼の顔をじっと眺めていた。おれと同い年くらいの若者。下手したら、彼はおれが忘れているだけで、過去に学校の同級生だったりしたのかもしれない、不自然な親しみはそのせいかもしれない、と感じ始めた。そうすると、段々と、彼のことが他人ではないように思えてくるのだった。

「雨が止んだようです」

 彼は言った。

「甲板に出ませんか。体感だと、もう夜が明けますし」


 おれたちは甲板に出て、手すりをつかんだ体勢で隣り合った。雨に濡れて滑りやすい足もとに気をつけながら、おれたちは喋った。

「これから見るのは七回目の朝日ですが」

「はい」

「単に、七回目の朝日なんです。七日が経ったということでは、ないんだと思います」

「言いたいことはわかります」

 過去に同級生だったことはあるか、といった質問を、彼に問うてみるべきかと、おれは考えた。しかし、彼はおれに構わず、また饒舌に喋り始めた。

「ホットケーキが好きだったんですよ。シンプルな、バターとメープルシロップをかけて食べるやつです。三段くらいあると良い。フルーツも生クリームも、乗っている必要はないんです」

「ちょっと古い喫茶店とかで、たまにあるやつですよね」

「そうです。僕の人生で、幸福といえばそれでした。あのホットケーキが食べたいな、と思いながら生きていたわけです。気づいたら、この船にいて、思い描いたホットケーキが食べられないということになったとき、それはそれはがっかりしましたね。ですから、生まれ変わることを望みます。生まれ変わることができれば、またホットケーキが食べられますから……」

「生まれ変わらなくても、そのうち港について、向こうでホットケーキを食べられますよ」

「そうですか? これが現実なら、そうですかね。でも、やっぱり現実ではないですよ」

 彼の言葉には、どうやら確信めいたものがあるようだった。

「あのですね、僕は全て知っているんです。全て知って、この船に乗っているんです」

「それって……」

 言いかけると、おれたちの顔を、ふいに強い光が照らした。

 海の向こうで、朝日が昇っているのだ。船内の照明とは違う、圧倒的な照度で、おれたちを照らす太陽。ユビキタスは、それを目を細めて見つめている。

「七回目ですね」

「そうです、あなたとおれだけが気づいてます」

「では、あなたも気づくでしょうね。僕が気づいていることに気づくでしょうね」

「自信はありません」

「あなたと話せて良かったですよ。こうして朝を迎えられました。時間を忘れて」

 彼がそう言った次の瞬間だった。

 おれは、ユビキタスの姿を見失った。彼は、こつ然と姿を消したのだ。

 おれは、彼が海に落ちたのではないかと思い、身を乗り出した。だが、彼の痕跡はどこにも見つけることはできなかった。

 船の残す、白い航跡だけがそこにはあった。

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