第29話:激しい葛藤
究極の選択を決断してから二日が過ぎた。玲奈とルカは愛の昇華の儀式について詳しく調べていたが、調べれば調べるほど、その困難さと危険性が明らかになっていった。
朝、玲奈は図書館でさらなる資料を漁っていた。愛の昇華に関する記録は極めて少なく、見つかるのは断片的な情報ばかりだった。
「これによると...」
玲奈が古い羊皮紙に目を通しながらつぶやいた。
「『愛の昇華を試みた者の多くは、儀式の途中で消滅している』」
隣で同じように資料を読んでいたルカが顔を上げた。
「成功例はどのくらいあるのでしょうか?」
「この千年間で...三例だけです」
玲奈の声は暗かった。
「しかも、そのうち二例は不完全な成功で、最終的には分離してしまったそうです」
「つまり、完全な成功例は一例だけ?」
「そのようですね」
二人は顔を見合わせた。成功の確率は、神が言った十分の一よりもさらに低いようだった。
「それでも、やりますか?」
ルカが玲奈の目を見つめて聞いた。
「はい」
玲奈は迷いなく答えた。
「他に道はありませんから」
その時、図書館に足音が響いた。振り返ると、セバスチャンが近づいてきていた。その表情には、いつもの冷静さに加えて、何か複雑な感情が混じっている。
「お二人とも、お疲れ様です」
「セバスチャンさん、どうされました?」
玲奈が警戒しながら聞いた。最近の彼は以前ほど敵対的ではなかったが、まだ完全には信頼できずにいた。
「実は、お話があります」
セバスチャンは近くの椅子に座った。
「愛の昇華について、重要な情報をお伝えしなければなりません」
「重要な情報?」
ルカが身を乗り出した。
「はい。実は、私の祖父が愛の昇華の儀式に立ち会ったことがあるのです」
「本当ですか?」
玲奈が驚いた。
「はい。七百年前、エルフィーナとアドリアンという恋人同士が儀式を試みました」
セバスチャンの声は重かった。
「その時、祖父は補佐役として儀式に参加していたのです」
「結果はどうだったのですか?」
「失敗でした」
セバスチャンの答えに、二人の心は沈んだ。
「二人は儀式の最中に消滅してしまいました」
「なぜ失敗したのでしょうか?」
ルカが聞くと、セバスチャンは深いため息をついた。
「愛が足りなかったのです」
「愛が足りない?」
「はい。表面的には愛し合っているように見えましたが、心の奥底では互いに疑いを抱いていたのです」
セバスチャンの説明に、二人は身震いした。
「愛の昇華は、完全に純粋な愛でなければ成功しません」
「完全に純粋な愛...」
玲奈がつぶやいた。
「少しでも迷いや疑いがあれば、失敗してしまうのです」
セバスチャンは二人を見つめた。
「お二人の愛は、本当にそこまで純粋なのですか?」
その質問に、玲奈とルカは言葉を失った。自分たちの愛が純粋だと信じていたが、本当に完璧なのだろうか。
「考えてみてください」
セバスチャンが続けた。
「最近まで、隠し事がありましたよね」
「それは...」
ルカが答えに詰まった。
「隠し事をするということは、完全に信頼し合っていないということです」
セバスチャンの指摘は鋭かった。
「それに、玲奈さん」
「はい」
「あなたも、心の奥底で疑いを抱いたことがありませんか?」
玲奈は胸を突かれた。確かに、ルカの正体を知った時、彼の愛が本物なのか疑ったことがあった。
「そのような迷いや疑いがある限り、愛の昇華は成功しません」
セバスチャンの言葉は容赦なかった。
「お二人には、まだその段階に達していないのです」
「では、どうすればいいのですか?」
玲奈が必死に聞いた。
「完全に純粋な愛になるためには」
「それは...分かりません」
セバスチャンは首を振った。
「それを見つけるのは、お二人自身です」
セバスチャンが去った後、図書館には重い沈黙が流れた。
「どうしましょう」
玲奈が小さくつぶやいた。
「セバスチャンさんの言う通りかもしれません」
「確かに、僕たちの愛は完璧ではないかもしれません」
ルカも同じように感じていた。
「でも、だからといって諦めるわけにはいきません」
「そうですね」
玲奈も頷いた。
「完全に純粋な愛になる方法を見つけましょう」
その日の午後、二人はミカエルの書斎を訪れた。愛の純化について相談するためだった。
「なるほど、セバスチャンからそのような話を聞いたのですね」
ミカエルは深刻な表情で聞いていた。
「確かに、愛の昇華には完全に純粋な愛が必要です」
「では、どうすれば愛を純化できるのでしょうか?」
ルカが聞くと、ミカエルは古い書物を取り出した。
「この書物によると、愛の純化には三つの段階があります」
「三つの段階?」
「はい。第一段階は『真実の共有』」
ミカエルが説明し始めた。
「お互いの心の奥底にあるすべての秘密を明かし合うことです」
「すべての秘密...」
玲奈が不安そうに繰り返した。
「第二段階は『完全な受容』」
「完全な受容?」
「相手のすべてを、長所も短所も含めて完全に受け入れることです」
「そして第三段階は『絶対的な信頼』」
「どんな状況でも、相手を疑わないことです」
ミカエルの説明を聞いて、二人は愛の純化の困難さを理解した。
「これらすべてを達成するのは、容易なことではありません」
「でも、やってみます」
玲奈が決意を込めて言った。
「時間はあと五日しかありませんが」
「分かりました」
ミカエルが頷いた。
「でも、無理は禁物です。愛は強制できるものではありませんから」
その夜、玲奈とルカは神殿の屋上にいた。愛の純化の第一段階である『真実の共有』を始めるためだった。
「では、始めましょう」
ルカが口を開いた。
「僕から話します」
「はい」
玲奈も覚悟を決めた。
「実は...君に隠していることがまだあります」
ルカの告白に、玲奈の心は動揺した。
「まだ隠し事があるのですか?」
「はい。僕の中には、アリエルの記憶だけでなく、別の感情もあるのです」
「別の感情?」
「嫉妬です」
ルカの告白は意外なものだった。
「嫉妬?」
「はい。君がエルシアの生まれ変わりだと知った時、複雑な気持ちになりました」
ルカは空を見上げた。
「君を愛しているのは、エルシアだからなのか、玲奈だからなのか。その境界が分からなくて」
「それで?」
「時々、君の中のエルシアに嫉妬してしまうのです」
ルカの正直な告白に、玲奈は驚いた。
「そんなことを考えていたなんて...」
「今度は君の番です」
「私も...実は隠していることがあります」
玲奈も意を決して話し始めた。
「あなたが神の分身だと知った時、怖くなったんです」
「怖い?」
「はい。いつか神の世界に帰ってしまうのではないかって」
玲奈の声は震えていた。
「それで、時々あなたから距離を置こうとしてしまうんです」
「そんな風に思っていたのですね」
「はい。愛しているからこそ、失うのが怖くて」
二人は見つめ合った。お互いの隠された感情を知って、複雑な気持ちになっている。
「でも、これで全部ですか?」
ルカが確認した。
「いえ...まだあります」
玲奈は恥ずかしそうに続けた。
「時々、あなたが完璧すぎて、私なんかにはもったいないのではないかと思ってしまうんです」
「完璧すぎる?」
「はい。優しくて、美しくて、強くて。私はただの普通の女子高生なのに」
玲奈の告白に、ルカは驚いた。
「そんな風に思っていたなんて」
「劣等感を抱いてしまうことがあるんです」
このように、二人は夜が更けるまで、心の奥底にある秘密を話し合った。嫉妬、不安、恐れ、劣等感。美しくない感情も含めて、すべてを明かし合った。
「思ったより、隠していることが多かったですね」
玲奈が苦笑いした。
「僕もです」
ルカも同じ気持ちだった。
「でも、話してみて良かったです」
「はい。心が軽くなりました」
二人は手を握り合った。真実を共有することで、心の距離がより縮まったように感じる。
翌日、二人は愛の純化の第二段階である『完全な受容』に取り組んだ。お互いの短所や欠点を受け入れることだった。
「君の短所を考えてみました」
ルカが庭園を歩きながら言った。
「どのような?」
「時々、衝動的になることがあります」
「確かに...」
玲奈は苦笑いした。
「でも、その衝動性があるからこそ、君は勇気を持って行動できるのです」
ルカの言葉に、玲奈は驚いた。
「短所だと思っていたことを、そんな風に見てくれるのですね」
「欠点は見方を変えれば長所になります」
「私からも言わせてもらいますね」
玲奈が続けた。
「あなたは時々、完璧主義すぎます」
「完璧主義?」
「はい。自分にも他人にも厳しすぎることがあります」
ルカは考え込んだ。
「でも、その完璧主義があるからこそ、あなたは信頼できる人なのです」
玲奈の言葉に、ルカは感動した。
「ありがとう」
このように、二人はお互いの欠点を指摘し合いながら、それをどのように受け入れるかを話し合った。
三日目、二人は第三段階である『絶対的な信頼』について考えていた。
「絶対的な信頼とは、どのようなものでしょうか」
玲奈が図書館で関連書籍を読みながら聞いた。
「どんな状況でも、相手を疑わないことでしょうね」
ルカが答えた。
「でも、それって可能なのでしょうか?」
「分かりません。でも、達成しなければ愛の昇華は成功しません」
その時、リリスが現れた。いつものように音もなく、微笑みながら近づいてくる。
「苦労しているみたいね」
「リリスさん」
玲奈が振り返った。
「愛の純化について、何かご存知ですか?」
「もちろんよ」
リリスは二人の近くに座った。
「でも、それは頭で考えるものじゃないの」
「頭で考えるもの?」
「そう。愛の純化は、心で感じるものよ」
リリスの説明に、二人は耳を傾けた。
「理屈や方法論では純化できない。ただ、相手を愛し続けることでしか達成できないの」
「愛し続ける...」
「そう。どんな欠点があっても、どんな困難があっても、ただ愛し続ける」
リリスは立ち上がった。
「それができれば、自然と愛は純化されるわ」
「でも、具体的にはどうすれば...」
「考えすぎよ」
リリスが微笑んだ。
「愛に理屈はいらない。感じるだけでいいの」
そう言って、リリスは消えていった。
「感じるだけ...」
玲奈がつぶやいた。
「確かに、理屈で愛を純化しようとしていたかもしれません」
「そうですね」
ルカも同感だった。
「もっと素直に、愛を感じてみましょう」
その夜、二人は再び屋上にいた。今度は何も考えず、ただ愛を感じることに集中していた。
「君を愛しています」
ルカが静かに言った。
「理由はありません。ただ、愛しているのです」
「私もです」
玲奈も同じように答えた。
「何も考えず、ただあなたを愛しています」
二人は抱き合った。星空の下で、純粋な愛だけを感じながら。
「これでいいのでしょうか」
玲奈がつぶやくと、ルカは頷いた。
「きっと、これでいいのです」
その時、二人の周りに微かな光が生まれた。それは金色で、温かく、愛に満ちた光だった。
「この光...」
「愛の純化が始まっているのでしょうか」
光はゆっくりと強くなっていく。二人の愛が確実に純化されていることを示すように。
「あと二日...」
玲奈がつぶやいた。
「間に合うでしょうか」
「間に合います」
ルカは確信を持って答えた。
「僕たちの愛なら、必ず」
その夜、玲奈は日記を書いた。
『愛の純化の過程で、たくさんのことを学びました。隠し事をしていた自分、相手を疑っていた自分。完璧ではない自分を受け入れることの大切さ。
でも、一番大切なのは、理屈ではなく心で愛することだと分かりました。リリスさんの言う通り、ただ愛し続けることが一番の純化なのですね。
あと二日で儀式です。怖いけれど、この愛なら大丈夫。ルカさんと一緒なら、どんな困難も乗り越えられます。』
窓の外では、エテルナの星空が美しく輝いている。その光が、二人の愛の純化を静かに見守っているかのようだった。
激しい葛藤の中で、二人の愛はより深く、より純粋なものになっていた。
そして、運命の時まで、残り二日となっていた。
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