第6話:王女の興味が加速
その夜、アルフェン王国では緊急の王族会議が開かれていた。
「魔王城への侵入事件?」
エルンスト三世国王は、ランドール卿からの報告を受けて眉をひそめた。玉座の間には豪華なタペストリーが壁を飾り、歴代国王の肖像画が厳かな雰囲気を醸し出している。国王、シエル王女、ランドール卿、そして数名の重臣が半円状に座り、緊急事態に相応しい緊張感が室内を支配していた。
月光が高い窓から差し込み、大理石の床に幾何学的な影を作っている。普段なら穏やかな夜会でも開かれそうな優雅な空間が、今夜は重大な国家機密を扱う会議室として使われていた。
「はい。昨夜、複数の黒装束の集団が魔王城に侵入したという情報を得ました」
ランドール卿は詳細な報告書を読み上げた。彼の声は普段の落ち着いた調子だったが、その内容の深刻さが言葉の端々に表れている。
「侵入者は約二十名。魔王軍との戦闘は発生せず、約一時間後に退散したとのことです」
「戦闘が発生しなかった?」
シエルが興味深そうに身を乗り出した。彼女の碧い瞳が、月光の下で宝石のように輝いている。金色の髪は夜会用に編み上げられており、王女としての威厳を保ちながらも、その表情には抑えきれない好奇心が浮かんでいた。
300年間、魔王城で戦闘が発生したという報告は一度もない。それが当然のことだと思っていたが、改めて考えてみると不自然でもあった。侵入者がいれば、普通は迎撃戦が発生するものだ。
「はい。どうやら侵入者の目的は破壊や攻撃ではなく、魔王との『会談』だったようです」
「会談?」
エルンストが身を乗り出した。彼の温厚な顔に、珍しく鋭い表情が浮かんでいる。
「詳細は不明ですが、魔王アーク・ヴァルヘイム自身が直接対応したという証言があります」
この情報に、会議室の空気が一変した。
重臣たちがざわめき、互いに顔を見合わせる。300年間、魔王城への侵入事件など一度も発生していない。それが突然起こり、しかも魔王が直接対応したという。
「つまり」財務大臣のカルロス卿が口を開いた。「魔王は侵入者を歓迎したということですか?」
「そう解釈することもできます」ランドール卿が答えた。「少なくとも、敵対的な対応は取らなかったようです」
「しかし、なぜ?」
「それが問題なのです」ランドール卿の表情が曇った。「300年間、魔王は一度として外部の人間と接触したことがありません。それが突然、得体の知れない集団と会談したとなると…」
「何らかの計画があるということか」
重臣たちの間に不安が広がる。もしかすると、300年間の平和は終わりを告げようとしているのかもしれない。
「父上」シエルが口を開いた。「これは重大な事件ではないでしょうか」
「確かに…」エルンストは考え込んだ。「侵入者の正体は分かっているのか?」
「現在調査中です」ランドール卿が答えた。「ただし、先日から街で目撃されている不審な集団と同一の可能性が高いと思われます」
「つまり、何らかの組織的な動きがあるということですね」
シエルの声には、明らかな興味が込められていた。父王や重臣たちは事態を憂慮しているが、彼女だけは違った。
久しぶりに起こった「事件」に対する期待感があった。
幼い頃から勇者候補として育てられた彼女にとって、こうした非常事態は自分の存在意義を確認できる貴重な機会だった。退屈な政務処理とは違い、真の判断力と行動力が求められる場面。
「シエル」エルンストが娘を見た。「お前はこの件をどう思う?」
「私は…」シエルは慎重に言葉を選んだ。「詳しく調査すべきだと思います」
「調査?」
「はい。侵入者の正体、目的、そして魔王側の対応について。我々が知らない重要な動きがあるかもしれません」
シエルの提案は論理的だったが、エルンストには別の意図を感じ取った。娘の表情に浮かぶ微かな興奮、声に込められた期待感。それらが父親としての直感に警鐘を鳴らしていた。
「詳しく調査するのは良いが」エルンストは慎重に言った。「軽率な行動は避けなければならない。相手は最強の魔王だ」
「もちろんです」シエルは即座に同意した。「しかし、情報収集は必要不可欠です。何も知らないまま事態を放置するわけにはいきません」
「シエル様のおっしゃる通りです」
意外にも、ランドール卿がシエルを支持した。
「300年間何も起こらなかった世界で、突然このような事件が発生した。これは偶然ではありません。必ず何らかの意図があります」
ランドール卿の支持には、彼なりの理由があった。長年騎士として仕えてきた彼にとって、最近の平和すぎる日常は物足りなさの極みだった。観光客との記念撮影や儀礼的な警備ばかりで、本来の騎士としての技能を発揮する機会がない。
今回の事件は、久しぶりに「本物の仕事」ができる可能性を秘めていた。
「大きな変化の前兆かもしれません」シエルが続けた。「そうだとすれば、我々は準備をしておく必要があります」
「何が言いたい?」
「このような事態は前例がありません。慎重な対応が必要ですが、同時に積極的な情報収集も重要でしょう」
シエルの分析は的確だった。だが、同時に彼女の心の奥にある本音も透けて見えた。
ついに何かが動き始めた。
そして、それに関わりたいという強い欲求。
勇者候補として育てられながら、一度もその力を試す機会がなかった彼女にとって、この事件は運命からの呼び声のように感じられた。
「まさか、お前自身が調査に関わるつもりではないだろうな?」
エルンストの問いかけに、会議室の空気が緊張した。
「…必要であれば」
シエルの答えに、重臣たちがざわめいた。
「ダメだ」エルンストは即座に反対した。「危険すぎる」
「しかし父上、私は元勇者候補です。このような事態に対処するのは私の責務では?」
シエルの論理に、重臣たちは顔を見合わせた。確かに彼女の言い分には一理ある。勇者候補として十年間厳格な訓練を受けてきた彼女は、この場にいる誰よりも戦闘能力に長けている。
しかし、同時にそれは王室の跡継ぎを危険に晒すことでもあった。
「王女様」財務大臣のカルロス卿が進言した。「お気持ちは理解いたしますが、やはり危険すぎます。もし何かあれば…」
「何もありません」シエルは断言した。「300年間、魔王は一度として人間に危害を加えていません。本当に邪悪な存在なら、とっくに行動を起こしているはずです」
この指摘は鋭かった。確かに、アーク・ヴァルヘイムが本気で世界征服を企てているなら、300年間も何もしないのは不自然だった。
「それでも…」
「それに」シエルは続けた。「もしこの事件が本当に重大な変化の前兆なら、我々は魔王の意図を理解する必要があります。そのためには、直接的なアプローチも必要かもしれません」
エルンストは娘の言葉に困惑した。論理的には正しいが、感情的には受け入れがたい。
「シエル様のおっしゃる通りです」
再び、ランドール卿がシエルを支持した。
「このような事態は前例がありません。慎重な対応が必要ですが、同時に積極的な情報収集も重要でしょう」
「ランドール卿まで…」
エルンストは困った表情を見せた。
実際のところ、ランドール自身も今回の事件に強い関心を抱いていた。300年間平和が続く中で、久しぶりに「騎士らしい仕事」ができる可能性があった。
剣の手入れは欠かさずに行っているが、それを実戦で使う機会はない。訓練は続けているが、本当の敵と対峙することはない。技術は維持しているが、それを試す場がない。
そんな日々に、ようやく変化の兆しが見えてきた。
「ただし」ランドール卿が付け加えた。「王女様が直接行動されるのは確かに危険です。まずは私が詳細な調査を行い、その結果を踏まえて判断すべきでしょう」
「それなら…」エルンストは少し安心した。「ランドール卿、詳細な調査を頼む」
「承知いたしました」
「ただし、絶対に単独行動は取らないように。何か異変があれば、すぐに撤退してください」
「了解しております」
会議はそこで終了となったが、シエルは納得していなかった。調査に直接関わりたいという想いは消えていない。
父王の心配は理解できるが、自分の力を試す機会をみすみす逃したくはなかった。
会議の後、シエルは自室に戻った。
「魔王アーク・ヴァルヘイム…」
部屋の灯りを点けると、机の上に広げられた魔王に関する資料が照らし出された。最近、図書館から借りてきた文献の数々。魔王の歴史、能力、そして現在の状況について記された記録。
古い羊皮紙に書かれた文字、精緻な挿絵、学者たちの考察。それらを何度も読み返すうちに、シエルの中で魔王への理解が深まっていった。
しかし、同時に疑問も増えていった。
「なぜ侵入者と会談したのか?」
これまでアークは、一度として外部の人間と接触したことがなかった。魔王城は事実上鎖国状態で、公式な外交関係も存在しない。
それが突然、得体の知れない侵入者と会談したという。
300年間維持してきた方針を、なぜ今になって変えたのか。
「何を話したのだろう?」
シエルの好奇心は止まらなかった。
会談の内容によっては、世界情勢が大きく変わる可能性もある。もし魔王が何らかの行動を起こす意思を固めたとしたら…
そう考えると、胸の奥で複雑な感情が湧き上がってきた。
恐怖と期待が入り混じった、説明しがたい気持ち。
平和を愛する王女として、魔王の行動は阻止すべき脅威だった。しかし、勇者候補として育てられた彼女にとって、それは同時に自分の存在意義を証明する機会でもあった。
実は、彼女が魔王に興味を持ち始めたのは最近のことではない。幼い頃、勇者候補として選ばれた時から、運命の相手として意識していた。
十歳の時、神殿で「魔王を倒す運命の子」として祝福を受けた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
白い神官服に身を包んだアルマ神官が、幼い彼女の額に手を置いて言った言葉。
「あなたは選ばれた子です。いつの日か、魔王と対峙する運命を背負っています」
その時のシエルは、まだ運命の重さを理解していなかった。ただ、自分が特別な存在として選ばれたことに誇りを感じていた。
それから十年間、彼女は勇者として必要な教育を受けてきた。剣術、魔法、戦術、そして何より「正義の心」を育むための厳格な訓練。
朝は剣術の稽古から始まり、午前中は魔法の理論、午後は戦術の学習、夕方は体力錬成。そして夜は歴史や哲学の勉強。
毎日が戦いの準備だった。
でも、その戦いは一度も訪れなかった。
「もしかすると」
シエルは立ち上がり、窓辺に向かった。
窓からは、遠くに魔王城の黒いシルエットが見える。月明かりに照らされたその姿は、威圧的でありながらどこか美しくもあった。
まるで巨大な黒い宝石のように、夜空に浮かんでいる。
「彼も私と同じ気持ちなのかもしれない」
この推測は、シエル自身も驚くほど的確だった。
最強の力を持ちながら使う場所がない。特別な運命を背負いながら、それを果たす機会がない。
準備だけを続けて、実行の時が来ない。
もしそうだとすれば、魔王アークは敵というより…
「理解し合える相手?」
その瞬間、シエルは自分の考えに驚いた。
魔王を敵ではなく、理解し合える相手として捉えている自分がいる。これは勇者候補として、王女として、正しい考え方なのだろうか。
でも、論理的に考えてみれば、アークが本当に邪悪な存在なら、300年間も平和を維持できるはずがない。
彼もまた、この平和な世界の中で自分の立場に悩んでいるのかもしれない。
魔王でありながら魔王らしいことができない。最強でありながらその力を証明する機会がない。
そんな苦悩を抱えているとしたら…
「会ってみたい」
その想いが、シエルの心の中で強くなっていく。
魔王アーク・ヴァルヘイムという人物と、直接話をしてみたい。彼が何を考え、何を感じているのかを知りたい。
そして、もしかすると…
「私たちは似ているのかもしれない」
同じような立場で、同じような悩みを抱えている者同士として。
シエルは机に戻り、羽根ペンを取った。そして、上質な便箋に向かって何かを書き始める。
インクが月光の下で青く光り、文字が一つずつ紙に刻まれていく。
『魔王アーク・ヴァルヘイム様
突然のお手紙をお許しください。
私はアルフェン王国第一王女シエル・アリステアと申します。
昨夜の件について、お聞きしたいことがございます。
もしよろしければ、一度お会いして頂けないでしょうか。
敵対や挑発の意図は一切ございません。
ただ、お話をしてみたいのです。
私たちは、もしかすると似た境遇にあるのかもしれません。
与えられた役割と、本当の自分との間で悩んでいるという点で。
お返事をお待ちしております。
シエル・アリステア』
書き終えた後、シエルはしばらくその手紙を見つめていた。
これを送ることの意味を理解していた。王女が魔王に直接手紙を送るなど、前例のない行為だった。もし父王や重臣たちに知られれば、大問題になるだろう。
しかし、それでも送りたかった。
この手紙は、単なる好奇心から書いたものではない。深い部分で、魔王との間に何らかの共通点を感じ取っていた。
同じような孤独感、同じような虚無感、同じような期待感。
「どうやって届けるか…」
普通の郵便では、魔王城に手紙を送ることはできない。公式な外交ルートも存在しない。
その時、シエルは思い出した。
冒険者ギルド──現在の市民サービスセンター──には、様々な「特殊な依頼」を受け付ける窓口がある。
「ミラさんに頼めば…」
ミラ・セイランなら、何らかの方法で手紙を届けてくれるかもしれない。元Sランク冒険者としての人脈と技術があれば、不可能ではないだろう。
彼女は信頼できる人物だし、秘密も守ってくれるはずだ。
シエルは手紙を封筒に入れ、王室の封蝋で封印した。紋章が蝋に深く刻まれ、正式な王室文書としての体裁を整える。
「明日、ミラさんに相談してみよう」
決意を固めたシエルは、手紙を大切に机の引き出しにしまった。
その夜、彼女は久しぶりに期待感を胸に眠りについた。明日、新たな一歩を踏み出すことになる。
一方、その頃の魔王城では、アークが執務室で一人考え込んでいた。
広い執務室の中央に置かれた重厚な机の上には、様々な書類が散らばっている。だが、それらはほとんどが形式的なもので、真に重要な決断を要するものはない。
昨夜のギアス教団との会談が、どうしても頭から離れない。
「協力の提案…か」
彼らの主張には、確かに一理あった。この平和が停滞を生んでいることは事実だ。そして、自分自身もその停滞に苛立ちを感じている。
技術の発展は緩やか、芸術の革新は停止、社会の動きは予測可能。すべてが安定しているが、同時にすべてが退屈だった。
だが、それを解決するために戦争を起こすことが正しいのか。
多くの人々が犠牲になり、平和な日常が破壊される。それが本当に「発展」と呼べるのだろうか。
「俺は本当に何を望んでいるんだ?」
この問いかけを、アークは今日だけで何十回も繰り返していた。
戦いを望んでいるのか。平和を守りたいのか。それとも、全く別の何かを求めているのか。
机の上に置かれた鏡に、自分の顔が映っている。黒髪に赤い瞳、魔王らしい威圧的な外見。だが、その表情には迷いと疲労が浮かんでいた。
転生してから三年間、一度も全力で戦ったことがない。この身体に宿る圧倒的な力がどの程度のものなのか、実は正確に把握できていなかった。
試しに軽く魔力を放出してみると、執務室の空気がピリピリと震える。窓ガラスが微かに振動し、机の上の書類がひとりでに舞い上がる。
これでも全力の千分の一程度だろう。本気を出せば、おそらく城ごと消し飛ばしてしまう。
「この力を、何のために手に入れたんだ?」
前世の記憶を思い出す。平凡な大学生だった綾瀬真斗(アヤセマサト)は、特別な力など持っていなかった。だからこそ、異世界転生で最強の力を得た時は純粋に嬉しかった。
しかし、三年経った今、その力が重荷に感じられている。
力があるのに使う場所がない。強いのに戦う相手がいない。魔王なのに魔王らしいことができない。
その時、執務室の扉がノックされた。
「魔王様、失礼いたします」
現れたのはセバスチャンだった。いつものように丁寧な物腰だが、その表情には微かな緊張があった。
「どうした?」
「実は…不思議なお客様がいらっしゃいました」
「お客様?」
アークは眉をひそめた。昨夜に続いて、また訪問者だろうか。
「どのような方だ?」
「一人の若い女性です。商人の格好をしておりますが…どこか普通の商人とは違う雰囲気があります」
セバスチャンの説明に、アークは興味を持った。
執事として長年仕えてきた彼の観察眼は鋭い。「普通とは違う」と言うからには、確実に何かがあるのだろう。
「戦闘経験者のような雰囲気でしょうか?」
「はい。体の動きや視線の配り方が、明らかに訓練を受けた人物のものです」
「何の用事だ?」
「『魔王様にお届け物がある』とのことです」
「届け物?」
「はい。詳細は直接お話ししたいと」
アークは少し考えた。昨夜の件もあり、警戒すべきかもしれない。だが、好奇心の方が勝った。
久しぶりに予想外の出来事が起こっている。退屈な日常に、小さな変化が生まれようとしている。
「分かった。会ってみよう」
「承知いたしました」
数分後、謁見の間に一人の女性が通された。
確かに商人の格好をしているが、その立ち居振る舞いからは戦闘経験者特有の緊張感が感じられる。背筋が真っ直ぐで、足の運びに無駄がない。視線は常に周囲を警戒し、緊急事態に即座に対応できる姿勢を保っている。
アークは魔王としての経験から、相手の実力をある程度推測できた。かなりの手練だろう。
「初めてお目にかかります、魔王様」
女性は丁寧に一礼した。その礼儀作法からも、単なる商人ではないことが分かる。
「私はミラと申します。市民サービスセンターの調査員をしております」
「市民サービスセンター?」
「はい。以前は冒険者ギルドと呼ばれていた組織です」
アークは理解した。元冒険者ということか。
それなら戦闘経験者特有の雰囲気も納得できる。おそらく、かなりの実力者だったのだろう。
「それで、届け物とは?」
「こちらです」
ミラは懐から一通の手紙を取り出した。上質な便箋で、王室の紋章が刻印されている。
「王国からの手紙?」
「はい。シエル王女様からのお手紙です」
アークは驚いた。王女から魔王に直接手紙が届くなど、前例のないことだった。
300年間、魔王と王族の間に直接的な接触は一切なかった。公式な外交関係はもちろん、非公式な接触も皆無だった。
それが突然、王女から個人的な手紙が届いたという。
「なぜ君が?」
「王女様から依頼を受けました。『どうしても魔王様にお渡ししたい手紙がある』と」
ミラは手紙をアークに差し出した。
「ただし」ミラが付け加えた。「この件は王室の公式な外交ではありません。王女様の個人的なお考えによるものです」
「個人的な?」
「はい。国王陛下や重臣の方々は、この手紙の存在をご存知ありません」
興味深い状況だった。王女が父王に隠れて、魔王に手紙を送ってきた。
なぜそこまでして連絡を取ろうとするのか。何を伝えたいのか。
アークは手紙を受け取り、封を切った。
王室の封蝋が割れ、中から丁寧に折りたたまれた便箋が現れる。美しい筆跡で書かれた文字が、月光の下で浮かび上がった。
『魔王アーク・ヴァルヘイム様
突然のお手紙をお許しください。
私はアルフェン王国第一王女シエル・アリステアと申します。
昨夜の件について、お聞きしたいことがございます。
もしよろしければ、一度お会いして頂けないでしょうか。
敵対や挑発の意図は一切ございません。
ただ、お話をしてみたいのです。
私たちは、もしかすると似た境遇にあるのかもしれません。
与えられた役割と、本当の自分との間で悩んでいるという点で。
お返事をお待ちしております。
シエル・アリステア』
短い手紙だったが、その内容は衝撃的だった。
王女が魔王との会談を求めている。それも、敵対的なものではなく、対話を望んでいる。
そして、最も驚くべきは最後の一文だった。
『私たちは、もしかすると似た境遇にあるのかもしれません。与えられた役割と、本当の自分との間で悩んでいるという点で』
この一文は、アークの心の奥深くに響いた。まさに彼が日々感じていることを、的確に言い当てられた気がした。
「面白い」
アークは思わず呟いた。
「魔王様?」
ミラが心配そうに尋ねる。
「いや、こちらの話だ」アークは手紙を読み返した。「王女は本気でこれを書いたのか?」
「はい。王女様は非常に真剣でした」
「なぜ君にこの依頼を?」
「私も詳しくは存じませんが…王女様は最近、魔王様について深く調べておられるようです」
「調べている?」
「図書館で魔王に関する文献を頻繁に閲覧されているという話を聞きました。司書の方々も『最近の王女様は魔王のことばかり』と噂しているほどです」
アークは興味深く思った。王女シエル・アリステア。元勇者候補として名高い彼女が、なぜ魔王である自分に興味を持つのか。
「昨夜の件と関係があるのか?」
「可能性はあります」ミラが答えた。「街の不審者の件、魔王城への侵入事件、そして王女様のこの行動。全てが同じタイミングで起こっています」
「君も何かを感じているのか?」
「はい」ミラは正直に答えた。「何か大きな変化が起こりそうな予感があります」
ミラ自身、元Sランク冒険者としての直感が働いていた。長年培った危険察知能力が、何らかの重大な変化を感じ取っている。
平和な日常に慣れきった人々は気づいていないが、世界の空気が微妙に変わり始めている。
「私のような立場の人間には分かるのです」ミラが続けた。「長い間、戦いの最前線にいた者には、空気の変化が敏感に感じられます」
「戦いの最前線…」
アークはミラを改めて見た。確かに、ただの元冒険者ではない雰囲気がある。
「君はどの程度の実力者だった?」
「Sランクと呼ばれていました」ミラは控えめに答えた。「『最強の魔法剣士』などと呼ばれた時期もありますが…今は昔の話です」
最強の魔法剣士。その称号を持つ者が、なぜ今は市民サービスセンターで働いているのか。
「なぜ現役を退いた?」
「戦う相手がいなくなったからです」ミラの声に、微かな寂しさが込められた。「魔物は保護対象になり、悪い魔法使いは改心し、危険なダンジョンは観光地になりました」
「それで引退を?」
「否応なく、ですね」ミラは苦笑した。「冒険者という職業そのものが消滅してしまいましたから」
アークはミラの境遇に共感した。戦うために生きてきた者が、戦う理由を失った時の虚無感。それは魔王である自分も同じだった。
「君も…退屈だったのか?」
「はい」ミラは率直に答えた。「子供たちに魔法を教えるのは楽しいですし、やりがいもあります。でも、時々思うのです。あの頃の充実感は、もう二度と味わえないのかと」
二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた。立場は違うが、同じような喪失感を抱えている者同士として。
アークはしばらく考えた。
王女との会談。それは確かに興味深い提案だった。
これまで魔王と王族が直接対話したことは一度もない。300年間、両者は完全に分離した状態で存在してきた。
だが、今回の手紙は明らかに違う。敵対的ではなく、理解を求める内容だった。
「分かった」アークは決断した。「王女に返事を書こう」
「お受けいただけるのですか?」
「ああ。俺も王女と話してみたい」
実際、アークも王女シエルについては知っていた。元勇者候補として、そして優秀な王女として。
文献や報告書で読んだ限りでは、非常に聡明で、かつ正義感の強い人物だった。剣術も魔法も一流で、政務能力も高い。まさに「完璧な王女」として描かれていた。
だが、今回の手紙からは、そうした表面的な完璧さとは違う、もっと人間的な側面が感じられた。
もしかすると、彼女も自分と似たような立場にあるのかもしれない。特別な運命を背負いながら、それを果たす機会のない立場。
「どこで会うのがいいだろうか?」
「中立的な場所がよろしいでしょう」ミラが提案した。「魔王城でも王宮でもない、第三の場所で」
「そうだな…」
アークは地図を思い浮かべた。魔王城と王国の中間地点に、古い遺跡がある。300年前の大調停が行われた歴史的な場所だった。
「『調停の丘』はどうだろう?」
「調停の丘…歴史的な場所ですね」
「300年前、魔族と人間が平和協定を結んだ場所だ。今回の会談にふさわしいだろう」
ミラは頷いた。確かに象徴的な場所だった。
調停の丘は、魔王城と王国のちょうど中間地点にある小高い丘で、頂上には古い石造りの円形劇場のような遺跡がある。300年前、ここで魔族と人間の代表者が一堂に会し、歴史的な平和協定を締結した。
以来、この場所は平和の象徴として大切に保護されている。
「いつ頃がよろしいでしょうか?」
「明日の夜、月が最も高く上がる時刻に」
アークは返事の手紙を書き始めた。
執務机の上で羽根ペンを取り、インクを付ける。月光が窓から差し込み、白い便箋を照らしている。
『シエル王女
お手紙ありがとう。
君の言葉に、深く共感した。
確かに俺たちは似た境遇にあるのかもしれない。
与えられた役割と、本当の自分との間で悩んでいるという点で。
俺も君と話してみたいと思っていた。
明日の夜、調停の丘で会おう。
月が最も高く上がる時刻に。
俺も敵対の意図はない。
ただの対話だ。
君の勇気に敬意を表する。
アーク・ヴァルヘイム』
手紙を書き終えると、アークはそれをミラに渡した。
「これを王女に」
「承知いたしました」
ミラは手紙を受け取ると、丁寧に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「待ってくれ」
アークはミラを呼び止めた。
「君にも礼を言いたい。この手紙を届けてくれたことに」
「いえ、これも仕事ですから」
「いや、そうじゃない」アークは首を振った。「君がいなければ、この機会は生まれなかった。君の存在が、俺と王女を繋いでくれた」
ミラは少し驚いた表情を見せた。魔王がこれほど感謝の言葉を述べるとは思わなかった。
「魔王様…」
「久しぶりに、明日が楽しみになった」アークは微笑んだ。「それだけでも、君に感謝している」
ミラは深く頭を下げた。
「お役に立てて光栄です」
ミラが去った後、アークは一人謁見の間に残った。
「明日、王女と会う…」
300年ぶりの、魔王と王族の会談。それも、公式なものではなく、個人的な対話として。
「面白くなってきたな」
アークの心境に、微かな変化が生まれていた。
長い間感じていた虚無感が、少しずつ薄れていく。ついに何かが動き始める予感があった。
ギアス教団の件、王女からの手紙、そして明日の会談。
すべてが関連しているのかもしれない。そして、それが自分の人生を大きく変えることになるのかもしれない。
「シエル王女…どんな人物なんだろうな」
アークは窓の外を見た。遠くに王国の城が見える。その中で、王女も同じように自分のことを考えているのだろうか。
明日の夜が楽しみだった。
久しぶりに、明日を心待ちにしている自分がいた。
窓の外では、星々が静かに瞬いている。同じ星空の下で、王女も明日の会談に思いを馳せているのだろう。
二人の間には物理的な距離があるが、心理的な距離は確実に縮まっている。
似た境遇、似た悩み、似た孤独感。
それらが、敵対関係にあるはずの魔王と王女を引き寄せている。
明日の夜、調停の丘で何が起こるのか。
それは、この世界の運命を左右する重要な出会いになるかもしれない。
その頃、王国の図書館では、シエルが一人で資料を調べていた。
ミラから魔王の返事を受け取った後、彼女は明日の会談に備えて最後の予習をしていた。
「調停の丘…」
300年前、魔族と人間が初めて平和協定を結んだ歴史的な場所。その選択に、アークの意図を感じ取った。
敵対ではなく、平和を象徴する場所での会談。
「彼も本当に対話を望んでいるのね」
シエルは歴史書をめくりながら、明日の会談について想像していた。
調停の丘についての記録を読み返す。300年前のあの日、どのような議論が交わされ、どのような決断が下されたのか。
『魔族代表ガルヴァン卿と人間代表エドワード王の会談記録』
『両者は互いの立場を理解し、平和共存の道を選択した』
『この日を境に、エルトリス大陸に300年の平和が訪れることとなる』
歴史的な場所で、再び歴史的な会談が行われようとしている。
今度は魔王と王女が、個人的な対話として。
魔王アーク・ヴァルヘイムは、どんな人物なのだろう。外見は文献によると、黒髪に赤い瞳の青年。だが、その内面については全く記録がない。
300年間、一度も公の場に姿を現したことがない謎の存在。
「最強の魔王でありながら、なぜ戦わないのか」
これが、シエルにとって最大の疑問だった。
もし本当に邪悪な存在なら、とっくに世界征服を企てているはずだ。もし平和主義者なら、なぜ魔王という立場にいるのか。
その矛盾に、シエルは強い興味を抱いていた。
そして、今回の返事から、新たな情報を得ることができた。
『確かに俺たちは似た境遇にあるのかもしれない』
この一文は、シエルの推測が正しかったことを示していた。
魔王アークも、与えられた役割と本当の自分との間で悩んでいる。
「やはり、そうだったのね」
シエルは満足そうに微笑んだ。
自分の直感は間違っていなかった。魔王は敵ではなく、理解し合える相手だった。
少なくとも、対話の余地がある相手だった。
『君の勇気に敬意を表する』
この言葉も印象的だった。魔王が人間の勇気を認めるということ。
それは、彼が本当に邪悪な存在ではないことの証明でもあった。
「明日の夜…」
シエルは資料を閉じ、立ち上がった。
準備すべきことがある。武器、防具、そして何より心の準備。
300年ぶりの魔王と勇者の出会い。それも、戦いではなく対話として。
歴史的な瞬間の始まりかもしれない。
シエルは図書館を出て、自室に向かった。
廊下を歩きながら、明日の会談について考える。
どのような話をするのか。どのような質問をするのか。そして、どのような関係を築いていくのか。
すべてが未知数だった。
だが、それがかえって興味深い。久しぶりに、予測のつかない体験ができそうだった。
自室に戻ると、シエルは明日の準備を始めた。
まずは服装から。あまり豪華すぎると威圧的に見えるかもしれない。かといって、あまり質素すぎると失礼にあたるかもしれない。
結局、シンプルで動きやすい騎士服を選んだ。実用性と品格を両立した、勇者候補らしい装いだった。
次に武器。剣は一応携帯するが、あくまで護身用だった。今回の目的は戦闘ではなく対話だから。
そして最後に、心の準備。
これが最も重要だった。
相手は最強の魔王。どれほど対話的な雰囲気を装っていても、その力は圧倒的だった。
一瞬の油断が命取りになる可能性もある。
だが、同時に恐れすぎてもいけない。相手も対話を望んでいるのだから、こちらも誠実に応じるべきだった。
「大丈夫」
シエルは自分に言い聞かせた。
「私は勇者候補。この程度の挑戦から逃げるわけにはいかない」
実際、これは彼女にとって初めての「勇者らしい」任務だった。
政務処理とは違う、真の判断力と勇気が求められる場面。
長い間待ち望んでいた機会が、ついに訪れた。
「明日…すべてが変わるかもしれない」
シエルは窓辺に立ち、夜空を見上げた。
同じ星空の下で、魔王も明日の会談を考えているのだろう。
どのような結果になるにせよ、明日は歴史的な一日になる。
魔王と王女の初対面。
300年間続いた敵対関係に、初めて対話の機会が生まれる。
それは、世界の未来を左右する重要な出会いになるかもしれない。
同じ時刻、アルフェン王国の神殿では、アルマが最後の祈りを捧げていた。
「イデア様…明日で72時間になります」
時間は確実に過ぎていく。イデアが予告した「正式な神託」まで、残り約20時間。
「準備は…整いました」
アルマは決意を固めていた。
イデアの意志に従い、世界に大きな変化をもたらす。それが神官としての使命だった。
たとえ、多くの人を巻き込むことになったとしても。
「でも…これで本当に良いのでしょうか」
最後の迷いが、彼女の心を揺らした。
300年間続いた平和を終わらせることの重大さ。多くの人々の幸せな日常を壊すことの罪深さ。
それらを考えると、胸が痛んだ。
しかし、イデアの論理も理解できる。
停滞は確実に問題だった。人々の成長は止まり、社会の活力は失われつつある。
「変化が必要…なのですね」
アルマは自分に言い聞かせた。
神の意志は絶対だった。人間の感情や願いよりも、システム全体の最適化が優先される。
それが、この世界の根本的な仕組みだった。
「明日の夜には…全てが変わっているでしょう」
アルマは祭壇の前で深く頭を下げた。
最後の静寂な夜を、彼女は祈りの中で過ごした。
明日、世界は大きく変わる。
魔王討伐イベントが再起動される。
300年間の平和が終わりを告げる。
そして、新たな時代が始まる。
混乱と希望に満ちた、予測不可能な時代が。
しかし、それがこの世界にとって本当に良いことなのか、それはまだ誰にも分からない。
ただ一つ確実なのは、明日の夜には、誰もが全く違う世界に生きているということだった。
そして、その変化の中で、新たな物語が始まることになる。
魔王アークと王女シエルの物語が。
四天王たちと元冒険者たちの物語が。
平和を愛する人々と、変化を求める人々の物語が。
全ての運命が交錯し、新たな歴史が刻まれる。
それは、誰も予想できない壮大な物語の始まりだった。
だが、今夜はまだ平和な夜。
最後の静寂。
嵐の前の、穏やかな夜だった。
【第6話 完】
最強の魔王に転生したが、討伐イベントが永遠に来ない件 茂上 仙佳 @s-mogami
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