第9話『真名の器』

――異界・旧〇〇村 拝殿前


 空は薄く紅を差した灰色。

 風は止まり、音のない世界。

 私は今――“向こう側”にいる。


 また呼ばれたのだ。

 でも、もう逃げなかった。

 ここで、終わらせなければならないと感じていた。

 拝殿の前に、あの子がいた。

 ユメ。


 以前と同じ姿。白いワンピースに、影のような髪。

 けれど、その輪郭は少しずつ透けはじめていた。

 人の形を保ちながら、もう人ではいられないというように。


 「お姉ちゃん……来てくれて、ありがとう」


 その声は、あの頃と変わらない優しさを帯びていた。

 でも、その奥には、長い孤独の時間があった。


 「わたしね、覚えてるよ。あなたが“ユメ”って呼んでくれたこと。

 嬉しかったの。誰にも呼ばれたことのなかった、わたしに――名をくれた」


――同時刻・旧〇〇村 拝殿地下(現地)


 森山たちは、石碑の前で立ち尽くしていた。

 碑の文字が明滅し、まるで読みかけの物語のように線が浮かんでは消える。


 「読ませないようにしてるんじゃない……読んだら“生まれてしまう”んだ」


 佐伯が呟いた。


 「“名を与える”ってことが、“存在を確定させる”ってことなんだな……」

 「だから神は、名を持たない方が本当は正しい。名を与えられた時点で、祀られた存在は“固定される”」


 森山が石碑に触れようとして、指先を止める。


 「……まだ開けちゃいけねぇ。

 向こう側で、“あの人”が答えを出すまでは」


――異界・拝殿内部


 ユメが、ゆっくりとこちらに向き直る。


 「この拝殿の奥にあるの。あなたが、あの日“封じたもの”」

 「わたしじゃない。

  わたしは、その器だった。真名を入れる器」


 「でももう、封印がもたなくなってきてる。あなたが“わたしの名前”を思い出したから」


 私は静かに問いかけた。


 「ユメ……あれは、私が勝手につけた名前だった。

 でもあなたは、それを“もらった”って言った。

 じゃあ――本当の名前は、今も、そこに?」


 ユメは、かすかに笑った。

 けれど、その目は悲しみをたたえていた。


 「そう。

 本当の“神の名”は、今も封印の中にある。

 わたしはただ、“忘れられることで封印された名”の守り人だったの」


 拝殿の奥。

 閉ざされた扉。

 縄で封じられ、中央には読めない文字が刻まれている。


 私は、その前に立った。


 「これを開ければ、“それ”が目覚めるの?」


 ユメは頷く。


 「でも――あなたが開けたなら、わたしは消える。

 “ユメ”という名も、消えるの」


 私は息を呑んだ。


 (私が名を与え、私が封じた。

 でも、それは同時に、“名を失った者”をここに閉じ込めたということでもある)


 「……私に、“決める資格”なんてあるの?」


 ユメは、静かに目を閉じて言った。


 「あなたしかいない。

 名を与えたのも、封じたのも、思い出したのも――あなた」


 私は、そっと扉に手を伸ばした。

 触れた瞬間、脳裏に言葉が流れ込んできた。

 読めないはずの文字が、意味を持って迫ってくる。


 音でもなく、声でもなく――これは、“思考の名”。


 それは、名であり、存在の構造。

 呼んだ瞬間に、形が決まってしまう。


 けれど――私は、その名を、読まなかった。


 口にせず、声にもせず。

 ただ、忘れたまま心にしまった。

 その瞬間、拝殿が光に包まれた。


 風が吹き、縄が解け、扉がふわりと揺れる。

 けれど、開かなかった。

 私は静かに言った。


 「ごめんね。

 私は、あなたを“ユメ”として、忘れないことを選ぶよ」


 ユメは、うっすらと涙を浮かべながら、微笑んだ。


 「ありがとう……お姉ちゃん」


 そして、光の中へと、彼女は静かに溶けていった。


---


――旧〇〇村・現地


 碑の光が止んだ。

 地下の空気が、一気に静かになった。


 石碑は、再び“読めないただの石”に戻っていた。


 森山が、誰にも言わず、深く息をついた。


 「……間に合った、のか?」


---


――東京都内・アパート


 私は、目を覚ました。


 画面は暗い。

 風もなく、夜も静か。

 ただ、机の上に置かれた冷奴の皿の隣に――


 “ユメ”と書かれた、小さな紙片が置かれていた。


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