第2話 温もり
......
そのときは、どこにも風はなかった。
けれども小さな至上者の髪だけが、ふしぎにひかりに撫でられるように、そっと揺れていた。
少年はそのやわらかい毛のひと房を、指の先でつまんでいた。
胸のなかにひとつ、小さな痛みのようなものが、そっとひろがった。
このこは、世界でただひとつなのだ。
この髪も、この声も、この肌も、どこにも代わりはない。
だからこそ、胸の底には、冷たい影のような思いが小さく沈んでいた。
いつかこの小さなこが、知らない誰かに撫でられて、知らないぬくもりを知ってしまうだろうか。
そのとき自分は、もう何も言えなくなるのではないか。
少年はしばらく黙っていた。
やわらかな髪にそっと頬を寄せた。
白い霧の朝のような、すこし冷たい匂いがした。
「……MISHA」
声を出すと、その名は胸の奥でゆっくりとほどけていった。
「どうしたの」
至上者は、長い睫毛をふるわせて、小さく、首をかしげた。
その瞳は、どこまでも澄んでいて、影ひとつなかった。
胸がひりひりとして、声が遠くなった。
少年は、小さく息を吐いて、かすかに笑った。
「……僕が与える以上の温もりは、感じないでほしいな」
声は白い霧のなかに、そっと溶けていった。
至上者はすこしだけ瞬きをして、その言葉をじっと聞いていた。
やがて、小さな手がひとつ伸びて、少年の頬に触れた。
「どうして」
その声は、雪のように静かで澄んでいた。
「……君が、だれかに撫でられて、僕の知らないぬくもりを覚えてしまったら……きっと、僕はもう、平気でいられなくなる」
白い空がひかりを落としていた。
胸のなかは、うすい氷のように冷たかった。
けれども目をそらすことはできなかった。
至上者は、小さな肩をすこしだけゆらして、それから少年の手を取った。
その掌を、胸のまえにそっと抱えた。
胸の奥で、やわらかな痛みがしずかにひらいていった。
「じゃあ...ぼく、これだけでいいよ」
声は、白いひかりの粒のようにすずしくあたたかかった。
少年は、すこし驚いたように目をひらいて、それからゆっくり微笑んだ。
それは朝の光にとけていく、小さなやさしい微笑みだった。
ふたりの影は、すきとおった空気のうえでそっと重なり、どこまでもしずかに溶けていった。
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