第7話 開けてはならないパンドラの箱
僕の手の中に残された、この夜空色の万年筆。これは危険物だ。断言する。持つ者に「何かクリエイティブなことをしろ」と無言の圧をかけてくる、呪いのアイテムに違いない。僕はニートとして、自己防衛本能に従い、速やかにそれを机の隅に放置した。見なかったことにしよう。そう、僕の部屋に万年筆など、最初から存在しなかったのだ。いいね?
だが、僕の城には今、僕のルールをことごとく無視する闖入者がいる。
「まあ、綺麗ですのに。夏彦、これで何か書かないのですか?」
ヴィオレッタが、僕が封印したはずの万年筆を軽々と拾い上げ、キラキラした瞳を僕に向ける。その純粋な問いは、僕の心の古傷を的確にえぐってきた。
「……書かない。もうやめたんだ」
「やめた? 何をですの?」
「小説だよ。昔、小説家になろうなんて、身の程知らずな夢を見てた時期があったんだ。思い出すだけで枕に顔を埋めて奇声を発したくなる、正真正銘の黒歴史だ」
僕が苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔でそう言うと、ヴィオ-レッタは「まあ、小説家!」と、逆に目を輝かせた。やめてくれ、その尊敬の眼差しは僕に効く。
そして、彼女の視線が、部屋の隅にある一つの段ボール箱に吸い寄せられた。そこには僕が油性マジックで「パンドラの箱(開封厳禁)」と書いた、呪われしオブジェクトが鎮座している。中身は、言わずもがな、僕の黒歴史の結晶体——かつて書き散らした小説の原稿やプロットの類だ。
「まさか、あれを…」
僕が危険を察知した時には、もう遅かった。ヴィオレッタは軽やかなステップで箱を開け、中から原稿用紙の束を取り出していたのだ。
「うわーっ! やめろー! その古文書に触れるな! 読んだ者は正気を失うぞ!」
僕の悲痛な叫びも虚しく、彼女は朗々とその第一行目を読み上げ始めた。
「《宇宙歴3025年、辺境のコロニー『アヴァロン』に、一人の男が降り立った。彼の名は、ブラッド・スコーピオン…》」
「あああああ! ブラッド・スコーピオンはやめろぉぉぉ!!」
僕は、たぶん、人生で一番の瞬発力で跳躍した。小学校のドッジボールで、本気の男子が投げたボールを避けて以来の俊敏さだ。目的はただ一つ、僕の黒歴史(ブラッド・スコーピオン)をこの世から抹消すること。
しかし、ヴィオレッタはひらり、と僕の突進をかわす。そして、悪戯っぽく笑いながら、僕の手の届かない場所へと原稿を掲げた。部屋の中を、僕が「待てー!」と叫び、彼女が「きゃっきゃっ」と笑いながら逃げる、という謎の追いかけっこが数分間続いた。息が、切れる…。
ぜえぜえと肩で息をする僕の前で、ヴィオレッタはようやく立ち止まり、原稿に視線を落とした。
「ふふ。面白いですのに、これ。それで、このブラッド・スコーピオンさんは、どうなるのですか? 続きは?」
その屈託のない言葉に、僕は毒気を抜かれた。お世辞か? いや、彼女の瞳は嘘をついているようには見えない。
続き、なんてあるわけない。格好つけたはいいが、主人公がコロニーの酒場で美女と出会うシーンまで書いて、力尽きたのだ。
僕は、息を切らしながら、ただ彼女の顔を見つめていた。
面倒な奴だと思っていた。迷惑な闖入者だと。だが、僕の最も触れられたくない、恥ずかしいだけの過去を、彼女は「面白い」と笑ったのだ。
部屋の空気は、追いかけっこのせいで埃っぽく、そして、今までとはほんの少しだけ、違う匂いがした。
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