第30話:愛の決断
愛の純化の最終段階に入った翌朝、玲奈とルカは運命の日を迎えていた。あと一日で神託の期限が切れる。二人は神殿の特別な部屋で、最後の準備を整えていた。
朝の光が差し込む部屋で、二人は向き合って座っていた。昨夜からの愛の純化の過程で、お互いの心が完全に繋がったような感覚があった。もう疑いも迷いもない。あるのは純粋な愛だけだった。
「今日で最後ですね」
玲奈が静かに言った。声には不安ではなく、むしろ清々しい決意が込められていた。
「はい。でも、もう迷いはありません」
ルカも同じ気持ちだった。愛の純化を通じて、自分たちの気持ちが完全に一つになったことを確信していた。
「昨夜、夢を見ました」
玲奈が続けた。
「どのような?」
「私たちが光に包まれて、新しい存在になっている夢です」
「僕も同じ夢を見ました」
ルカが驚いて答えた。
「もしかして、愛の昇華が成功する暗示なのでしょうか」
「きっとそうです」
玲奈は微笑んだ。
「私たちの愛なら、必ず成功します」
その時、部屋にミカエルが入ってきた。その表情は複雑で、喜びと悲しみが入り交じっている。まるで最愛の弟子を送り出す師匠のような、慈愛に満ちた悲しみがあった。
「お二人とも、準備はよろしいですか?」
「はい」
二人は同時に答えた。その声には迷いがなく、覚悟が完了していることが伝わってくる。
「実は、最後にお伝えしたいことがあります」
ミカエルが重々しく口を開いた。
「愛の昇華の儀式について、詳細をお話しします」
二人は真剣に耳を傾けた。これから自分たちが体験することについて、正確に知っておく必要があった。
「儀式は今夜、満月の下で行われます」
「満月の夜に?」
玲奈が聞くと、ミカエルは頷いた。
「はい。愛の力が最も高まる時だからです。月の満ち欠けは、感情と密接に関わっています」
ミカエルは古い巻物を取り出した。羊皮紙でできたその巻物は、明らかに何百年も前から保管されている貴重なものだった。
「儀式の手順は以下の通りです」
「まず、お二人は神殿の最上階にある愛の祭壇に向かいます」
「愛の祭壇?」
玲奈が聞くと、ミカエルは頷いた。
「普段は封印されている、最も神聖な場所です。そこは愛の力が集中する場所として、神殿建設時から特別に設計されました」
「そこで、お二人は手を取り合い、愛の誓いを立てます」
「そして、お互いの存在を完全に委ねるのです」
ミカエルの説明に、二人は身を引き締めた。
「委ねるというのは?」
ルカが聞いた。
「自分の命、魂、存在のすべてを相手に預けることです」
ミカエルの答えは重かった。
「それは完全な信頼を意味します。一瞬でも相手を疑ったり、自分を守ろうとしたりすれば、儀式は失敗します」
「失敗すると...」
玲奈の声が震えた。
「お二人の存在は完全に消滅します。魂ごと、です」
ミカエルの重い言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
「しかし、真の愛があれば、新しい次元の存在として生まれ変わることができます」
「新しい次元?」
「はい。神でも人間でもない、純粋な愛の化身として存在することになります」
ミカエルは巻物の別の部分を指差した。
「この状態になると、お二人は個別の存在でありながら、同時に一つの存在でもあります」
「どういうことですか?」
ルカが困惑して聞いた。
「お二人の意識は統合されますが、それぞれの個性も残ります。まるで美しいハーモニーを奏でる二つの楽器のように」
ミカエルの比喩に、二人は少し理解を深めた。
「そして、愛の化身となったお二人は、世界に愛をもたらす使命を持つことになります」
「使命?」
「はい。困った人々を助け、愛に迷う人々を導き、世界全体に愛の力を広めるのです」
ミカエルは巻物を巻き直した。
「それは重い責任でもありますが、同時に大きな喜びでもあります」
「お二人の決意は変わりませんか?」
玲奈とルカは見つめ合った。死の危険を冒してでも、愛を貫く覚悟があるか。すべてを失っても、お互いを選ぶ覚悟があるか。
「変わりません」
二人は同時に答えた。その声には、もはや一片の迷いもなかった。
「分かりました」
ミカエルは深く頭を下げた。
「では、夕方にお迎えに参ります。それまでの時間は、お二人でお過ごしください」
ミカエルが去った後、二人は最後の時間を過ごすことにした。人間としての最後の時間かもしれない、貴重な時間を。
まず、庭園を歩いた。二人が初めて出会った東屋、愛を確認し合った噴水のそば、ルカの正体について話し合った小径。すべてが愛しい思い出の場所だった。
「懐かしいですね」
東屋に座りながら、玲奈がつぶやいた。
「ここで初めてお会いした時のことを覚えています」
「僕も覚えています」
ルカは微笑んだ。
「君がとても美しくて、でも少し緊張していて」
「あなたもとても素敵でした」
玲奈も微笑み返した。
「でも、どこか謎めいていて」
二人は当時のことを思い出しながら、静かに笑い合った。
「あの頃は、まさか自分たちがこんな運命にあるなんて思いもしませんでした」
「そうですね。ただ、お互いに惹かれ合っているだけだと思っていました」
「でも、今思えば、あの瞬間から運命は動き始めていたのかもしれません」
午後は図書館で過ごした。二人が多くの時間を共に過ごした場所で、最後の読書時間を楽しんだ。
「この詩、覚えていますか?」
玲奈が昔読んだ詩集を開いて見せた。
「もちろんです。『愛とは二つの魂が一つになること』」
ルカがそらんじて答えた。
「今夜、本当にその通りになるんですね」
「はい。文字通り、二つの魂が一つになります」
二人は詩集を一緒に読みながら、愛についての様々な表現に触れた。古今東西の詩人たちが歌った愛の形は様々だったが、どれも美しく、心に響くものばかりだった。
「愛って、本当に不思議ですね」
玲奈がつぶやいた。
「これほど多くの人が、これほど多くの表現で愛を歌っている」
「それだけ愛が普遍的で、大切なものだということでしょう」
ルカが答えた。
「そして、僕たちの愛も、その長い歴史の一部になるのです」
夕方が近づいてきた。二人は神殿の屋上に向かい、最後の夕日を一緒に見ることにした。
エテルナの夕日は特別に美しく、空全体が金色とオレンジ色に染まっている。雲は絵画のような美しい形を作り、鳥たちが空を舞っている。
「美しい夕日ですね」
玲奈が感動で息を呑んだ。
「人間として見る最後の夕日かもしれません」
「でも、愛の化身になった後も、きっと美しいものは美しいと感じられるでしょう」
ルカが玲奈の肩を抱いた。
「美しさを感じる心は、愛と密接に繋がっていますから」
「そうですね」
玲奈はルカの胸に頭を寄せた。
「あなたと一緒なら、どんな存在になっても幸せです」
「僕もです」
ルカは玲奈の髪を優しく撫でた。
「君がいてくれるなら、どんな試練も乗り越えられます」
その時、屋上にミカエルとセバスチャンが現れた。二人とも厳粛な表情をしているが、その目には深い敬意が込められている。
「時間です」
ミカエルが告げた。
「最上階の愛の祭壇へご案内します」
四人は神殿の最上階に向かった。そこには、今まで見たことがない美しい祭壇があった。白い大理石でできた円形の台座の上に、巨大な水晶が置かれている。水晶の周りには、七色の光を放つ宝石が完璧な配置で設置されていた。
祭壇の周りには古代の文字が刻まれていて、それらが微かに光を放っている。部屋全体が神聖な雰囲気に満ちていて、まさに愛の神殿にふさわしい場所だった。
「美しい...」
玲奈が感嘆の声を上げた。
「この祭壇は、愛の力によってのみ起動します」
ミカエルが説明した。
「お二人が真の愛を持っていれば、水晶が光り始めるでしょう」
「そして、その光がお二人を新しい次元へと導くのです」
セバスチャンが補足した。
玲奈とルカは祭壇の前に立った。手を取り合い、お互いを見つめる。その瞬間、時間が止まったような感覚になった。
「準備はよろしいですか?」
ミカエルが静かに聞いた。
「はい」
二人は答えた。
「では、愛の誓いを立ててください」
ミカエルが促すと、ルカが先に口を開いた。
「玲奈、僕は君を愛しています」
彼の声は深く、心からの愛情に満ちていた。
「この愛は僕の存在のすべてです」
「どんな運命が待っていても、この愛だけは決して変わりません」
「君のために生き、君のために死ぬ覚悟があります」
「そして、君と一つになることができるなら、僕は何も恐れません」
次に玲奈が続いた。
「ルカさん、私もあなたを愛しています」
彼女の声も同じように深く、真摯だった。
「この愛は私の魂のすべてです」
「あなたと出会えたことが、私の人生最大の奇跡です」
「この愛は私の命よりも大切です」
「あなたと一緒なら、どんな運命も受け入れます」
その瞬間、祭壇の水晶が美しく光り始めた。最初は微かな光だったが、だんだんと強くなっていく。七色の宝石も次々と光り始め、部屋全体が神秘的な光に包まれていく。
「始まりました」
ミカエルが息を呑んだ。
「愛の昇華が始まっています」
光はだんだん強くなり、二人の体を包み込んでいく。最初は温かく心地よい光だったが、やがて激しい感覚が襲ってきた。
「あ...」
玲奈が小さく声を上げた。体が溶けて流れていくような、不思議な感覚だった。
ルカも同じような感覚を体験していた。しかし、恐怖はなかった。むしろ、玲奈との繋がりがより深くなっていくのを感じた。
「大丈夫...一緒です」
ルカが玲奈に向かって言った。
「はい...一緒です」
玲奈も答えた。
光はさらに激しくなり、二人の体が透明になり始めた。物理的な存在から、別の次元の存在へと変化していく過程だった。
「愛している...」
「愛している...」
二人は変化の過程で、愛を確認し合い続けた。
その時、光の中で奇跡が起こった。二人の魂が完全に融合し、一つの新しい存在になったのだ。しかし、それぞれの個性は失われていない。むしろ、お互いの長所が融合して、より美しい存在になっていた。
それは光そのもので、愛そのもので、美しさの化身だった。
光が収まった時、祭壇の上には二人の人間の姿はなく、代わりに美しい光の存在が浮いていた。それは人の形をしているが、明らかに人間を超越した存在だった。
「成功しました...」
ミカエルが涙を流しながら言った。
「お二人は愛の化身として、永遠に結ばれました」
光の存在からは、玲奈とルカの声が聞こえてきた。しかし、それは以前よりもずっと美しく、調和の取れた声だった。
「ありがとうございました、ミカエル様」
「私たちは幸せです」
「この愛は永遠に続きます」
「そして、世界中の人々に愛をもたらしたいと思います」
光の存在は祭壇からゆっくりと浮上し、天井を抜けて夜空へと上がっていく。満月の光と融合するように、美しく輝きながら。
その瞬間、エテルナ世界全体が美しい光に包まれた。愛の化身となった二人の力が、世界を癒やし、すべての生命に希望をもたらしていた。
花々はより美しく咲き、川はより清らかに流れ、人々の心にも愛が満ちていく。別れた恋人たちが再び結ばれ、家族の絆が深まり、友人同士の信頼が強くなっていく。
世界中に愛の奇跡が起こっていた。
神殿に残されたミカエルとセバスチャンは、空を見上げて涙を流していた。
「美しい愛でした」
セバスチャンがつぶやいた。
「はい」
ミカエルも頷いた。
「これほど純粋で深い愛は、滅多に見ることができません」
「お二人は永遠に幸せでしょうね」
「そして、世界中の人々も、お二人の愛の力で幸せになるでしょう」
夜空では、愛の化身となった玲奈とルカが美しく輝いている。もう人間ではないが、愛はより深く、より美しくなっていた。
個人の愛から、宇宙的な愛へ。
それは愛の究極の形だった。
二人の物語は終わったが、同時に新しい物語の始まりでもあった。愛の化身として、永遠に世界を見守り続ける物語の。
エテルナの夜空に、新しい星が生まれた。それは愛の星と呼ばれ、困った時にその星を見上げる人々に、希望と勇気を与え続けるのだった。
玲奈とルカの愛は、こうして永遠のものとなった。
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