火でからだを あらう

@mofumikan

第1話 火でゆびさき をあらう

 午後一時。蛍光灯の無機質な白い光が天井から降り注いでいる。ここは「第2解剖実習室」。歴史ある第一実習室は旧基礎医学棟に残っているものの、解剖台の真上に局所排気装置を取り付けるスペースがなく、いまは記念館になっている。新設された解剖台が側面から吸い込んでいるのは、ホルムアルヒド――眼や粘膜を刺すあの匂いだ。つまり装置のない時代、学生たちは今よりずっと高い濃度の揮発したホルムアルデヒドーーホルマリンを胸いっぱいに吸い込んで実習していたことになる。考えてみればなんとも怖い話だ。


 私は解剖着の紐を首にかけながら、いつもの儀式である深呼吸を三度繰り返した。吸気とともに鼻孔に流れ込むのは刺激臭。排除しきれなホルマリンと金属と臭いが、肺の中にまで充満しているようだ。

入室すると、数十台のステンレス台に横たわる献体には、薄い木綿の白布が掛けられていた。両手を胸の下で組み、頭の下には小さな枕。

私は自分の班の”ご献体”を前に向かい、深く一礼した。


 感謝を述べる定型文。学生達が唱えるその声は、誰が唱えても同じ平坦さ。その後小声での雑談が周りから聞こえてくる。

班のリーダーが布をめくると裸の胸郭が露わになる。やや褐色を帯びた変色した皮下組織。それは生きた人間の脂肪より微妙に硬く、光を反射して鈍く光る。

本日の課題を始める。メスを皮下組織へ浅く薙ぐように滑らせると、脂肪が縫い目のように開き、鈍い甘い臭気が立った。温度管理されたこの部屋でも、脂は冷えきっていない。じわりと浮いた油滴が蛍光灯の光を跳ね返し、星のように瞬いた。


 私は左前腕の橈骨神経を同定する作業をしている。誤って切断しないよう細心の注意を払い、丁寧に剖出を続けていた。だが周囲の班より作業が遅いのは、班全体が手間取っているのか、それとも私が神経質すぎるのか――いつも時間を押してしまう


......実習が終わると、私は真っ先に洗浄室へ向かった。

薄青い洗浄液を掌に垂らし、フットペダルを踏み手洗いを開始する。爪甲の下をゴリゴリと擦る。水温管理が適切にされていないので、手首がしびれるほど冷たい。二十秒数えても、まだ膜が剥がれない。指の腹に貼りつく脂が残っている、実際にはない感覚――いや、「その脂が幻」ではないと脳が主張する。私は三十秒、四十秒と数を伸ばし、延々に手を洗い続ける。


 強く擦りつづけると、今度は皮膚の薄皮が剥け、痛覚が膜の向こう側から警告を発した。けれど脂の膜は残ったまま。私は蛇口を閉じ、濡れた手を拭った。拭ったはずの掌にはまだ汚れが張り付き、爪先には昏い黄色の液体が残っている気がした。

汚れた手では端末も触れない。本も触れない。ご遺体に対して汚れたなんていう言葉は使えない。使ってはいけない。だけど私は、解剖実習の直後は徹底的に体を洗浄しないと身の回りのものに触れることができなかった。


 強迫観念と強迫行為に支配される。タブレットを触れない私は、講義資料は閲覧できず、課題の提出期限は迫っている。このままでは進級できないのではないか。実習室で使ったノートを平気で自室や図書室で開くことができる人がいるのに、なぜ私はできないんだろう。



 午後11時。マンションの自室で、私は机の引き出しからマッチ箱を取り出した。カーテンを引き、机に置いたのはドラッグストアで買った安いアロマキャンドル。ラベンダーと書かれていたが、封を切ったとたん鼻をつくのは人工的な香料に混ざった有機溶剤のような匂い。


 火をつける。蝋はほどなく融点を超え、溶け始めた液体が芯の根元に滴り落ち、親指ほどの小さな池になった。その池の表面に、うっすらと透ける膜が張り、盛り上がり、そして「ぷつっ」と音を立てて破ける。数時間前に献体の脂肪が弾けたときの湿った音が蘇った。

私は背筋を伸ばし、意識的に、ゆっくりと呼吸をする。私はキャンドルの炎へ顔を近づけた。緋色の光がゆらめき煙が細く昇る――そのサイクルを眺める間だけ、手指にまとわりついていた脂の感覚を忘れている。強迫観念が薄れていく。火が私を洗ってくれているようだった。

炎は芯が沈むにつれて徐々に暗くなり、代わりに黒煙を吐き始める。焦げたゴムのような匂いに喉が刺激されて、反射的に咳が出る。熱で乾き切った目が潤んだ。私はマッチをもう一本擦り、液体状の蝋だまりに火を落とした。ぼうっ――と音を立てて炎が膨らむ。机の上に置いてあった付箋に火をつけてみると、青色から黒へと急速に色を変えていく。焼ける紙の独特の匂い。広がっていく炎がカーテンに移りそうで、私は慌てて息を吹きかけた。

火が消えると、ざらつく黒い煤が紙の端にこびり付き、その脇で蝋が白く濁りながらゆっくり固まっていった。恐る恐る蝋に指を当てる。脂の膜は感じない。私はその質感を確認するように二、三度指先でなぞり、倒れるように椅子の背にもたれた。部屋には安っぽい香りと焦げた紙の匂いが充満しているが、不快じゃない。もう、あの気持ちの悪い脂の感覚は残っていない。今夜はこれで眠れるだろうか――そんなことを思いながら私は机の上の焦げ跡を見つめていた。



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