波打ち際のやくそく(伊勢美灯子)
これは夢だ。僕はすぐにそう思い至った。
目の前では彼女が──ののかが、素足で波打ち際を歩いていて。ときおりその足を蹴り上げ、海水を攫っていた。時間はどうやら真夜中らしい。空は深い紺色で、ところどころ星のビーズが散りばめられている。海と空の間には大きな月が浮かんでいた。明らかに
ののかはこちらを見つめて笑う。僕の意識が目の前に存在し始めたことに気づいたらしい。
「ね、灯子。遊ぼうよ」
「僕は良いよ」
見ているだけで楽しいから、と僕は続ける。そう? とののかは首を傾げて、再び歩き始めた。ぴちゃ、ぴちゃ。音を立てる。
ののかが動くたび、海面がキラキラと輝いている。いや、海面だけじゃない。砂浜まで輝いている。手を伸ばしてみて、触れる。──するとそれはあっという間に光を失った。そうして僕はその正体が、ガラス片であったことに気づく。これだったら素材的に、光り続けてくれても良さそうだけれど。
そんなことを考えながらガラス片を様々な角度から見ていると、ふと指先に痛みが走った。その拍子にガラス片を砂浜に落とす。それと同時、僕の指先に鮮烈な赤が映る。
深紅。どろどろしていて、止まらない。
「ののか、僕、帰らなくちゃ」
僕は指先から零れ落ちる血を舐め取ると、そう言いながら立ち上がる。するとののかは足を止め、じっとこちらを見つめた。
「それは、必要なこと?」
「うん、とても」
「灯子がする必要のないことなんじゃないかな」
「そうかもしれないね。でも、誰かに言われたからやるんじゃなくて、僕がしたくてやることなんだ」
「私より大事なこと?」
「……うん、そうなんだ。ごめんね」
少しだけ迷ってから、でもすぐに頷く。迷うべきことじゃない。
でも、流石に不安になる。僕は胸の前で手を握ると、精いっぱい微笑んだ。
「気を、悪くしたかな」
「……ううん、まさか」
僕の問いかけに、ののかは笑い返してくれた。僕の記憶の中の通りの、人懐っこくて優しい笑顔。
「それは、すごく、とても素敵なことだと思うよ」
「……ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
「でも、きっといつか、また私と遊んでね」
ののかはそう言うと、また波打ち際を歩き出す。ざぁ、ざぁ。波の音がして、僕の意識も揺れ始める。
攫われないように必死になりながら、僕は笑った。
「うん、いつになるか分からないけど。……きっと」
僕は、生きるよ。精いっぱい悲しんで、苦しんで、藻掻いて、生きられるだけ生きて、楽しく、幸せに、生き抜くから。
だからまだ、君に会うことは出来ない。
僕はあの人の手を取る。あの人と生きていく。あの人が僕を待っている。決して優しい色だけじゃない、痛みに満ちたあの世界で。
「それなら、良いよ」
やくそく。声が聞こえる。やくそく。答えて。
笑い合う。波の音が響いて、遠ざかる。
この距離は、埋まらない。まだ、埋めない。
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