クル旅
いももち
第1話「チョハクの商人」
そこに一つを除いて影はなく、ただ虚ろにいつまでも景色は続く。
影は荷物を引きずって、地図を見て見て渡りゆく。
近づくとその影は行商人であった。
商人の名はクルレ・アリトムギ。栄華を極めたザーガル帝国の発祥、チョハク山脈の生まれである。
彼はどこのものとも知れぬ民謡を口ずさみながら、これといった目的もなく、ただなぜか物売りの衝動に駆られるまま荒野を歩いている。
暫く荒野を進んでいると、朧げに町が見えてきた。近づく町は何やら賑わいがあるようだった。
看板によると、どうやらここはナーハナ王国の町らしい。ちょうど日も暮れて空腹感も感じられてきたところなので、ここで夕食を取りつつ今後の方針を練ることにした。
そんなに豪勢なものを食べるお金も持ち合わせていないので、バーに入る。ワインを1杯頼んでテーブル席についた。食事は持ってきた豆や干物でどうにかする。
ワインを待っていると相席のカイゼル髭を伸ばした男が話しかけてきた。この土地の衣装を身にまとっていたが、随分と汚れていた。
「あなた、ここのモンじゃ無いでしょう」
「ええ、チョハク山脈のほうから」クルレは動揺しながら言った
「チョハク山脈?ここもそれの麓だが…下ってきたんですかい?そりゃ大変でしたろう!何をお頼みになりました?」
「ワインを1杯」
「それなら、私が奢ってあげましょう。こんな身なりですが、金は十分蓄えがありますから」男は陽気に言った。
「それではお言葉に甘えて…」
食べるものは無いかと荷物を漁っていると男がまたも話しかけてきた。
「その荷物は?」
「ああ、僕は行商人なもんで売り物が入ってるんです」
「じゃあ数日間、ここに泊まるでしょう。どうです?うちに来ませんか?」
「いやいや、それはいくらなんでもご迷惑をおかけするので…」
「いやあ、大丈夫ですよ!ここらの土地は広いですから家も広いんです」
「さいですか、それでは何日ほど?」
「いくらでも!好きなだけ寝泊まりして構いませんよ!いや、是非とも泊まってってください!」
「じゃあそうするか…」と呟き、続けて
「ところでご家族は?」と聞いた。
「ああ…それは」話そうとしたところでワインが運ばれてきて、話が中断されてしまった。
ワインが届くと辺りに香りが立ち込めた。
「良いワインでしょう、ここらへんでは上質なブドウが採れますから。」
「あぁ、ワインはよく飲むけどもここまで香りが良いのは初めてです。」
クルレがそう言うと男は機嫌良さそうに言った。
「あなた、行商人なんでしょう?私に何か売ってくださいよ。」
「ええと...」
いきなりの申し入れにクルレは焦りながら荷物を漁った。
「これなんてどうでしょう。チョスナンの北、ジャズカ帝国で作られた笛です。」
「ほう、それでこれにはどんな魅力が?」
「これを吹くと温もりのある音色が広がりますよ。」
クルレが呼吸を整えて笛を吹くと、辺りに温かな笛の音が響いた。
「ほぉ!気に入った。私にいくらで売ってくれますか?」
「それでは、5ゲル程でどうでしょうか」
クルレは胸を撫で下ろしながらそう言った。
「よし、買った!」
5ゲル金貨と笛を交換して、クルレと男は乾杯を交わした。
「そうだ!あなたの今までの旅の軌跡でも話してくださいよ。酒のあてにでもなりましょう。」と言われたので、クルレは自らの生い立ちについて語った。
クルレは幼い頃戦争で両親を失った。故郷を追われ、命からがらそびえ立つ山々の中を縫って登り続け、ようやっとあるご隠居の老人の家を発見した。老人はもとは行商人で、かの八十年戦争もその終わりまで自らの目でしかと見たという。クルレはその経験豊富な老人のもとに居候し、様々な体験談を聞いた。そうするうちに、段々と童心ながらに行商人への憧れを積もらせていった。
17の歳になった時、老人は他界した。
クルレは、確かにその時胸が締め付けられた。だが、自分でもなぜかわからないが、悲しみというより、使命感に駆られた。自分も老人と同じ道をゆかねばならないという使命感だ。
まだ肉のついたままの老人の遺体を取り急いで土に埋めると、クルレは荷物をまとめて山を下った。家には老人の本だけが残された。そうして今ここに行き着いたのだ━━━━。
1分ほど静寂が2人を貫いた。
「…さて、そろそろ出ましょうか」と男が切り出した。「もう日もすっかり落ちてしまいました。おっと、お金が少し足りない!すみませんが、先程払った分から少し出してくれませんか?」
「ええ、勿論」
足早に2人は店を出た。あたりは闇に包まれ、家々から漏れ出る暖炉の光と150mおきを照らす街灯の蝋燭の弱々しい残り火だけを頼りに男の家まで歩いた。
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