第10話 離




玄関の扉が「ガチャリ」と開いて、ランドセルを背負った小さな背中が、くるりとこちらを向いた。


「いってきます!」


少し誇らしげで、でもちょっとだけ不安そうな笑顔。


わたしは笑って頷く。

それだけしかできなかった。


ほんの一歩。

それだけの距離が、こんなにも遠く感じるなんて、思ってもいなかった。


ふと、思い出す。


幼稚園のころ、この子はとにかくわんぱくだった。

お友達の水筒を勝手に分解して直せなくなって、先生に平謝りしたこと。

園庭のど真ん中で、泥団子を全力で投げて、三人同時に泣かせたこと。

走っちゃダメって何度言っても、走って、転んで、膝に血をにじませて、それでも「痛くないもん!」って歯をくいしばってた。


こっちは、もう……

毎日が戦争だった。


「お願いだから、今日は先生から何も言われませんように……」

そう祈った日が、何度あったか知れない。


でもあの頃は、わたしの手の中にいた。

叱っても、泣かれても、最後には抱きしめれば全部終わった。


今は違う。

その小さな背中は、わたしの手を離れて、前を向いて歩いていく。


扉が閉まる音に、心の中の何かも「パタン」と音を立てた気がした。


走り出す足音。

元気よく響くスニーカーの音が、遠ざかっていく。


その音を聞きながら、

わたしの目から、ぽとりと落ちたひとしずく。


泣かないと決めていたのに。

泪は、勝手にあふれていた。


これは、誇らしさじゃない。

安心でもない。


それはたしかに、さびしさだった。


ひとつ、手を離した。

ひとつ、遠くへ歩き出した。

親離れ、というにはまだ早いかもしれないけど、

それでも確実に、子は前へ進んでいた。


わたしは、ここで待つしかできない。

振り返って、また「ただいま」と元気に

笑ってくれる日々に集中しないとね。


でも今日はまだ――

さびしさの中に、誇らしさを滲ませて。


玄関のドアに背をあずけて、

そっと目を閉じた。






―――――親愛なる妹へ贈る―――――







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志に異議アリ @wktk0044

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