はじまりの日

~Side:颯馬~


「中川くん、放課後、視聴覚室に来てほしい」


 後ろの席の仲里と話をするのは、それが初めてだった。


 仲里は明るい見た目と違って一人でいることが多かった。

 そんな仲里が誰かと話すのを初めて見た気がする。

 それが自分だなんて、心底驚いた。

 しかも、まったく接点のなかった仲里から


「中川くん、私と付き合ってほしい」


 告白されるなんて。


 思わず目を見開く。

 ドッキリで陰からこっそり誰かが撮影してるのかと思ったが、正直、仲里にそんなことをする友人はいない。

 いじめられてやってるのか? とも思ったが、仲里がいじめられている姿をいままでに見たことがなかった。

 だから、真剣に考えて、タイプでもないし、よく知りもしないから断ろうと思った。


「いや、俺、ごめ――」


 そこで俺の言葉が止まった理由、それは仲里が期待する瞳をこちらに向けていたからだ。明らかに告白が上手くいくほうじゃなくて、断られるほうに期待する眼差しだった。

 キラキラした目で仲里は一体、何を考えているんだ?


「分かった。付き合おう」


 そう俺が言った瞬間の彼女の絶望の顔ときたら、思わず笑いたくなるほどだった。

 口を大きく開けて、眉間に皺まで寄せて、なんでぇぇ?という声が聞こえてきそうなほど。


 本当に何を考えているのか分からない。それが面白かった。


「なんでフってくれないの?」

「え?」


 怨念がこもったような言い方をされて、少し戸惑う。

 呪いでもかけられるんじゃないかってくらいだ。


「だって、中川くんは一年生の頃からいろんな人に告白されてて全部断ってるじゃん。私はフラれたかったの」


 ふてくされたように言う姿にまた笑いそうになって、我慢した。

 意味が分からない。


 仲里、他人のことに少しは興味あったんだ、とこれを聞いて思った。

 俺がいろんな女の子から告白されて断ってるなんて、学校中のみんなが知ってることだとは思うが、仲里が知ってるのは意外だった。

 仲里は誰かに興味を持つような人間じゃないと思ってたから。


「なんでフラれたいの?」


 窓に寄りかかりながら俺は仲里にたずねた。

 ここまで来たら細かいところまで聞きたい。

 仲里が何を考えているのか。


「フラれたときの気持ちが知りたいから」


 あっさりと彼女はそう答えた。

 ここまで言われてもよく分からない。

 自分からフラれたいってなんだ?

 傷付きたい、とか?

 一種の自傷行為?


「なんのために?」

「小説のために」


 即答されたけど、これは読むほうじゃないよな? と思う。


「小説書いてんの? どんな話?」

「青春でもあって、恋愛でもある話」


 これも即答。

 でも、これだけじゃ納得出来ないな。

 自分からフラれにいく主人公の話?


「もうちょっとヒントくれない?」

「主人公は男の子と付き合ってて、最後はフラれる切ない話。だから、フってほしい。お願い」


 俺が聞くと、仲里は両手を合わせて拝むような感じでお願いしてきた。

 人にフってほしいってお願いする人間を初めて見た。

 しかもこんなにも必死に。

 ここまでされると逆に意地でもフリたくなくなる。


「“絶対に”フラないよ」


 絶対に、という部分を強調した俺のその言い方はちょっと意地悪っぽかったかもしれない。たぶん、俺の口角上がっちゃってるし。


「分かった。じゃあ、他の人に告白する」


 一瞬、仲里は眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をしたあと、そう言った。

 他がいるので大丈夫、と自信満々で言われた気がした。


「ダメだよ、もう俺と付き合ってるんだから。他のやつに告白したら、それ浮気」


 なにを焦ってるのか、俺は気が付いたらそんなことを言っていた。

 本当に半分無意識に近かった。

 反射的に引き止めるように口から出ていた。


「そう、なるの?」


 仲里が、本当に初めて知った、みたいな言い方をする。

 戸惑っているような顔だ。


「そうなるよ」

「じゃあ、別れて」


 あっさりと仲里は俺の言葉に返す。

 別れて、という言葉にどきりとした。初めて言われた言葉だからだ。

 いままでは自分がフるほうだった。

 なんだか、すごく心臓に悪い。


「あー、違う、フってくれないとダメなんだ」


 次いで、俺がなにも言えないままに、しまった失敗した、的な顔を仲里にされた。

 告白云々でこんな顔をされたことはいままでに一度だってない。

 こんなに引っ張られることなんて……。


「俺はまだフる気ないよ」


 見ていて面白いし、ここで別れたらもったいない気がする。

 ちょうど俺は退屈だと思ってたんだ。しばらく暇潰しに付き合ってみたらいい。

 嫌なら別れればいい話だ。そのときは仲里が望むとおりにすればいいだけ。


「ねえ、どうして? 利用しようとしたから怒ってるの?」


 もう正直に「利用しようとした」と言っていて笑いそうになる。


 どんだけ正直なんだよ。

 マジでいまの告白に恋愛感情なんて一切ないのな。


「違う。それってさ、好き同士になってからフラれないと意味なくないか? と思って。だって、そういう話なんだろ? 告白してフラれるんじゃなくて、好きで一緒にいたのにフラれるっていう話。だったら、好きで一緒にいてフラれる感情を知らないといけないんじゃないの?」


 付き合うと決めたからには真剣に返す。

 人の感情って、そんなに単純なものじゃないと思うんだよな。

 好きになって、一緒にいて、離れたくないのに、どっちかの気持ちが変わったり、仕方なく離れたりする。そういうものだと思うんだよな。

 仲里はあんまり感情を外に出さないイメージだし、まあ、俺もよく分かんないけど。


「ふーむ……、たしかに」


 少し考えたあとで、仲里は静かに頷いた。

 納得してくれたのだろうか。

 それならさ……。


「だからさ、好きが分からないなら、俺と付き合ってよ」


 二人きりの視聴覚室に、やけにはっきり聞こえる俺の声。

 沈みはじめた夕陽に俺の陰が照らされる。


 自分から女子に付き合ってくれなんて言ったのは初めてだった。

 恥ずかしいな、これ。


「うーん、試す価値はあるかも」


 しかも、相手には俺への好意が一切ない。

 付き合うのに悩まれるって、なんだよ。

 はっきり試す価値とか言われてるし。

 でも、最初はこれでいいんじゃないか?


「じゃあ、俺と仲里は今日から恋人だから」


 手を繋ごうと思って、差し出した右手。


「分かった。よろしくお願いします」


 ニコッと笑って仲里は自分も右手を出して、握手をした。

 恋人というより友情宣言みたいだった。


  ◆ ◆ ◆


「あと三十分早く生まれてたら私がお姉ちゃんだったのに、お姉ちゃんだけお姉ちゃんでずるいよ、って妹が変なところで怒ったからさ、私、じゃあ、少女AのAちゃんって呼ぼうって言ったの。Aはアルファベットで一番目なんだよって」


「それで妹は納得したの?」


「機嫌は直ったよ? 一日だけのはずだったんだけど、私が気に入っちゃって。それから両親も含めてみんなでAちゃんって呼んでる」


 仲里はいつも妹の、Aちゃんの話をしていた。

 自分の書いている小説の話よりもAちゃんの話。

 俺に話すこと、それしかないのかよってくらい。


 でも、俺は仲里に俺のことを好きになってほしかったから、その話をいつも真剣に聞いていた。記憶力は良いほうで、だから、Aちゃんとの思い出話は全部覚えていた。まるで自分のものみたいに。


 記憶して、いつでも仲里と話せるように。「ああ、この前話してたことでしょう?」って。


 俺はいままで人と付き合うことなんて考えていなかった。

 恋愛なんて面倒くさい、そう思っていた。

 女子はしつこいし、俺の容姿だけ見てる。

 自分の理想と俺の中身が違かったら勝手に落胆する。

 でも、仲里は他の告白してくる女子と違っていた。

 俺の外見は関係ない。

 内面を見て本当の俺を知ってくれる。

 それでも、決して俺のことを好きになることはない。

 どれだけ、俺が利用できるかが大事。

 俺は、彼女にだけは、好かれたかった。


「中川くん、夢はないの?」


 ある放課後、図書館の隅の席で仲里に聞かれた。

 心臓がドクンと強く脈打った気がして、どう答えようかと悩む。

 夢がないわけじゃなかった。

 ただ、俺は……。


「……俺、役者になりたくて、演劇部に入ってたんだけど、やっぱりダメだなって思って。こんなところにいても俺は役者になれない。いや、たぶん、俺自体がダメと思ってあきらめた」


 学校の弱小演劇部にいても、何の意味もないと思った。

 それでいって、個人で何をしたらいいかも分からなかったし、そう思ってる自分もダメだと思った。

 そこにいるだけで、どうにかなる世界じゃないってことも分かっていた。

 自分に自信が持てなかった。


「なら、オーディションとか受ければいいじゃん。顔面はいいんだから、もったいない」


 はっきりと仲里は言った。

 顔面だけって、と思って俺は苦笑いを浮かべる。


「顔面だけでオーディションって受けていいのか?」


 演技が出来るか、とか正直いまの状態じゃ分からない。

 特別な特技があるわけでもないし。


「いいんじゃない? だって、まだ中学生だし、やってみたらいいじゃん。自分であきらめたってことはさ、親、別に反対してなかったんでしょ? 反対されてできない子だっているんだからさ。やれるときにやったほうがいいよ。大人になったら、反対されるほうが多くなるんだから」


 まるで大人みたいな言い方だった。

 大人になったら、もっと自由になるものだと思っていた。

 でも、きっと仲里が言っていることが正しいんだ。

 大人になったら、もっと自由がなくなる。

 そう思った。


「そういうもんかな……」

「そういうものですよ」


 ふふ、と笑って仲里は分厚いノートに何かを書き始める。

 さらさらと流れるようにシャーペンが進んでいく。

 筆圧が強すぎず、かといって弱すぎず、その丁寧な手つきに見とれる。

 自分でも気づかぬうちに、俺の視線はその手元に吸い寄せられていた。

 何も考えずにいると、ただその空気が心地よく感じられて、心の中が少しだけ温かくなるのを感じる。

 仲里はどんなところでも呼吸するみたいに文章が書けるんだな、と思った。

 

「なあ、文章力ってどうやったら上がんの?」


 テーブルに肘をつきながら、俺は仲里に尋ねた。

 彼女の伏せた睫毛が意外と長くて、じっと見つめてしまう。

 クラスの女子みたいに化粧をしてるわけじゃないのに。


「んー、読書じゃないかな」


 俺のほうは一切見ずに彼女は答えた。

 どんな返答もあっさり。


「それだけ?」

「それだけ」


 即答。

 会話が終わってしまう。

 俺はもう少し話していたいのに。

 まあ、仲里からしたら俺は邪魔かもしれないけど。


「どれ読めばいい? おすすめとかない?」


 テーブルに伏せるようにして、手を伸ばして、トントンとノートの近くを軽く叩いた。

 斜め下から仲里の顔が見える。でも


「どれって、絵本がいい?」


 まだ仲里はこちらを向かない。

 見ないままでそんなことを言った。

 絵本って、俺は幼稚園児かっての。


「ねえ、バカにしてんの?」


 怒ってはない。思わず顔がにやける。

 仲里が視線を上げる気配がして、俺は一瞬にしてにやけ顔を隠した。


「可愛がっているのだよ。中川くん」


 目が合った彼女はイタズラな笑みを浮かべていた。

 ああ、勝てないなと思った。


  ◆ ◆ ◆


 仲里は一人でいることが多かったが、実は性格は明るくて、ちょっとめんどうくさがりなだけだった。だから、その性格を前面に出せば、誰とでも仲良くできるはずなのにしていなかっただけ。


 俺と付き合って、話し始めた日にはクラスの全員がびっくりしていた。

 仲里って、あんなにしゃべるんだ、あんな風に笑うことってあるんだって。

 でも、俺はそれを知られるのがなんとなく嫌だった。

 自分だけが知っていたかった。

 本当に俺は彼女に心を奪われているのだと確信した。


「はい」


 放課後、図書館でまた待ち合わせをした日、席につくなり仲里は俺に一冊の本を手渡してきた。受け取ると少し重たい。


「なにこれ?」


 忘れていた俺は本をまじまじと眺めてしまった。

 表を見たり、裏を見たり。

 逆さにしてみたり。

 こんなに本に時間をかけてじっくり触れたのは久しぶりだったかもしれない。


「おすすめの本」


 仲里がふっと微笑んだ。その微笑みが、またどこか照れくさそうで、それが俺の胸をぎゅっと締め付ける。彼女が何気ないように見せる笑顔が、こんなにも胸に響くなんて、自分でも驚いていた。そして、仲里のその言葉を聞いて、思い出す。


「持ってきてくれたんだ? サンキュー」


 正直、本当に持ってきてくれるとは思っていなかった。

 彼女は俺のことに興味はないと思っていたからだ。

 すごく嬉しかった。


『君だけが許してくれた僕』


 主人公は中三の男で、とある事件から学校の人間全員から悪いやつだって誤解されて、避けられていた。ただ、一人の女のクラスメイトだけは主人公を分かってくれていて、彼女の前だけは許されるんだけど、最後、彼女は病気で亡くなってしまう。主人公は彼女にもらった勇気でこの先を生きていく、という話。


 どこかで自分と重なる部分があったからだろうか、俺は家でこの本を読んで号泣した。

 最初は結構ページがあって読み終われるはずなんてないと思っていたのに、気が付いたら、没頭して、読み終わっていた。


 何日も何回も読み返しているうちに返すのを忘れるほどに。


  ◆ ◆ ◆


「なあ、俺たちって付き合ってるのかな?」

「なに? 飽きてきた? フってくれてもいいんだよ?」

「いや、飽きたとかないけど」


 仲里は俺と付き合ってると思ってないから、全然デートをしてくれなかった。

 いつも行くのは地元の図書館だけ。

 それでも、俺は彼女との時間を大切だと思ったし、楽しいとも思っていた。


 ただ、どうしようもなく、一方的に不安になる。


 フってくれてもいい、と嬉しそうに言われて、胸が苦しくなった。

 仲里は初めて話したときから何も変わっていない。

 俺のことは絶対に好きにならなくて、俺の気持ちに気付いて応える気もない。

 そう思った。


 このまま俺と付き合っていて、フッたとして、仲里にとってそれは意味があるのか? と考えてしまう。

 これは俺の一方的なエゴで、それで……。


「小説、読ませて」

「いいけど、まだ途中だよ?」


 図書館からの帰り、俺は仲里に書きかけの小説ノートを借りた。

 案外、あっさり貸してくれて、彼女は俺のことを信用してくれているのだと感じた。

 恋愛の好きじゃなくても、友情的な信頼。


「ありがとう」


 嬉しさを隠しきれなくなって、俺が笑い掛けると

 

「今日はもう書かないから、明日には返してね」


 そう言って、彼女は急に駆け出した。


「え? ちょ」


 突然のことで、慌てて走って角を曲がると、そこで仲里は俺を待っていた。

 危うくぶつかるところだ。


「びっくりした?」


 彼女がまたイタズラな顔して笑ってる。

 忘れてた、仲里はすぐこういうことをするんだった。

 小さな悪戯っ子みたいな。

 俺の好きな仲里の行動。


「驚かせないでくれよ。死ぬかと思った」


 照れながら、耳につけたピアスを手でいじる。


 中学に入学するのと同時に空けたピアス。

 小学生のときは地味なメガネでいじめられてたから、中学に入ってコンタクトにして、髪も茶髪にしてチャラいグループに入ったんだ。

 教師には口うるさく注意されるが、もう誰も俺をいじめるやつはいない。

 小学校時代の同級生に合っても俺だと気付かれないくらいだ。

 もう俺は昔の俺じゃない。


「中川くんに聞いてみたいことがあったんだ」


 帰り道、隣を歩いていると、仲里がぼそりと言った。


「なに?」


 答えながら横を見ても視線は合わない。


「顔がいい人の世界って、どんな風に見えてるの?」


 前を向いたまま仲里は俺に問いかけた。


「それって、どういう意味?」


 複雑な気持ちになる。

 仲里も俺の顔がいいと思ってくれてるってこと?

 こうやって話してるとき、全然見てくれないけど。


「周りからキャーキャー言われて月に何度も告白される人の世界って、どんな感じなのかと思って」

「それ、本当に文章書いてる人の聞き方なの?」


 はは、と笑ってしまう。

 ややこしくて物書きらしくない聞き方だ。


「そうだよ? わざとしてるんだもの。分からなかった?」


 仲里も笑ってる。ほんと意地悪だ。

 まだこっち見てくれないし。


「分かってるよ。モテるやつの世界がどう見えてるかってことでしょう?」


 自分で口にして、本当かよ? と思いながら考えてみる。


 イメチェンして中学に入って、急に周りが騒ぎ始めた。

 顔がどうのとか、そんなので。

 最初のうちはなんで俺の顔なんて、と思ったし、どうでもよかった。

 いままでは地味でいじめられてきたわけだし。

 でも、そのうち身長も伸びて、さらに周りの女子から気にされることが多くなった。

 そりゃ、人に必要とされてるみたいで、気分は良かった。

 嫌われているより良かったから。


「みんなと何も変わらないよ。周りが光って見えるわけでもないし」


 考えた末に、そう答える。

 他に上手い言葉が見つからなかった。

 そのうち大人になって、気にされなくなるんだ。いまは同い年の中で、少し気にされてるだけ。


「そう」


 あっさりそう答えて、仲里は納得したのだと思った。


「でも、私からは別世界の人に見えるんだよね。こんな地味なやつといつまでもつるんでないで、中川くんは自分の世界に帰りな」


 やっと視線が合ったのに、言われたのはそんな言葉。 


 ただ、突き放された、というより優しさを感じた。

 まるで怪我をした鳥類を保護して、森に返すみたいな、そんな優しさ。

 生きる世界が違う、みたいな、そんな……。


「なんてね、私こっちだから、じゃあね」


 そう言って、仲里は普通に帰った。

 何も変わらずに帰ったんだ。

 あいつ笑ってたはずなのに……。

 

 突然、仲里は次の日から学校に来なくなった。

 何があったか聞こうにも俺は仲里の家も連絡先も知らなかった。

 一方的に仲里には知られていたけど、連絡が来たことは一度もなかった。


 仲里が近くの川で死んだことを知ったのは、一ヶ月以上後の朝礼の時間だった。

 ご家族のご希望でみなさんにお知らせするのを遅らせました、それが教師の口から出た言葉。

 クラスの誰かが自殺だと言った。

 ざわつく教室内。


「中川くん! どこ行くの!」


 俺は信じられなくて、仲里のノートを持って学校を飛び出し、近くの川まで走った。

 川の細かい場所までは分からない。

 どこで、どんなふうに……、そんなこと分からない。

 ただ、想像はしたくないが、飛び降りるなら橋の近くだと思って、橋の下に行った。


 探してみても全然分からなかった。どこにも仲里の痕跡がなかった。

 献花もなにもない。

 脱力して、その場に膝をつく。

 土手のアスファルトが冷たい。


「俺が一方的にフラれる気持ち、味わってどうすんだよ……っ」


 まだ何も分かってないだろ、俺を置いていくなよ。

 人を好きになる気持ち、分かったのかよ?

 まだ俺はフってねぇのに、主人公の気持ちなんて分かるわけねぇよな?

 だから、お願いだから、俺を置いていくなよ。

 小説の主人公の相手に俺の名前使ったくせに。


「この小説……、どうすんだよ……! なあ、仲里!」


 お前がいなきゃ、完成しないじゃんかよ。

 お前がいなきゃ、意味なんて……。


 叫んでも橋の上を渡る電車の音に掻き消されていくだけ。

 こんなにも自分の心を彼女に浸食されているとは思わなかった。

 苦しい、悲しい、寂しい。

 そんな簡単な言葉で表せない。


 仲里が死んだなんて冗談なんじゃないかと思えてくる。

 彼女はイタズラが好きだったから、しばらくして嘘でした、って言いながら俺の前に現れるんじゃないかって。


「……っ?」


 仲里を探して、キョロキョロと辺りを見回して、ふと橋の上に彼女の姿を見つけた気がした。いいや、見つけた……。橋の向こうからこちら側に向かって歩いてくる。


 期待が胸を駆け巡る。


 ほら、そうだ。

 これは彼女が仕掛けたドッキリで……。

 俺は騙されてて……。


 幽霊かもしれない。いや、幽霊でもいいんだ。

 ただ、会いたい。もう一度、仲里に会いたい。


 仲里……、仲里……! 仲里!


 俺は走って、橋への階段を上がった。

 彼女は過ぎ去ったあとだった。

 彼女の背中が見える。

 どう見ても彼女なんだ。

 

 仲里……。


 手が届きそうなところまで来て、気が付く。

 俺はゆっくりと足を止めた。


 彼女はきっと、仲里の双子の妹だ。

 仲里があんなにも毎日話していた妹、たしか名前は……


「Aちゃん?」


 こぼすように名前を呼んだ。仲里と変わらない姿。

 その背中が動きを止めて、こちらを振り返る。


「お姉ちゃん?」


 生きてるのに、生きてないみたいな顔をした仲里の妹にそう呼ばれて、もう戻れなくなった。


 当然のことだけど、あいつを求めていたのは、俺だけじゃなかったんだ。


「Aちゃん、私だよ」


 顔を見て、声を聞いて、どうしようもなく、離れたくないと思ってしまった。

 たとえ理由を無理矢理に作ってでも。

 Aちゃんを傷付けることになるかもしれなくても。

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