囮にされた勇者が見た世界の終わり

インバランスなケーパビリティ

マリアは小さな村の娘だった。

父は狩猟が得意で、母は料理上手で、今日も熊肉の鍋と、鮭を包む金属紙——ミスリルホイル——の準備をしていた。


「父さん、熊肉は血抜きできた?」

「任せとけ。おい、マリア、薪をくべといてくれ。」

「はーい。」


母は鮭の身に刻んだ香草を載せ、ミスリルホイルを丁寧に折りたたんでいく。油を少し、バターを少し、贅沢だけど今日はごちそうだ。


「今日はちょっと贅沢だね。」

「お前の誕生日だろう。」

「うん……ありがとう。」


母が微笑む。父も頬を緩める。

湯気が立ち上り、熊鍋はもうすぐ煮えそうだった。


けれど——


村を包む空気が、突然ざわめき立った。

地面が振動し、外からは悲鳴と金属音が交じる。


「なに……?」


父が弓を取って外に飛び出した。母がマリアを抱き寄せた。


「絶対に、離れないで。」


戸が蹴破られる音がした。角の生えた黒い甲冑の獣人が、血塗れの斧を握りしめていた。母が叫ぶ前に斧が振り下ろされた。


「いやあああああ!!」


血が飛び散り、母の体が崩れ落ちた。

マリアの頭が真っ白になった。


誰かが自分を押さえつける。熱い、息が荒い、獣人が押しつぶすように笑った。


「人間め。勇者の里を潰せと陛下は——」


その声が、もう聞こえなくなった。


視界が真白に塗り潰された。

頭の中に、何かが割れるような音が響いた。


「……マリア。逃げろ。」


聞き覚えのある父の声が、遠くで囁いた。


意識が戻ったとき、周囲は崩れ落ちた家の残骸だった。血の匂いが立ち込め、火の粉が舞う。母も父も、そこにはいなかった。


マリアは立ち上がった。

目の前に、光があった。


それは剣の形をしていた。

白く、鋭く、温かいのに冷たい。

呼吸を合わせると、光は手に収まり、柄を形作った。


「これは……」


泣いている暇などなかった。

獣人が振り向き、彼女に襲いかかる。


「いけえええ——!」


言葉の途中で、マリアの手の光が閃いた。

斬撃が走り、獣人の身体を切り裂いた。


血が飛び、マリアはその場に崩れ落ちた。

全身が震え、吐き気が込み上げた。


「母さん……父さん……ごめんなさい……」


崩れた壁の影で、最後に見た母の顔が焼き付いて離れない。

剣の光が、ゆらりと揺れ、次第に消えていった。


そして——


マリアの意識は、闇に落ちた。


* * *


「……この子は、勇者の力を……」


ぼんやりとした視界の向こうに、修道服を着た大人たちがいた。

焔に焼かれた村はもう遠い。冷たい水で顔を拭かれ、包帯を巻かれ、硬い寝台に寝かされていた。



「彼女を保護し、王都へ連れて行け。教会の施設へ。監督はフィオナに任せる。」

そう告げた枢機卿オルランドの瞳は揺れていた。


マリアはぼんやりと名前を覚えた。

フィオナ。年上の女性がそっと手を握ってくれていた。


「大丈夫。私が一緒にいるわ。」


マリアの喉からは、かすれた声が出た。


「復讐……したい……」


フィオナの目が曇ったように見えた。

だが、すぐに優しく微笑んだ。


「ええ。あなたの望むままに。」


そしてマリアは瞳を閉じた。

闇は深く、けれど確かに、剣の光がそこにあった。


それから一年。


マリアは硬いベッドの上で目を覚ました。

天井は高く、灰色の石造りで、微かな蝋燭の灯りが影を揺らしていた。

教会の寝室だった。



「……フィオナ。」


呼ぶと、すぐに白衣の僧侶が近づいてきた。

緑の瞳が優しく細められる。


「おはよう、マリア。もう起きても大丈夫よ。」


フィオナは手に持った書物を閉じ、マリアの額に手を当てた。

祈るように唱えると、淡い光がマリアを包んだ。


「どこか痛むの?」


「うん……大丈夫。」


フィオナは僧侶であり、監督役でもあった。

あの日、燃える村からマリアを抱えてここへ連れてきてくれた。

以来、ずっと世話をしてくれている。


* * *


その頃、王都の中央大聖堂。

赤い絨毯の敷かれた長い通路を、黒衣の男が歩いていた。


枢機卿オルランド。


「我々はあくまで中立であるべきだ。王国のために剣を振るうなど、教会の本義に反する!」


声が大理石の壁に反響した。

だが対する枢機卿バルバトスは嘲笑を浮かべていた。


「時代は変わる。魔族に国を奪われても手を拱いているのか?民は我らの行動を望んでいる。」


「それは教会を堕落させる!」


「いいや、我々が剣を執らねば、誰が救うというのだ?」


二人の論争は苛烈だった。

だが最終的に勝利したのはバルバトスだった。

オルランドの周囲に渦巻く汚職の噂、密売の記録。

バルバトスの手配した告発状が教会を震撼させた。


オルランドは失脚。

新たな教会の権威は、バルバトスの手に落ちた。


* * *


「マリア、行くわよ。」


フィオナが呼びかける。

マリアは教会の庭で、剣を構えていた。

痩せた体つきだが、眼差しは鋭い。


「はい。」


フィオナは微笑み、銀色の短杖を構えた。


「今日は回復の呪文を唱えながらの剣の型。疲れ切っても倒れるまで続けなさい。」


「わかった。」


黙々と繰り返す。

剣を振り、回復を受け、また振る。

目の奥にあの日の炎が蘇る。


「絶対に、魔族を滅ぼす。」


フィオナは呟くように聞こえた。


「そう。」


マリアは頷いた。


* * *


ある日、食堂。

フィオナが大皿を抱えて戻ってきた。


「今日は豪華よ。」


大皿には艶やかなピーマンの肉詰めが盛られていた。


「いただきます。」


二人が並んで座り、ナイフを入れる。

肉汁が溢れる香ばしい香り。

教会の生活にも、ささやかな安息があった。


「これ、私好き。」


「知ってるわ。」


マリアが小さく笑った。


その時、食堂の扉が勢いよく開いた。


「へえ、これが噂の勇者ちゃん?」


短く結んだ赤毛の女が現れた。

鋭い目つき、革の拳当てを嵌めた両手。


「誰?」


「セリア。武闘家。教会に招聘されて来たの。貴女と同じで、魔族討伐のためよ。」


セリアは勝手に椅子を引いて座り、マリアの皿のピーマンを指差した。


「一口いい?」


「……いいけど。」


「ありがと!」


セリアは豪快に頬張り、にやりと笑った。


「おいしいね。いい教会飯だ。」


フィオナが肩をすくめた。


「あなたたち、すぐ仲良くなれそうね。」


マリアは黙ったまま、もう一口を食べた。


* * *


数日後。

大聖堂の広間に集められた一行。


バルバトスが厳かに告げた。


「王国より要請があった。魔族に奪われた約束の地ブリタニアを奪還する。我らは協力を惜しまぬ。」


フィオナ、セリア、そしてマリアの目が合う。

彼女たちに拒否権はない。


「行くぞ。」


フィオナが囁いた。


マリアは黙って頷いた。

剣を握りしめる手が、震えていた。


「必ず……殺す。あの魔族を。」


心の中で繰り返し、マリアは前を見据えた。


*****************


城塞都市の奥深く。

高い黒曜石の塔の最上階に、その玉座はあった。


変化の魔法を解いた魔王マルファは、机に広げた地図を見下ろしていた。

戦線図には王国軍の動きが赤い線で描かれている。

新たに派遣されるという「勇者」の報せも、もう掴んでいた。


「……最悪だ。」


呟いた声は震えていた。

銀髪を指で梳く。深紅の瞳には憂鬱が滲んでいた。


戦いたくなど、なかった。

むしろ、どうすれば戦いを終わらせられるのか、何年も考えてきた。


* * *


幼い頃から、彼女は帝王学を叩き込まれた。

魔王の娘。先代の血を引く者。

「お前はすべてを制し、魔族を率いなければならない」と。


厳しい教育の日々。

泣き言を言えば、家臣たちは失望の目で見た。

四天王でさえ「姫様の器ではない」と嘲った。

それでも勉強を重ね、魔法を磨いた。

血の滲む努力を続けた。


だが、どれほど才を示しても、誰も完全には従わなかった。

結局、力でねじ伏せるしかなかった。

そのくせ、戦争を止めたいなどと口にすれば「臆病者」と蔑まれた。


「私に……どうしろっていうの……」


誰もいない玉座の間に、弱音が響いた。


* * *


机の上には、四天王からの報告書が積まれていた。

セリクシア、ザルヴァ、グランディス、フェルモル。

どいつも戦闘力だけは抜群だが、命令を曲解し、勝手に暴走する。


「和平の交渉を進めろと命じたのに、王都に攻め込むとは……」


ため息をつき、報告書を投げた。

四天王が暴走した結果、人間側は完全に敵意を固めた。

もう誰も、和平を信用しない。

自分の意志など、全て裏目に出た。


「バカみたいだな、私。」


小さく笑った。

笑って、すぐに冷たい目に戻る。


「……けど、泣いても仕方ない。」


魔王は腰を上げた。

小机に載せていた小さな器を手に取る。

中身はぷるぷると震える、ほうじ茶ゼリーだった。


ひと匙を口に運ぶ。

香ばしくほろ苦い風味が広がる。


「……美味しい。」


ほんの少しだけ心が落ち着いた。

戦いばかりの生活に、ささやかな癒しをくれるものだった。


しかし——


「王国は、ブリタニア奪還を決めた。」


ゼリーを食べる手が止まる。

瞳が鋭くなる。


「このままだと前線は崩壊する。迎撃が必要。」


けれど迎え撃てば、ますます人間との溝は深まる。

和平どころではなくなる。

それでも止めなければ、魔族が滅ぼされる。


「この役目を……誰が望んだっていうの。」


誰も答えなかった。

玉座の間は冷たい風が吹き抜けただけだった。


* * *


その頃、王都の作戦会議室。


大理石の机を囲んで、老齢の国王グランバニアは重い口を開いた。


「……ブリタニアを取り戻さねば国は滅ぶ。」


参謀が頷く。


「魔族が戦力を分散している今が好機。だが、魔王が動けば危険です。」


王は目を閉じた。


「勇者マリアを派遣する。」


会議室がざわついた。


「まだ若い。だが勇者の力を持つ者だ。」


国王は目を開く。

鋭い光が戻っていた。


「彼女だけでは危うい。王国騎士団主席ロガンと、魔術師団筆頭レミオを護衛に付ける。」


「陛下……あの二人は犬猿の仲です。」


「わかっておる。しかし、それでもバランスを取らねばならん。」


老いた声が震えた。

だがその眼差しは、決意を秘めていた。


「人類の未来がかかっている。」



* * *



王都の中央作戦室を出た後、パーティの5人は小さな控え室に集められていた。

重苦しい沈黙が流れる。


ロガンは壁際に腕を組み、じっと睨んでいた。

レミオは椅子に座って脚を組み、書物をパラパラとめくっている。


「……ああ、うるさいな。その目、やめろよロガン。」


レミオが鼻で笑った。


ロガンの眉間に深いしわが刻まれる。


「作戦会議中にいちいち口を挟むなと言っただろう。」


「いや、間違いは指摘する主義でね。あんな穴だらけの案に黙って頷けと?」


ロガンが低い声でうなった。


「てめえ、言葉を選べ。」


「おや、選んでるつもりなんだが?君は剣しか使えないから、言葉の斬り合いには弱いな。」


レミオの冷笑に、ロガンの手が剣の柄に伸びる。


「おいおい、やめなよ!」


セリアが慌てて二人の間に割って入った。

両手を広げて必死に笑顔を作る。


「同じパーティだろ?仲良くしようぜ!な?」


ロガンは目を逸らして腕を組み直す。


「……俺は仲良くするつもりだ。だがこいつが黙ってりゃな。」


「君と語り合うことに何の得がある?」


「お前、言葉ってのは得とか損とかじゃねえだろうが!」


「ほらほら!落ち着けってば!」


セリアは二人を両手で押さえ、バタバタと宥める。


その様子を見て、マリアはおろおろしていた。


「え、えっと……わたし、がんばりますから…その…」


声が上ずる。

緊張で手が震えていた。


フィオナはというと、長いため息をつき、杖をコツンと床に立てた。


「……本当にこのメンバーで大丈夫なのかしらね。」


その声に、全員が一瞬黙った。


レミオは本を閉じ、ふんと鼻を鳴らした。


「まあ、戦闘になれば私も真面目にやるさ。成果を出すのが大事だ。」


ロガンも渋い声を絞り出す。


「……任務は任務だ。」


セリアが大きく笑った。


「そうだって!やればできるチームじゃん!」


マリアは小さく頷いた。


「う、うん……が、がんばろう。」


フィオナはやれやれと肩を落としたが、最後には微かに口角を上げた。


「……まあ、これが私たちの現実。頑張るしかないわね。」


こうして、異なる思惑を抱えた五人は、不安定なままパーティを組み、魔王軍との戦いに身を投じていった。



* * *



冬の大地に似た空気が、ブリタニアの荒野を覆っていた。

荒涼とした石の道を、五人の影が進む。


「……寒いな。」


ロガンが重い声で呟いた。

鉄の鎧の下で吐息が白く煙る。


「へーきへーき!」

セリアは頬を赤くしながらも拳を握った。

「気合入れれば寒さなんか吹っ飛ぶって!」


レミオが冷たく一瞥を投げた。

「だから脳筋だと言われるんだ。」


「はあ?もう一回言ってみな!」


また始まった。

マリアはおろおろと二人を見た。


「や、やめて……二人とも……。」


フィオナが前を向いたまま、ため息をつく。


「喧嘩してる場合?魔族の気配がするわ。」


その瞬間だった。

風が止まり、空気が張り詰めた。

雪のような白い靄が、音もなく辺りを包む。


「来たわよ。」


前方の雪煙の中に、白い影が浮かび上がった。


「勇者一行か……思ったより早かったわね。」


声は氷のように冷たい。

そこに立っていたのは、青白い肌の女だった。

銀の長髪が風に流れ、瞳は氷晶のように光っていた。


氷の魔女セリクシア。

魔王軍四天王の一人。


「これ以上進ませない。ここがあんたたちの墓場よ。」


マリアは剣を抜き、震える声で叫んだ。


「あなたが……魔王軍の四天王……!」


「ええ、だから何?」


セリクシアは微笑んだ。

その笑みは、美しく、そして酷薄だった。


* * *


戦いは唐突に始まった。


セリクシアが杖を振る。

瞬間、氷の棘が地面から生え、五人を襲う。


「くそっ!」

ロガンが盾で弾くが、冷気が全身を包む。

鎧が凍りつき、動きが鈍る。


「レミオ、魔法で援護!」

フィオナが叫ぶ。


「言われなくても!」


レミオが詠唱を走らせ、火球を放つ。

だが、氷の壁がそれを受け止めた。


「無駄よ。」

セリクシアの声が響く。

「炎でも割れない氷もあるの。」


「なに……!」


再び氷の刃が雨のように降り注ぐ。

マリアは剣を振るうが、光は弱々しく、氷を砕ききれなかった。


「マリア、しっかり!」

セリアが飛び込んで、氷の刃を拳で砕く。

その拳から血が滲んだ。


「痛っ……けど、平気!」


「無茶するな!」

ロガンが庇うように前に出る。


フィオナが急いで回復魔法を詠唱する。


「癒しの光よ、守りたまえ……!」


だがセリクシアは容赦なく氷槍を生む。

フィオナが回避しきれず、肩を裂かれた。


「フィオナ!」


「私は……平気……早く倒して……!」


* * *


レミオの詠唱が最終段階に入った。


「炎よ、全てを焼き払え!」


巨大な火柱がセリクシアを襲う。

氷の壁が幾重にも割れ、凍りつく大地が溶けた。


セリクシアが顔をしかめる。


「しつこい……!」


その隙を、ロガンは見逃さなかった。

大盾を投げ捨て、全身で突撃。


「おおおおおお!」


剣が唸り、氷の杖を叩き折った。

火柱の中で、セリクシアの悲鳴が響いた。


雪煙が晴れた時、彼女は地面に崩れ落ちていた。


「やった……のか?」


マリアが息を荒げ、剣を杖のようにして立っていた。

だが、セリアがその場に座り込む。


「いって……。」


腕が黒く変色していた。

氷の呪いが肉に食い込んでいた。


「セリア!!」


フィオナが駆け寄り、必死に回復魔法を放つ。

だが、凍傷は完全には消えなかった。


「くそ……!」


ロガンが唸り、レミオは無言で視線を逸らした。


マリアはただ、その場に立ち尽くした。

勝ったはずなのに、胸がひどく冷たかった。


* * *


戦いの後、荒野を離れた一行は小さな洞窟を見つけ、焚き火を囲んだ。

荷物から取り出した甘い氷菓を手渡すレミオ。


「……これでも食って冷やせ。凍傷には逆効果だが、気は紛れる。」


セリアが笑った。


「ありがと……案外優しいな、アンタ。」


「うるさい。」


フィオナが肩を揺らして笑い、ロガンは無言で火をかき回した。

マリアはセリアの包帯を見つめ、唇を噛んだ。


「私が……もっと強ければ……。」


誰もそれに答えなかった。

焚き火がはぜ、氷の微笑は遠くでまだ笑っているような気がした。



* * *



石造りの冷たい王都の中央作戦室。老齢の国王グランバニアは重い椅子に深く腰掛け、前に立つ枢機卿バルバトスを鋭く見据えていた。


「……まずは協力に礼を言う、バルバトス。」


「陛下のために尽くすのが我々教会の務めです。しかし、あの勇者パーティとやら、本当に戦力になるのでしょうかな?」


国王は鼻で笑った。


「期待などしておらん。所詮は田舎娘と寄せ集めの集団だ。」


バルバトスは口角を釣り上げた。


「つまり囮、というわけですな。」


「その通りだ。」声は低く、冷たかった。


「勇者パーティと魔族の視線をブリタニアに引きつけておく。その間に、王国の暗殺部隊を魔王城へ送り込み、奇襲をかける。」


バルバトスがハトが豆鉄砲をくらった顔になる。


「魔王城ですか・・・そのような奇襲がいきなり可能なのですか?」


グランバニアはニタッと笑う。


「勇者パーティはブリタニアで討ち死にしてくれれば、都合が良い。英雄として祭り上げ、民心を一つにまとめやすくなる。」


グランバニアはゆっくりと頷いた。


「無駄に生かしておくより、ずっと価値がある。」


二人の口元に冷たい笑みが広がった。蝋燭の炎が揺れ、壁に落ちる影がねじれて蠢くようだった。



* * *



ブリタニア奪還作戦は、ひとつの大きな壁を越えた。

だが、安堵する暇などなかった。


セリアの腕にはまだ凍傷の呪いが残り、痛みに顔をしかめながらも拳を握りしめていた。


「次も、行けるから……」


その言葉にマリアは目を伏せた。

自分の弱さが、仲間を苦しめていた。


フィオナは呪文を唱えながらも、冷や汗を滲ませていた。

「この呪い、完全には消せないわ……でも、進むしかない。」


ロガンが短く頷く。


「次は、死霊使いザルヴァだ。」


レミオは冷たい目を伏せたまま地図を広げた。


「……この迷宮だ。洞穴を利用した地下墓地。毒と幻術が得意な奴だ。」


「……ごちゃごちゃ言ってねえで行こうぜ。」

セリアが苦笑しながら立ち上がった。


マリアは剣を握りしめた。

「絶対に……負けない。」


* * *


迷宮の入り口は不気味だった。

枯れた蔦が絡み、黒い空気が漏れ出ていた。

一歩入れば、空気は腐臭と湿気で満ちていた。


「気をつけて。」

フィオナが警告する。


だが、何も出てこない。

ただ、霧のような煙が立ちこめていた。


「なにこれ……」


マリアが吐き気をこらえた。

意識がぼやける。

視界の端で、父と母の姿が見えた。


「マリア……おいで……」


「……っ!」


剣を握り直し、目を瞑る。

それは幻覚だった。


「しっかりしろ!」


ロガンが肩を掴んだ。

「幻術だ。気を抜くな!」


「チッ……くせえ幻だぜ。」

セリアも呻きながら進む。


レミオが呪文を唱える。


「視界を浄化する光よ……!」


淡い光が霧を照らし、幻が薄れていった。

だが足元の水たまりが、不気味に揺れた。


「出るぞ……!」


次の瞬間、屍のような手が地面から伸びた。

腐敗した魔族の亡者たちが、呻き声を上げて襲いかかってきた。


「くそっ!」

ロガンが剣を振る。

セリアが拳で頭を砕く。


マリアも剣を振った。

だが光は弱い。

恐怖が、力を奪った。


「マリア!!」

フィオナが回復魔法を放ちながら叫んだ。


「しっかりしなさい!貴女が崩れたら終わりよ!」


「わかってる……わかってるのに……!」


剣が鈍く光り、亡者を貫く。

だが、その腹に毒針が飛んできた。


「っく……!」

フィオナが腕を抑えた。

毒が回り始める。


「フィオナ!」

マリアが駆け寄った。


「大丈夫、行って!」

青白い顔で微笑んだ。


「私は後ろから支援する……毒ぐらい……!」


* * *


奥の祭壇に立つ黒衣の男が、不気味に嗤った。


「ようこそ。死霊使いザルヴァ様のお出ましだ。」


声は湿った蛇のように這う。

周囲の死体がガタガタと立ち上がった。


「私の可愛い眷属たち……遊んでやれ。」


レミオが目を細めた。


「下衆が……!」


「光の槍、貫け!!」


炎と光が死者を焼く。

ロガンが盾を構え、前線を支える。


セリアが血を吐きながらも拳を叩き込む。


「死ねやぁあああ!!」


ザルヴァが薄い笑みを浮かべた。


「いいねぇ、死ぬのはお前たちだが。」


黒い瘴気が巻き上がる。

マリアの呼吸が苦しくなった。


「……ぐっ……!」


目の前に、燃える村の幻が揺れる。

両親が、血まみれで倒れる。


「お前のせいだ。」


ザルヴァの声が響く。


「お前が弱いから、誰も救えない。」


「やめろ……やめろ!!」


マリアの剣が震えた。


その時、フィオナが声を張り上げた。


「マリア!!!」


血を吐きながら、フィオナが光を放った。

「光よ……すべてを清めたまえ!!」


眩い光が、瘴気を吹き飛ばした。


マリアは目を見開いた。

父と母の幻は消えた。


「フィオナ……!」


「行きなさい……!」

声はかすれていた。


マリアは叫び、剣を振り下ろした。

光が再び剣に宿り、ザルヴァを切り裂いた。


ザルヴァは笑いながら崩れ落ちた。


「やっと……面白くなってきたのに……」


死体は灰となった。


* * *


静寂が戻った迷宮。

レミオは肩で息をしながら、火を灯した。


「フィオナを……手当てしろ。」


ロガンがマリアに促す。


フィオナはぐったりと座り込み、唇は青白かった。


「ごめん……私……毒が……」


マリアは泣きそうな声で叫んだ。


「フィオナ!!お願い、死なないで!!」


フィオナは微笑んだ。


「……まだ死なないわ。ただ、少し……休ませて。」


マリアは必死に回復魔法を唱えた。

手は震えていた。


セリアはその様子を見つめ、拳を握った。


「私も、もっと強くならなきゃな。」


レミオは静かに呟いた。


「……同感だ。」


ロガンは剣を地面に突き立て、低く言った。


「前へ進むぞ。ここで止まるわけにはいかない。」


その声に、マリアは涙を拭い、頷いた。

再び剣を握りしめた。



* * *


玉座の間にてマルファは荒い息を吐き、杖を強く握りしめた。

魔王城の長い回廊に、人間の兵の死体が転がっていた。

血が、壁にも床にもべったりと貼りついている。


予想外だった。

勇者パーティは人間の最高戦力のはずだ。

王国軍の主力とその勇者パーティは、確かにブリタニアにいると定時連絡でも掴んでいた。

ここ、魔王城は魔族の領域の中心。

それなのに、なぜこんなにも容易く魔王城の心臓部まで奇襲を受ける羽目になったのか。

ブリタニアの前線も、魔族の領域の哨戒網も、何をしていた。

どこで情報が漏れ、どこから敵が潜り込んだのか——それがわからないことが、何よりも苛立たしかった。


「私としたことが、不覚……。」


魔力の流れを乱し、血を吐きながらも魔法を放ち続けた自分の姿が脳裏に蘇る。

痛みが全身を走る。

数時間にわたる乱戦で、指も震えていた。


だが、何とか撃破した。

玉座の間にはもう敵はいない。

床には焦げ跡と砕けた石材、血だまりが残っていた。


マルファは傷だらけの胸を押さえ、冷たい石の壁に背を預けた。


「城の結界も壊れたし……これじゃ設備としては使いものにならない。」


息が白く揺れた。

吐き気が込み上げる。

魔力も、体力も、限界に近かった。


「……本当に、最悪だ。」


自分がこんなにも追い詰められるとは。

敵がここまで容赦ないとは。


魔王軍の四天王たちがいまブリタニアで王国軍を足止めしているのが、唯一の救いだ。

マルファは苦々しい表情で杖を握り直す。


「望ましくはないが……合流するしかない。」


ゆっくりと立ち上がる。

その足取りは重く、血が床に滴った。

だが、まだ倒れるわけにはいかない。


目を閉じ、震える指を落ち着けるように深呼吸をした。



******



ザルヴァを倒した迷宮を出た一行は、荒野の洞窟に身を潜めた。

フィオナの顔色は悪く、毒が完全には抜けきらない。


セリアの腕の凍傷も悪化の一途をたどり、包帯が血を滲ませていた。


焚き火の前、マリアは剣を抱いて膝を抱えた。

剣があっても、仲間を守れなかった。


「……私、弱い。」


誰にも聞かれないように呟いた。

だがその声に、フィオナがうっすら目を開けた。


「マリア……弱いって……認められる子は、強いわ。」


「フィオナ……。」


「でもね……そのままだと……誰も……救えない。」


手を伸ばして、マリアの頬を触れた。

冷たかった。


「……ごめん。」


マリアは涙を落とした。


* * *


翌朝。

行軍を再開した彼らの前に、黒煙が上がっていた。


村が燃えていた。


「また……!」


マリアが駆け出す。

だがロガンが腕を掴んだ。


「待て!」


村には巨大な影があった。

赤黒い肌、角。

人間を投げ飛ばし、踏みつぶす。


剛力の鬼——四天王のグランディス。


「人間が抵抗しても無駄だぁあ!!」


笑いながら民家を破壊する。


同時に、上空を黒い竜が旋回した。

黒炎を吐く四天王の竜騎士フェルモルがいた。


「二人同時……!」


レミオが顔を歪めた。


ロガンが剣を抜いた。


「俺が行く。」


「待って!」

マリアが叫ぶ。


ロガンは振り返った。

険しい顔だったが、目は優しかった。


「お前はフィオナとセリアを守れ。お前たちが最後の希望だ。」


「でも……!」


「いいから行け!!」


ロガンが走り出した。


* * *


グランディスはロガンを見つけて嗤った。


「お、王国の犬が来たか!」


「黙れ。」


剣を構えたロガンは、地を蹴った。


刹那、二人の巨体がぶつかった。

剣と拳が何度も交錯し、地面が抉れた。


「おもしれえ!!」

グランディスが大声で笑った。


「これだ!こういうのが欲しかった!!」


ロガンは血を吐きながらも剣を振るった。

肩を砕かれ、足を折られても立ち上がった。


「なぜ立つ!?もう終わりだろうが!!」


ロガンは牙を剥いた。


「守るものがあるからだ!」


最後の一太刀を振り下ろし、四天王グランディスの首を落とした。


だがロガンも、その場に崩れ落ちた。

動かなかった。


* * *


その頃、フェルモルは上空から炎を吐き、セリアとレミオを襲った。


「マリア、フィオナを連れて逃げろ!」

レミオが叫んだ。


「でも、レミオ!!」


「行けえええ!!」


レミオの詠唱が極限まで高まった。


「灼熱の業火よ……世界を焦がせ!!」


大爆発が四天王フェルモルを包んだ。

黒い竜が悲鳴を上げて墜落する。


だがその爆発にレミオも巻き込まれた。


* * *


火が収まった後。

辺りは瓦礫と焼け跡だった。


マリアはフィオナを背負い、崩れた家の影に隠れていた。


周囲には死体と、血と、煙しかなかった。


「セリア……ロガン……レミオ……。」


返事はなかった。

セリアとは戦いの逃避行のさなかに、はぐれてしまった。


フィオナは毒が回って高熱を出し、荒い呼吸をしていた。


「どうして……こんなことに……」


マリアは叫ぶ声を殺した。


自分が弱いからだ。

自分が、勇者なのに、何もできなかったから。


震える手で、フィオナの頬を撫でた。


「ごめん……ごめん……」


その手は冷たく、涙で濡れていた。



* * *


フィオナの体はマリアの腕の中でぐったりとしていた。

毒で高熱を出し、呼吸は浅い。


「お願い、目を開けて……フィオナ……!」


フィオナはゆっくりと目を開けた。

かすかに笑った。


「……マリア……本当に……手がかかる子ね……」


「ごめん……ごめんね……!」


「……でも、それでいいの……それが、あなただから……それで……よかったのよ……」


フィオナの手がマリアの頬を撫で、力なく落ちた。

その瞳から光が消えた。


マリアは泣きながらその手を両手で包み込んだ。


「フィオナ……やだよ……もう……誰もいなくならないで……」


返事はもうなかった。

風が吹き抜け、瓦礫の隙間に砂を運んでいった。



******


廃墟と化した村を離れ、マリアは一人、夜の荒野をさまよっていた。

剣を杖のように突き立て、足を引きずるように歩いていると、仲間の声が聞こえる気がした。


『守ってやる。』

ロガンの声。


『気張れよ。』

セリアの笑顔。


『生きろ。』

フィオナの優しい手。


『最後まで、ちゃんと考えろよ。』

レミオの皮肉交じりの声。


マリアは泣きそうになりながら、唇を噛んだ。


「絶対に……負けない。」


風が冷たい。

血と土の匂いが鼻を刺す。

月明かりが頼りない光を落としていた。


やがて、小高い丘に辿り着いた。

マリアは座り込み、泣きたくても涙が出なかった。


その時、丘の上にもう一つの人影があった。

銀髪が月光を反射し、赤い瞳が光る。

長い黒衣をまとった女が、夜風に吹かれていた。


「……誰?」


声が震えた。

その女がゆっくり振り返る。


「……マリア。」


聞き覚えのある声だった。

だがどこか、酷く疲れていた。


「私は……マルファ・オルランド。」


その名を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

勇者の任命を受けたときから、何度もその名を聞かされた。

魔王。魔族を統べる女。人間を滅ぼす者。


「お前……が……魔王……?」


声がかすれた。

膝が震えた。


「ずっと……ずっと私たちを、だましてたの……!?」


マルファは目を伏せた。

夜風が二人の間を吹き抜ける。


「……だましたつもりはない。止めたかった。でも……止められなかった。」


「ふざけるなあああああ!!」


マリアの声が夜空を裂いた。

怒りで震える手が剣を握りしめる。


「私の家族を!!村を!!仲間を!!ロガンも、レミオも、セリアも、フィオナも!!みんな!!お前らのせいで!!」


剣が光を帯びた。

魔力が荒々しく解放される。

マリアの目には涙が溜まり、声は嗚咽に変わった。


「……返せ……返せよおおお!!」


マルファは苦い顔をして杖を構えた。

「……マリア、やめなさい。もう、これ以上……」


「やめられるか!!」


マリアが飛び込む。

剣が閃光を放つ。

マルファは防御魔法を展開し、光と闇が衝突して爆風を生む。


地面が抉れ、丘が割れる。

二人は何度も衝突し、魔力と剣撃が夜空を照らした。


マリアの剣が何度もマルファの防御を砕きかけた。

だが、マルファはその都度立て直した。

苦しそうに息を吐きながらも、鋭い魔力の制御で押し返す。


「マリア、お願い、もうやめ——」


「うるさい!!」


マリアは涙と怒りで何も見えなかった。

剣を振り下ろすたび、仲間たちの声が蘇る。

笑顔が、血の色に変わる。


「全部……お前のせいだ!!」


その剣を、マルファは最後に受け止めた。

魔力で強化した腕で弾き、マリアを地面に叩きつけた。


マリアの呼吸が乱れ、剣を取り落とした。

動けなかった。

全身が痛みで悲鳴を上げた。


マルファがゆっくりと歩み寄り、マリアの首に手をかけた。

その瞳は赤く光り、そして揺れていた。


「……ごめん。もう、これ以上争えない。終わりにしよう。」


その瞬間、空が裂けた。

空間がねじれ、重力が狂った。

世界が音を立てて沈み込む。


ビッグクランチ。

宇宙が自らを潰し、終わりへ向かう音が響いた。


マリアはマルファの手に首を締められながら、崩壊する空を見た。

二人の影が、ゆっくりと呑み込まれていった。



******



王都の石造りの冷たい中央作戦室。

窓からは澄み渡る青空が広がっていた。

地図や報告書が散らばる机を囲んで、老齢の国王グランバニアと枢機卿バルバトスが向かい合っていた。


扉が軋む音がした。

傷だらけの革鎧を着た女が、杖をつきながら入ってきた。


「セリアか。生きていたか。」

グランバニアが目を細めた。


セリアは深く息を吐き、軽く頭を下げた。


「はい。実は私は氷の魔女セリクシアの……遠い縁戚なのです。一族の氷耐性であの凍傷も……なんとか乗り切れました。」


バルバトスが興味深そうに眉を上げた。


「ほう。血は争えんというやつか。」


「恐縮です。」

セリアは肩をすくめた。


グランバニアが眉間を揉む。


「……それで、報告を。」


セリアの声が低くなった。


「ブリタニアは奪還しましたが……荒廃がひどいです。民は帰る家も畑も失い、不満が渦巻いています。」


グランバニアは重く溜息をついた。


「頭が痛い。勝ったはずなのに、この有様か……。」


バルバトスも鼻を鳴らした。


「勝利は得た。だが戦費はコストオーバーランだ。おかげで私の“次期教皇”の座も遠のいた。」



セリアは冷めた笑みを見せた。


「……そういえば、あの“オルランドの周囲に渦巻く汚職の噂、密売の記録”……あんたがでっち上げたんだと思ってたよ。」


バルバトスが口の端を吊り上げた。


「当然だろう。だが、奴が真っ黒だったのも事実だ。」


グランバニアが鼻を鳴らした。


「普段の行いが悪いからだ。自業自得よ。」


セリアは小さく笑い、踵を返した。


「……報告は以上です。これにて失礼します。」


バルバトスは目を細めたまま送り出し、グランバニアは黙って頷いた。


* * *


石造りの中央作戦室を出たセリアは、重い扉を閉めて廊下を歩いた。

革のブーツが硬い床を叩く音が響く。


やがて外へ出る。

冷たい風が髪をなぶった。


セリアは立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

そしてゆっくりと顔を上げた。


そこには、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。


「……行くか。」


小さく呟き、傷だらけの身体を引きずるようにして歩き出した。

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囮にされた勇者が見た世界の終わり インバランスなケーパビリティ @xesonicex

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