第4話

 高谷さんにお墨付きを貰った後、俺は二人とお茶を飲んでいた。高谷さんの自己紹介は殆どなかったので、お互いに改めて名乗り合ったりしつつ。


「それにしてもいい筋肉ですね」


 袴越しに覗く強靭な肉体の気配を感じながら言う。俺の言葉に対して、高谷さんは麗奈さんに似た人好きのする笑みを浮かべた。


「今となっては衰えてしまいましたが、これでも若い頃は鍛えていたものですから」

「ご冗談を。今でも健在でしょう」


 小さな挙動でも力強さを感じさせるのは、若い頃の名残というだけではないだろう。今でも体を動かし続けているからこその雰囲気だった。


 それで、と少し空気を変えて高谷さんが言う。


「お嬢様からお聞きしましたが、これ以上どのようにして鍛錬するか行き詰まっているのではありませんか?」


 図星を突かれて、一瞬口を噤む。持久力にシフトすることで忘れようとしていたが、やはり何かが足りなかった。

 運動後のキツさが足りない。運動している最中の辛さが足りない。死に物狂いで体を動かす感覚がない。どうしようもなく物足りなかった。


 麗奈さんにはご迷惑を掛けまい、と口には出さないでいたが、とっくのとうに露見していたようだった。少し恥ずかしくなって麗奈さんから目を逸らす。


「………おっしゃる通りです」

「やはりそうでしたか」


 私も昔は同じ壁に辿り着きました、と老人は静かに語り始める。


 幼い頃に剣道を習い始め、最初はそのついでのように体力を付けていた。毎朝住んでいる家の付近を走っていたのだという。しかしそこで、鍛えれば鍛えるほど強くなってゆく自らの力に感動を覚えたのだという。

 その頃はもちろん、ジムなどはあまり一般的ではなかった。だから今の俺のようにジムに通い詰めるなどのことは出来ず、自主鍛錬と体力トレーニングに終始する毎日だったらしい。


「……──苦しい、と思うことはありませんでした。毎日が充実しておりましたから。しかし、これ以上鍛えても上が見えないと自覚した瞬間には涙が零れましたが、ね」


 自分と同じように、鍛錬をしたところで体力の維持程度の意味しか持たない領域にまで達してしまったのだという。当時の高谷さんにとって、それは大きな壁だった。


「しかし、私は道を見つけました。剣の道です。体を鍛えることに着目して疎かにしがちになっていた、己の本来の道でした」


 鍛えられるのは体だけではない、と高谷さんは続ける。


「心です。剣の道は心技体がそれぞれ一流になってこそ開かれる、そう師に改めて語られたときには天啓を受けたかのように感じました」


 無心に何かに没頭し、それを自らの強さへと変える。それは別に体を強くすることだけに限らなかった。心、そして技を磨くことによって、高谷さんは進み続けた。


「だからこそ、智弘さんには剣の修行を受けて頂きたい。決して落胆はさせないと誓いましょう」


 らんらんと目を輝かせて語った高谷さんが、一息つくようにお茶に手を伸ばした。その隣では麗奈さんが静かに笑みを浮かべてこちらを見守っている。


 しかし俺としては、己の本懐は体を鍛えることにこそあると考えていた。俺が求めているのはメンタルの強さではなく、日々の心配事を忘れて没頭できる何かだった。

 ただ、真っ直ぐとこちらを見つめる高谷さんの目力には勝てなかった。一度試してみるだけならば、悪い経験にはならないだろう。


「一度試してみる、という形でもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろんです!」


 笑みを深くした麗奈さんが嬉しそうに返事をして立ち上がった。小走りでどこかへと消えていき、高谷さんも同じように立ち上がってこちらに軽く会釈したのち、鍛錬場へと向かって行った。


 取り残された俺は何をすれば良いのかも分からず、座ったままお茶を飲んでいた。今日出されたお茶は少し甘い風味がする。お茶の温かさがゆっくりと喉を下って行った。


 少し待つ間もなく、二人は戻って来た。麗奈さんは高谷さんが来ているような袴を二着持っていて、高谷さんは木刀を三振り手にしていた。

 袴を渡され、高谷さんに別室へと連れていかれる。あれよあれよという間に着替えさせられ、気が付いた時には木刀を持って鍛錬場に立っていた。


 正式な道場でないことが悔やまれますが、と呟いた高谷さんであったが、礼儀作法は丁寧に教えてくれた。

 鍛錬場に入る際には、一度足を止めて一礼。稽古の終わりと始まりでも挨拶をするのが理想だそうだが、鍛錬場は直に土になっているので正座するわけにもいかない。少し失礼にはなるが、立礼にすると。


 ともかく剣道初心者の自分に対して、何が大切かを丁寧に教えてくれた。


「ここからは持論なのですが、剣道でもっとも大切なことは心を静かに保つことです。自らの精神を乱さず、ただひたすらに平坦にする」

「はい」


 いつの間にか隣に現れた麗奈さんは、同じように袴に身を包んで刀を構えていた。その彼女の溌剌とした返事に引っ張られるようにして、俺も声を出す。


 こうして俺の初めての剣道が始まった。

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