第8話

 半年が経った。


 俺は相変わらず体を鍛えていた。


「………反応速度が随分と向上しましたね」


 タブレットに表示されたグラフを麗奈さんが見せてくれる。軽く頭を下げつつ覗き見ると、確かに右下がりの線グラフが表示されていた。


 速度を上げるトレーニングとして採用したのは二つ。

 一つ目はスプリント系で、これは純粋に四十メートル程度の距離を全力疾走することを繰り返すメニューだった。時に途中で左右に分岐させたりして、麗奈さんが指さした方向に走るなどして、反応速度を組み込んだメニューにもした。

 そして二つ目が、この神経系統のトレーニングだった。ボタンを二つ用意して、光った方を押すという単純なメニューだった。麗奈さんが情報を記録できるアプリのようなものを見つけてきてくれて、そこからは反応速度の数値を上げることに尽力した。


「速度のトレーニングもこれで打ち止めのような気がしますね」

「どうですかね………」

「これからの予定ですが、私は智弘さんの意見に従いますよ」

「え、俺も麗奈さんの意見に従います」


 何せ、ここ半年は特にメニューの全てを麗奈さんに任せさせてもらって来た。それで上手く行っているような気がするし、実際に反応速度も上がって、スプリントのタイムも良くなっている。


「ふふ、分かりました。ではもうちょっと考えてみますね」


 麗奈さんは笑みを深めた。


 シャワー浴びてきます、と麗奈さんに告げてから着替えを以てシャワールームに移動する。半年前には持ってきていなかったが、最近ではボディーソープやシャンプーなど、旅行用の小さな風呂セットを持ってくるようにしていた。


 運動直後のシャワーは気持ちがいい。軽く汗を流してから、頭と体を洗う。


 十数分で戻ると、麗奈さんは私服に着替えてジムの入り口で待っていた。


「お待たせしました」

「いえいえ」


 もはやお決まりになりつつあるやり取りをしつつ、ジムを発つ。もう既に秋の最中だった。少し肌寒い程度の風が街中を吹き抜けている。


 向かう先は付近にあるレストランだった。


「最近、件のシェフが一人引退しまして」

「え、米沢さんがですか。どうしたのですか?」

「それが、息子が十分に育ったから仕事を引き継ぐ、と」


 寡黙な老人を思い出す。確かに、息子がいつもキッチンでお手伝いをしているイメージはあった。


「米沢さん、あぁ、お父さんの方はこれからどうするんですかね」

「えぇ、それが私も気になってまして。釣りが趣味だから川釣りにでも高じると本人は言っているのですが」


 あの白いシェフコートの米沢さんしか想像ができず、頭を捻る。あまりにも職人という印象が強すぎて、趣味に高じる姿が想像できなかった。


「私も米沢さんに料理を習っていたので、今後どうするか少し悩んでいます。もういっそのこと専属の料理教師として雇ってしまってもいいかもしれませんね」

「米沢さんに、料理を。初耳でした」

「ふふ、言っていませんでしたからね。気が付いたら料理が上手くなっている、というサプライズをするつもりでしたが、我慢できずに言ってしまいました」


 何度か料理を振る舞ってもらったことはあったが、いつも美味しい料理を作ってくれる記憶しかない。

 そういえば、最近少し凝った料理が増えただろうか?


 そうこう言っている間にレストランに到着する。するとスタッフの人が頭を下げながら、奥の個室へと案内してくれた。

 この町の首長の娘ともなれば、この程度の扱いは普通らしい。麗奈さんと共に行動する機会が増えてから、こうした場面を多く見て来た。


 注文もせずに、料理が出て来る。麗奈さんが事前に頼んでおいてくれたものだ。最近では俺の食事制限なども全て麗奈さんが担ってくれていて、俺は出されたものを食べるだけの生活が続いている。

 先程麗奈さんに何度か料理振る舞ってもらったと言ったのはその一環だった。


「私もこれぐらいの料理ができるようになれば良いのですが」


 若鶏のパリパリ焼きです、と店員さんが給仕してくれた料理を皿ごと持ち上げて検分しながら麗奈さんが呟く。


「設備なんかの影響もあるんじゃないですか?」

「それが、私の場合は揃ってしまっていますから」

「確かに」


 言い訳が無効になってしまった。


「まぁ、経験ですかね」

「なるほど。料理はいつ始めたんですか?」

「それこそ半年前です。そもそも智弘さんに振る舞おうと思って学びましたから」

「まじですか?」

「ええ」


 ありがたい限りだ。一人暮らしではどうしても食事が適当になりがちだったから、ここ半年の間は特に幸せな生活を送らせてもらっている。


「………いつも本当にありがとうございます」

「どうしたんですか、急に改まって」

「どれだけお世話になってるかを再確認して」

「いつも言ってるじゃないですか。私がしたくてしているだけですから」


 麗奈さんは笑みを深めた。

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