第一章 6:53 ― 世界は普通に動いてる

 朝の空気が、嫌になるほど澄んでいた。雲ひとつない空。カラスの声。ゴミ収集車の音。すべてが、世界が終わらなかったことを、何度も何度も思い出させてくる。


 僕は、自転車を押して通学路を歩いていた。誰も彼も、何事もなかったような顔で、いつもの坂道を上がっていく。


「昨日、やばかったよね」

「マジ信じてたやつ、アホすぎ」

「俺はさ、冷静だったよ? どうせデマだろって」


 そんな会話が、耳に入ってくる。笑ってるやつもいれば、話題に触れようとしないやつもいる。でも——誰も泣いていなかった。


 まるでが、本当に何でもなかったことみたいに。


 ……いや、わかってる。


 誰もがわかってるんだ。あの午後、たしかに世界は崩れかけた。


 電波は乱れ、ビルの一部が揺れた。


「GRB直撃まで残り2時間37分」——

 そう書かれた政府発表の速報は、確かにあった。


 だけど、何も起こらなかった。

 

 地球は回り続け、空は朝を迎え、僕は、今日もこうして制服を着て学校へ向かっている。


 そして今——

 その坂の上に、彼女が立っていた。


 七草ななくさヒカリ。


 セミロングの黒髪に、薄く笑った表情。

 

 僕が、世界の終わりに告白した相手。


 心臓が跳ねた。自転車のブレーキがきしんだ音で、

 彼女がこちらを見た。


「……おはよう、蒼汰そうたくん」


 その声は、昨日のと同じだった。

 でもその瞳だけは、まるで何もなかったように澄んでいた。


 僕は、口を開こうとして——やめた。


『ねえ、昨日のことなんだけど……』


 そう言いかけた彼女は、ほんの一瞬だけ眉を寄せたあと、言葉を飲み込んで、小さく笑った。


「……やっぱ、なんでもない。ごめん、変なこと言いそうだった」

「……うん」

「じゃあ、また後でね」


 彼女はそう言って、ゆっくりと校門のほうへ歩いていった。


 彼女の背中を見送りながら、僕は心の中で叫んでいた。


「あのは、本当にいらなかったのか?」


 世界が終わらなかったせいで、僕の気持ちだけが取り残されていた。


 教室の席に座っても、昨日の肌触りは、まだ消えてくれなかった。


 机に突っ伏して、目を閉じる。

 ヒカリの手の温度、

 唇に残った震え、

 あのとき耳元で聞こえた、かすれた「うん」。


 全部、終わるはずだったから、交わせたものだったのに。


「おーい、蒼汰ー。寝てんのか?」


 隣の席の結城ゆうきが、肘でつついてきた。

 僕は顔を上げて、なんとなく笑ってごまかす。


「昨日さ、マジで泣いたやついたよな。あれ見たとき、あ〜もうダメだって思ったもん」

「……うん」

「お前は? なんかやった? 告白とか?」


 心臓が止まりかけた。


「は?」


「いやさ、人生のラストチャンスじゃん。俺、正直、LINEで元カノに『好きだった』って送っちゃったし」

「……で、返信は?」

「既読すらつかねぇ」


 彼は笑っていた。冗談みたいな顔で、全部を軽く流す。


 だけど僕は、その軽さがどうしても真似できなかった。


 教室の後ろでは、ヒカリが誰かと話していた。

 声は聞こえない。けど、その表情は見える。


 いつも通りの顔。

 昨日、「うん」って言った子の顔じゃない。


 もし世界が本当に終わっていたら、

 僕たちはで、終われたのに。


 でも終わらなかったから、

 彼女には彼氏がいることを、思い出す時間が戻ってきた。


 そして僕には、

「昨日の好きは、今も続いてますか?」なんて、聞く資格すらない。


 終末の告白は、現実では続かない。

 それは、ただの一夜限りの錯覚だったのかもしれない。


「——結城」


「ん?」


「……何もしてないよ。俺は、何も」


 そう言った直後、自分の声のトーンに吐き気がした。

 言い訳にも、逃避にも聞こえる。

 嘘なんてついたつもりはなかったのに、

 言葉にすると全部が薄っぺらくなる。


 僕はそっと視線を落とした。


 教室の床に伸びる、ヒカリの影が見える。

 彼女は教壇近くで、他のクラスメイトと笑っていた。

 その影は、僕の机の端っこまで届きそうで、届かない。


「……なあ蒼汰、お前、七草のこと——」


「忘れろ」


 その瞬間、自分の声がいつもより低くて、

 自分の中の何かが音もなく崩れていった。


 結城が何か言いかけて口を閉じる気配。

 僕はそれ以上、何も聞きたくなかった。


 窓の外を見る。

 青すぎる空が、また昨日を否定してくる。


 本当に、あれは夢だったのか?


 ◆


 ——目を閉じれば、すぐに蘇る。


「ねえ……蒼汰くん。もし、世界が終わるなら、今、誰に会いたい?」


 静かな夜の公園。

 膝を抱えて、遠くを見つめるヒカリの横顔。

 あのとき、風の音も、街灯のちらつきも、

 全部がスローモーションみたいだった。


 僕は、何も考えずに答えた。


「……君だよ」


 ヒカリは、ほんの少し、微笑んでくれた。


 それが、すべての始まりだった。


 ◆


 チャイムが鳴った。


 日常が、何もなかったふりで始まる合図。

 机の上の教科書を開きながら、

 僕は心の奥で、静かに思った。


 ——ねえ、ヒカリ。あのとき、君は本気だった?

 それとも、あれは君の終末用の嘘だったの?


 僕にはまだ、その答えが出せなかった。


 でも、ひとつだけ確かだったのは——


 世界は終わらなかった。

 だから、僕の嘘だけが残った。

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